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六十一、結界を切り裂け

 舜平は、車で混み合った烏丸通を、まっすぐに南下した。車と車の間を縫って、ぐんぐんと学校へと近づいていく。  舜平の後ろで前傾姿勢を取っていた珠生は、ぴくりと何かを感じ取って身体を起こす。  ——……天道さんの声? 湊も……いるのか?  何を言っているのかはわからなかったが、確かに、亜樹が助けを求めるような声と、湊の緊迫した声を聞いた気がした。 「曲がるで!」 と声がかかる。すぐさま右折するバイクの後ろで、珠生は車体をぎゅっと膝で締めた。 「舜平さん! あの二人! 宮内庁の人だと思う!」 「え……!」  何者かの霊気を感じ取った珠生が指さした方向には、二人の男がいた。ちょうど、明桜高校の校門の手前にある電柱の陰に立っている。二人とも一見するとただの市民のようにしか見えないが、確かに霊力の気配を感じる。  舜平はエンジン音もけたたましく二人の前に回りこむと、片足をついてバイクを止めた。 「おい! 中はどうなってる!?」  エンジン音にかき消されまいと、舜平が大声で二人にそう尋ねた。二人はぽかんとしていたが、二人の強い気を感じ取ったのか、急にしゃきっと居住まいを正した。 「し、市内の瘴気は濃くなっていますが、今のところ学校内は変化がありません!」 と、はきはきした声で赤松がそう言った。 「我々はここ数日ここでこの学園を見張っていたのですが、今日も学内は静かなもので……」 と、佐久間も付け加える。 「変化がないだって!? そんなわけないだろ!!」  バイクの後部座席に乗っていた珠生が、厳しい声でそう言った。二人はさらにしゃきっと背筋を伸ばして立ち直す。 「分からないのか!? この……禍々しい気……」  珠生は正門からグラウンドの中を見た。一見、いつもの平穏な学校にしか見えないが、どうも何か様子がおかしいのだ。  正門の門扉は開いているが、人気はない。午後からの警報に備えて、生徒たちが帰っていったことを二人から聞くと、珠生はバイクから飛び降り、門をくぐって学校へ入ろうと歩を進めた。  ところが、珠生の身体は中へは入れなかった。  ばちばちばちっと、花火が炸裂するような音とともに、珠生の身体が弾かれる。 「珠生!」  ヘルメットを脱ぎ、思わず駆けつけようとした舜平であったが、ひらりと身体を回転させて身軽にアスファルトの上へ降り立つ珠生を見て、ほっと胸をなでおろす。 「……結界が、裏返ってる……!」  赤松が、信じられないという声でそう言った。どこか聞き覚えのある言葉に、珠生はヘルメットのまま振り返る。  説明を聞き、珠生はぐっと奥歯を噛んだ。しかし、これくらいの強度ならば、破れないこともないかもしれない。  珠生は舜平に歩み寄った。 「俺が結界を破る。結界が綻んだら、舜平さんはそのまま中へ突っ込んで」 「破れるんか? 彰が張った結界やろ」 「大丈夫。これくらいならいけるよ」 「しかし……これは絶対防御系の中でも最強クラスの術で……失敗したらあなたもどうなるか」 と、赤松が慌てて珠生を止めようとした。  珠生はシールドを上げて、見慣れない宮内庁の役人をじっと見据えた。珠生の眼差しを受け、男ははっとしたように目を瞬いた。 「中で必ず何かが起こってる。議論してる暇はない」 「……あ。あなたは……」 「時間がない。行くぞ」 「よっしゃ」 「こういう時、道が狭いと困るな」  珠生はそう言って、ビルに囲まれた学校を見上げたあと、付近では一番高い、学校の隣に立つ商社ビルに目をつけた。そしてそのビルの壁を蹴り、社屋の屋上へと登っていった。  あまりの身軽さに、赤松と佐久間が口をあんぐりと開きっぱなしになっている。そして、再び高らかに響いたエンジンの唸りに、二人はびくっと飛び上がった。 「あんたらはどいとけ! 危ないで!」  まるで闘牛が土を掻くように、舜平はエンジンを吹かして白煙を上げながら、珠生の合図を待った。ドゥン……ドゥン……とエンジンが低く唸る音が、あたりに重低音を響かせる。  珠生は舜平のエンジン音を聞きながら、黒革の手袋を外して、そっと胸の前で合掌した。  すぅっ……と光り輝く直刃の剣が掌から現れ、珠生は右手でそれを強く握りしめた。  ——湊、天道さん、いるんだろう、その中に。 「今、行くから」  一見したところ誰もいない静まり返った学校の周りに、ぼんやりと玉虫色の膜が見えた気がした。シールドの奥で、珠生の目が光る。  助走をつけて、珠生はビルの天井を蹴り、空へ跳んだ。  たんっという音とともに、珠生の身が宙に翻る。  珠生は宝刀を両手で逆手に握りしめると、学校をドーム状に覆う結界ヘ、思い切りそれを突き立てた。  刀身は結界の中へ呑み込まれ、ビシッ……ビシッ……と鋭い音を生む。しばしの静寂のあと、亀裂の入った結界の内側から、眩い光が漏れ出した。それはまるで、珠生を退けようとしているかのように激しく燃え上がる。  それでも珠生は怯むことなく、あらんかぎりの妖気をそこに流しこみ、更に深く宝刀を押し込んだ。 「おおおおお!!!」  珠生の身体から青白い妖気が燃え上がる。シールドの奥の瞳が赤く染まった瞬間、結界が崩れた。  分厚いガラスが砕け散るような鋭い音が響いた瞬間、舜平はアクセルを握り込み、トップスピードで結界を突き破った。  がらがらと瓦解していく結界の中、赤松と佐久間は、おぞおぞと蠢く黒い蛇の群れをはっきりと見た。 「こ……これは何や……!? 佐久間! お前は佐為様に連絡を!」 「あ……はい!!」  赤松は上着を脱ぎ捨て、迷うことなくその中へと突っ込んでいった。  佐久間はそのあまりのおぞましい光景気圧されていたが、ばしばしと己の頬を打ち、すぐに携帯電話を取り出した。  +  珠生は空中でひらりと身体を一回転させると、とん……と身軽にグラウンドの上に降り立った。  優征と斗真はぽかんとして、突如空から現れた人物を見上げている。 「珠生……!」 「えっ!?」  安堵したようにその名を呟いた湊を振り返って、斗真と優征は同時に素っ頓狂な声を出した。  珠生が現れたことで、蛇たちは一斉に身を引き、改めてこちらの様子を伺っているようすだった。珠生は宝刀を順手に握り直すと、グラウンドの上をのたうっている黒い蛇を見渡した。  そして、ふっとその場から消えたかと思うと、常人の目には留まらぬほどの俊敏な動きで、亜樹の張った結界の周りに群がっていた蛇たちを薙ぎ払ってゆく。  刃が閃くたびに、銀色の光の筋が見えるようだった。ひらりひらりと身を翻しながら黒い蛇を切り裂いていく姿は、まるで優美な舞のよう。速さと雅さを併せ持つ珠生の動きを、湊と亜樹、そして優征と斗真は、固唾を飲んで見守っていた。  程なく、エンジン音を唸らせて黒い大型バイクが学園内に飛び込んできた。舜平のバイクだ。そして、赤松と佐久間も、その後から駆け込んで来る。  グラウンドの砂利をまき散らし、亜樹の結界の前で停車した舜平は、駆け寄ってきた赤松らに向かって、凛とした声で指示を出す。 「結界を! こいつらを頼む!」 「それは私が!」 「頼むで! 俺は珠生に加勢する」  舜平はバイクを降りると、素早く黒革の手袋を外して印を結んた。 「ちょっと荒々しいことになるから、しっかり結界を張れ」 「はい!」  赤松は亜樹のもとに駆け寄り、肩に触れて声をかけた。 「もう大丈夫、私が替わります」 「……あぁ」  亜樹はずっと結んでいた印を解いて、口からぽろりと呪符を取り落とした。そしてその場に崩れるようにへたり込む。  そしてすぐさま赤松は印を結び、唱えた。 「陰陽五行結界術・錐行(すいぎょう)! 急急如律令!」  今まで亜樹が張っていたものとは比べ物にならないほど強固な結界が、亜樹たちの周りを包み込む。へたり込んだ亜樹はのろのろと顔を上げて、珠生と舜平の背中を見つめ、ほっとしたように胸を撫で下ろした。 「土爆天閃(どばくてんせん)!! 急急如律令!」  舜平がそう唱えた瞬間、グラウンドの下にダイナマイトでも仕掛けてあったかのごとく、土が盛り上がって激しく爆ぜた。その衝撃で、黒い蛇たちが霧散して消えていく。  そのとき、一際大きな黒い影が、土の間からぬうっと姿を現した。  優征たちの身長と比べても、ゆうに二回りは大きいだろう。ぬらぬらとした滑りをまとった巨大な妖の不気味さに、斗真と優征はまた目を瞠った。  しかし珠生は、ためらうことなくそこへ突っ込んでいく。フルフェイスのシールドの奥で鋭く珠生の目が光り、握りしめた宝刀に光が漲る。    地を蹴り、高く舞い上がった珠生が、刃を袈裟斬りに振り下ろした。  すると、その黒い影のような化物はぼたぼたと湿った嫌な音を立てながら、溶けるように消えてゆく。本体を失った黒い蛇たちも、泡のように消えていった。  あまりの壮絶な風景に、湊も亜樹も息を呑む。二人の圧倒的な力を目の当たりにしてしまえば、ただただ言葉を忘れて見守ることしかできない。  土煙が収まり始めた頃、赤松は術を解いた。   湊は放心状態の百合子を抱き締めたまま、じっとその風景を見つめている。 「天道さん! 湊!」  聞き慣れた声がする。珠生が、湊たちの元へ駆け寄ってきた。  不可思議な現象に気圧されている優征と斗真は、思わず怯えたように身を引いている。珠生は、まず亜樹と湊の前に座り込み、無事を確認するように二人の顔を覗き込んだ。 「二人とも、怪我はない?」 「……珠生、すまん」 「何謝ってんだよ、戸部さんは大丈夫?」 「いや……さっきから目ぇ開けたまま動かへん……」 「怖かったんだね。天道さん、天道さんはどう?」  珠生に肩を軽く揺らされて、亜樹ははっとしたように目を上げた。 「沖野……」 「ああ、俺だよ」  珠生がするりとヘルメットを脱ぐと、胡桃色のさらりとした髪の毛が露わになった。その姿を認めた優征と斗真は、あんぐりと口を開けたまま、もう一度目を見合わせる。 「天道が……ずっと結界張っててくれてん」 と、湊が言った。 「そう、そうなんだ……すごいじゃん、天道さん」  いかめしい黒づくめの姿から、見慣れた珠生の優しい笑顔が現れた途端、亜樹の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れだした。 「お、きの……うち……」 「怖かったろ、もう大丈夫だから」  ひくひくっとしゃくり上げながら泣く亜樹の頬を両手で包み、親指で涙を拭いながら、珠生はねぎらうように笑顔を見せる。 「こわかった……もう、駄目かと思って……」 「よく頑張った、すごいよ、天道さん」  へたり込み、顔を覆って泣きだした亜樹を、珠生はぎゅっと抱きしめた。珠生の手を離れた宝刀が、光とともに霧散して消えてゆく。  震える亜樹の後頭部を撫でていると、この細い体でよくここまで耐えたものだと、亜樹を労りたい思いでいっぱいになった。 「湊、ほれ」  皆の元に歩み寄ってきた舜平は、湊に矢筒を投げよこす。それを片手で受け取った湊は、力なく舜平を見上げた。 「舜平……」 「もう肌身離せへんな、それ」 「あぁ……すまんかったな」 「何言ってんねん」  そう言ってヘルメットを外した男の顔を、優征と斗真は見たことがあった。クリスマスの朝に珠生の家に訪ねてきた、あの大学生だ。  湊とも親しげにしている舜平のことを、二人はまじまじと見上げていた。舜平は二人のそばにしゃがみ込む。 「お前らも、大丈夫か?」 「あんた……なんで……」 と、優征。 「びっくりしたやろ、ごめんな」  舜平はちょっと困ったような顔で笑って見せ、今度は尚も亜樹を抱きしめている珠生を見た。舜平はゆっくりと立ち上がり、亜樹と珠生の頭を片方ずつの手でそれぞれに撫でた。すると亜樹は顔を上げ、くしゃくしゃになった泣き顔で舜平を見上げた。 「舜兄……」 「やるやん、亜樹ちゃん。よう守ったな、こいつらのこと」 「うん……」 「おい、お前ら、百合子のこと頼む」  不意に、湊が口を開いてそんなことを言った。百合子を託された斗真と優征は、今度は湊のほうを見た。放心状態の百合子を斗真の手に渡すと、湊は黒い円筒状のケースから弓を取り出して組み立てはじめる。矢筒を背中に背負い、湊はさっと立ち上がった。 「悠長なことしてられへんで。術者がこの中におるはずや」 「ちょっと待ってください! あなた方だけで中に踏み込ませるのは……!」  立ち上がった赤松幹久が、今にも学校内へ飛び込んでいきそうな勢いの舜平たちを諌めた。赤松は必死に続ける。 「今、部下に佐為様たちへの連絡をさせています。もうすぐで、応援が来るはずですから、もう少し……」 「佐為にはもう俺から、」  舜平が言葉を切る。  遠くに聞こえていたバイクの音が、徐々に近づいてくることに気づいたのだ。複数のバイクのエンジン音が重なり合って町中に響き渡っていて、かなりの音量だ。

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