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六十、襲いかかるもの

 生徒会室でくつろぎ始めた斗真と優征に、湊はため息をついた。  昼過ぎに突然やって来た二人だ。一体何をしに来たのか、湊が作業しているパソコンを覗きこんだり、ひと通り揃っているお茶やコーヒーなどのセットを勝手に弄っては、二人してティータイムを始めている。  今年度の部活動や行事で使用した予算の計算をしていた湊は、邪魔をしに来たとしか思えないこの二人に集中を削がれ、諦めたようにパソコンを閉じた。 「おい、何しに来たんやお前ら」 「斗真が珠生に会いたなってな、俺も連れてこられただけや」 と、優征がコーヒーを飲みながら言った。 「ばっかやろう! そういうこと言うなって!」 と、斗真は真っ赤になっているところを見ると、その通りなのだろう。  珠生が男女問わず人を惹きつけるようになったところも、いつぞやの千珠のようだなと思いながら、湊はため息をまたついた。   「起きれたら来るって言ってたから、いつ来るか分かれへんで」 「起きれたら? 何なん、病気でもしてんの?」 と、斗真は心配そうな顔をする。 「どうせヤりまくってるだけやろ」 と、優征が当たらずとも遠からずのことを言ったので、湊はぎくりとしたが、斗真はべしと優征を殴っている。 「珠生がそんな事するわけないやろ!」 「いってぇ。あんなぁ、どんなイメージ持ってんのかは知らんけど、あいつ相当エロいプライベート送ってんで」 「そ、そ、そ、そ、そんなわけないやん!! 珠生は天使やで! 天使がそんなことするわけないやん!!」  こめかみに青筋を浮かべた優征に、真っ赤になりながら鼻息も荒く掴みかかる斗真。その喧嘩が派手になる前に、湊は二人を制止した。 「やかましいねん! 喧嘩は外でやれ、アホ!」 「まーイライラすんなって、コーヒー飲んだら帰るわぁ」 と、優征は気のない口調でそんな事を言う。  その時、バンっ! と鋭い音とともに生徒会室のドアが開き、亜樹が入ってきた。  亜樹は生徒会室にはそぐわない二人組が寛いでいるのを見て、一瞬目を丸くした。 「天道やん、戸部さんも」 と、斗真がのんきな声でそう言った。 「なにやってんの? 二人共」 と、同じバスケ部の百合子は亜樹の後ろから生徒会室に入ると、椅子の一つに座った。  だが亜樹はつかつかと湊に歩み寄ると、「ちょっと来て」と言い放ち、すたすたと廊下へ出ていった。バスケ部の三人はぽかんとして亜樹の行動を眺めていたが、「何やねん」とぶつぶつ言いながら出て行った湊がドアを閉めると、再び部活のことをしゃべりはじめた。  亜樹がひどく険しい顔をしているのを見て、湊は首を傾げる。 「どした」 「感じひん? 何か、嫌な予感がすんねん」 「……え?」 「はよう帰ったほうがええよ。百合子連れて、はよ帰り」 「それって……水無瀬菊江がらみか」 「そうやと思う」 「……蜜雲」 「はっ」  湊が名を呼ぶと、湊の影から急に一人の幼女が姿を現した。亜樹は驚いて、幼女を下僕のように使っている湊を不審げな目つきで見上げている。 「何かあったか」 「市内の瘴気が濃くなってきております。しかし、その正体は、感じ取ることができておりませぬ」 「……何だって」 「何この子。まさか柏木……あんた、そういう趣味なん……?」 と、亜樹。 「ちゃうわ! そんなわけないやろ! ……そんなことはどうでもええねん、蜜雲、ちょっと調べてくれ。学校の結界が、ちゃんと働いてるか」 「承知」  亜樹の問を無視して、湊は蜜雲にそう命じた。亜樹はまた煙のように消えた蜜雲に驚いている。 「妖か」 「そうや。先輩の使い魔で、この学校を見張ってる奴やで」 「へぇ……」 「とにかく、あいつらは帰そう。お前も、はよう帰ったほうがええ」 「あんたはどうすんねん」 「珠生らが多分ここへ来るやろうから合流するわ」 「あんたは百合を送って行きいや、危ないやろ」 「けど……」  その時、一瞬にして学校の気温が五度くらい下がったような感じがした。二人はハッとして、辺りを見回す。  電気を点けていなかった特別教室棟の四階は、数分前と比べてえらく暗くなったような感じすらした。もったりとした、湿気を含む重たい空気が、学校全体を包み込んだような感覚だ。 「……何や、これ」 「はよ……はよう出よう! 危ないわ!」  亜樹に急かされて、湊は頷いた。生徒会室に戻ると、すっかりくつろいでバスケ談義に花を咲かせている三人を急かして立たせる。 「おい、帰るぞ。ほら……あれや、大雪やろ!?」  湊に腕を掴まれて、百合子は怪訝な表情を浮かべながら立ち上がった。優征と斗真も、亜樹にバシバシと背中を叩かれ急かされて、文句を言いながら立ち上がる。 「地下鉄やし大丈夫やって」 と、優征が言うと、 「そういう油断があかんねん! さっさと帰るで!」 と亜樹が急かす。 「おお、こわ」  斗真がそう呟く中、五人は四階から下へと降りていく。  普通のペースで歩くバスケ部三人に苛立ちながら、亜樹は湊を見上げる。湊は、焦るな、という表情でゆっくりと首を振った。 「……あれ、閉まってる」  特別教室棟から、昇降口のある普通教室棟へと向かうには渡り廊下を歩かねばならない。だが、渡り廊下に通じるドアの鍵が閉まっていた。優征ががちゃがちゃとドアノブを回すが、それはびくりとも動かない。 「鍵、もらってこようか」 と、百合子がすぐ脇にある職員室のドアを開けようとして、あれ、と声をあげる。 「職員室も閉まってる……やだ、うちら忘れられてるん?」 「でも……中に若松おるで」 と、ドアに嵌った窓ガラスを覗き込みながら、優征はそう言った。 「うそ。先生! せんせーい、寝てるの?」  湊も優征の横から職員室を覗きこむ。手前の列に席のある若松は確かにそこにいる。だが、机に突っ伏してしまっており、眠っているように見える。    暗い職員室の中には、英語教師と教頭の姿も見えたが、その二人も机に突っ伏している。 「……なんやこれ」  斗真が少し怯えたような声を出す。  湊は、職員室の机の陰で、すっと蠢いた影に目を見張った。  突っ伏している英語の女性教師の横に、黒い影が見えた。  黒い身体には白くぽっかりと空いた虚ろな目がある。まるでこちらを伺うように、じっと警戒しているように動かない。  湊は息を呑み、唇を噛んだ。  そして、つかつかと渡り廊下へ通じるドアの前に立つと、そのドアノブを思い切り蹴り飛ばす。  バァン! と鉄の扉が開き、すうっと冷たい空気が流れ込んでくる。  湊がそんな暴挙に出るなど思っても見なかったバスケ部三人は、ぎょっとして湊を見た。 「か、柏木……どうしたん」  斗真がおそるおそる声をかけると、湊はさっさと百合子の手首を掴み、渡り廊下からそのままグラウンドへ出ていく。亜樹も湊の動きに従って、その後を進んだ。優征と斗真も顔を見合わせ、湊についていく。 「待ってよ、靴履き替えてへん!」 と、ぐいぐいと湊に引っ張られながら百合子が声を上げた。しかし、湊の険しい横顔に、はたと黙る。 「……もうどこもかしこも閉まってたやろ、もう今日はそのまま帰ろう」 「おい、柏木、一体どうしたんや」 と、小走りについてくる優征も、珍しく戸惑った声でそう尋ねた。  湊が横顔だけで振り返った時、蜜雲がまた音もなく姿を現した。今度は深い紫色の狩衣に身を包んだ、凛々しい中年男性の姿をしている。 「湊どの」 「うわ!! 何やこいつ!!」  遮るものも何もないグラウンドのどまんなかに突如現れた平安貴族風の男に、優征と斗真が声を上げた。  百合子には見えていないのか、きょろきょろとあたりを見廻していた。  湊は愕然として、二人を見た。 「お前ら……見えるんか」 「み、見えるって……何、どういうことやねん」 と、跪いている蜜雲を気味悪そうに見下ろしたまま、優征はそう言った。斗真は完全に優征の背後に隠れながら蜜雲を見ていた。 「ほう、珠生様のくらすめいとのお方たちですな。随分とお仲がよろしいようで、かなり影響を受けておられるごようす」 と、蜜雲は事も無げにそう言った。 「た、珠生様?」 と、斗真が首をひねる。 「さておき。湊どの、私達は、おそらくここから外へ出ることは出来ませぬ」 「何やって?」 「佐為様が張られた結界が、裏返っているのです」 「裏返る? なんやそれ」 「外から妖を入り込ませないための結界ですが、今は中にいるものを外に出せないように、別の術式をかけられているのです。その状況の中、時限式の術で、この学校の中に式を呼び込んでいるのでございましょう」 「……そんな。じゃあ、さっきの影は……」 「おそらく、水無瀬菊江の式でございましょうな」  蜜雲の細い目が、じっと湊を見上げていた。訳の分からない様子の斗真と優征、そして百合子は顔を見合わせるばかりだ。 「柏木、電話が通じひん」  亜樹が携帯電話を片手に、少しばかり焦った声を出した。湊はぞっとした。 「……こんなことが」 「なぁ、どうしたん? はよう帰ろうや」 と、斗真がまた怯えた声でそう言った。百合子も不安げに湊の腕をつかむ。 「……蜜雲、外におった先生らは?」 「それが、中から呼びかけているのですが、気づいてくださらないのでございます」 「何やと」  ——まさか、既に殺害されている……?  湊は心底焦った。こんなに焦ったのは、人生で初めてかもしれない。  ここにいるのは、術の使えない湊と亜樹。しかも頼みの弓は、一昨日の見回りの時に舜平の車に預けてしまっている。  亜樹はじっと湊を見上げて、言った。 「うち、防御結界の札を何枚か持ってる。これで何とか耐えるしかないわ」 「……そうか、そうやな。蜜雲、いざとなったら、こいつら頼むで」 「承知」 「珠生と先輩なら、きっと気づいてるはずや」  湊が亜樹を見つめてそう言うと、亜樹もこっくりと頷いた。 「普段は鈍いけど、こういう時はやるやつやもんな」 と、亜樹がそんなことを言うので、湊は思わず笑っていた。 「確かに」 「なんで珠生の名前が出てくんの? え、お前ら一体、何やってんねん」 と、優征も珍しく不安げな顔である。湊は百合子の肩を抱いて、安心させるように微笑んで見せてから、優征たちに向き直った。 「とりあえず、校門の方へ行こう。ひょっとしたら、出れるかもしれへん」 「……え?」 「ほら、行くで」  湊がみなを率いてグラウンドの中央から校門の方へ歩き始めようとした時、百合子の手がぐいと湊の腕を引っ張った。 「どうしたん? 怖ないから、な?」 「み……湊……」 「ん?」 「足……動かへん。何かに、足首、掴まれてるような……」 「え?」  唇を震わせながら、恐怖の表情で湊を見上げる百合子の足元を見て、湊の目が見開かれる。  黒い蛇のようなものが、ぐるぐると百合子の左足首に絡み付いていたのだ。 「うわぁあ!! 何やこれ!!」 と、優征と斗真が悲鳴を上げる。それが見えていない百合子は、二人の悲鳴を聞いて、更に表情を強ばらせた。  先ほど職員室にいた黒い影と、同じ目をしていた。  百合子の足首を絡め取っているそれは、じっとうつろな白い目で湊を見上げている。  見る間に、黒い蛇の形をした影が、みるみる肥え太っていく。まるで、百合子の身体から栄養を奪っているかのように。 「……あかん!」  湊は思い出した。蜜雲からもらった札が、制服の内ポケットに入っている。湊は札を懐から出すと、百合子の足に巻き付き、みるみる大きくなっている黒い蛇に叩きつけた。  ぎぃぃいいい!! と世にも恐ろしい悲鳴を上げながら、その影は地中に吸い込まれていくように消えて行く。ふらついた百合子の身体を抱きとめて、そのまま横抱きに抱え上げた。 「柏木! 下……!」  亜樹の強張った声に、弾かれたように下を見ると、グラウンドからぼこぼこと黒い蛇が生えてきている。それは何とも言えずおぞましい景色だった。  ぬらぬらと光る黒い身体をくねらせて、グラウンドの土を盛り上げながら顔を出す無数の黒い蛇が五人を囲み、白い目を一斉にこちらに向けた。 「や……こんなん……ありえへん!」 と、亜樹がふらつく。 「なんやこれは……」  湊は、混乱して泣きじゃくる百合子を抱き締め、呆然と圧倒的な数の蛇を見渡すことしかできなかった。  しかし、もっと愕然としているのは斗真と優征だ。全身を硬直させ、その場から一歩も動くことができない。  うつろな白い目は、全てが五人の方を向いている。蛇のような影たちは鎌首をもたげて戦闘態勢を取っている。こちらが気を隙を見せれば、すぐに総出でこちらに飛びかかってくるであろう。 「天道、結界を張るんや」 「……分かった」 「蜜雲、一瞬でいい、あいつらの気をそらしてくれるか」 「あい分かりましてございます」 「よし、天道、ええか」 「……うん」 「蜜雲、行け!」  蜜雲は人の姿から巨大な化け狐の姿へと変化した。瞬間、黒い蛇たちは突如現れた巨大な妖に驚いたように、一斉に蜜雲の方へ注意を向けた。  それと同時に、亜樹は片膝をついて口に防御結界の札を咥えて印を結び、結界を発動させた。陰陽道で使われる術の一つだが、こうして呪符を使うことで亜樹でも発動させることが可能だ。  白金色の光が、五人を包み込む。  その術に目をつけた黒い蛇たちが、今度は一斉に結界の方へと身を躍らせてくる。 「うわあああ!」  優征と斗真が叫びを上げて腰を抜かす中、湊はパニック状態の百合子を抱き寄せた。  結界のおかげで、蛇たちの攻撃は中へは伝わってこない。しかし何度も何度も繰り返し責め立ててくる黒い影に、亜樹は徐々に冷や汗をかき始めた。  ——……数が多い……! こんなん、いつまで持つか分からへん!!  強い視線で外を見つめながら結界を張り続けている亜樹の姿を、優征と斗真は呆然と見つめていた。  結界の外では、空中を駆け回り蛇を食らう蜜雲が暴れまわっている。  肩を震わせ、結界を一人で為し続けている亜樹の助けをすることもできない。  湊はぐっと奥歯を噛み締めた。  ——何で予想できひんかったんや、俺は! 学校に珠生を脅しに来た奴らや、こうなることは、なんぼでも考えられたはずなのに!! 「くそ……!!」  悔しさに震える湊の身体を感じて、百合子は泣き濡れた顔を上げた。そこには、見たこともないくらい張り詰め、悔しさと焦りをにじませた湊の横顔があった。  その時、バイクのエンジンが唸りを上げる音と、分厚いガラスが砕け散るような音が頭上に響いた。  五人が顔を上げると、黒のライダーススーツにフルフェイスヘルメットを身に纏う人物が、玉虫色に揺らぐ空を切り裂き、グラウンドの中へと身を躍らせる姿が視界の中へ飛び込んできた。  

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