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六十六、痛み

 水無瀬文哉は、力なくどさりと床に倒れ伏した。  ここは京都市左京区にある、古びた病院の一室である。蔦の巻きついた病院の看板には”岩倉病院”と書かれているが、実際の岩倉病院は二十年ほど前にすでに閉鎖されている。この建物を、宮内庁が買い取ったのだ。  深泥池(みぞろがいけ)という、京都では有名な心霊スポットにほど近く、いつも霧が出ている不気味な土地柄のため、ここを訪れるものは少ない。  外見は古びた病院であるが、ここは宮内庁御用達の特別な病院でもある。憑き物や呪いによる傷といった霊障の類を治療するための呪具が揃っており、病院内は白く明るい雰囲気に整えられている。呪いなどのドロリとした暗いものなど、跳ね除けてしまうような明るく快適な空間だ。しかし一般人を寄せ付けないために、外装は古いままにしてあるのだ。  水無瀬文哉が捕らえられている部屋は、鍵のかかる閉鎖病棟の一室である。広さは八畳ほどで、監視カメラも完備されている。  気を狂わせて壁に激突死しないよう、四方の壁は全て柔らかいクッションで覆われ、鋭角の角はどこにもないように配慮されている。今は椅子が一脚置かれ、そこに今まで座らされていた文哉が、力尽きて倒れたのだ。    そんな文哉を冷徹な目付きで見下ろす彰は、かつての自分の仕事を思い出していた。  こんなことばかりしていた。  この手が血に濡れない日はなかったのではないかというほどに。  ドアのそばに腕組みをして立っていた藤原修一は、溜息をついて彰の肩を叩く。 「もういい。お前も休め」 「しかし、水無瀬菊江の居所について、何も聞き出せていません」 「本当に知らないんだろう。きっと水無瀬菊江は、こうして弟が捕まることも見越していたのかもしれない」  藤原の言葉に、手を後ろ手に縛られた文哉は顔だけを上へ向けた。菊江によく似た、不気味な蛇のような目を二人に向けて、ニヤリと笑う。 「……まだ笑う余裕があったのか」 と、彰はしゃがみ込み、文哉のだらしなく伸びた髪を掴んだ。 「……へ、へへ……その通りさ、姉さんにとったら、俺なんかただの駒や」  顔を腫らし、口からだらだらと血を流しながら、文哉はそう言った。前歯が欠け、口の中も腫れているらしく、舌ったらずな口調である。足の骨折はまだ何も治療が施されておらず、文哉の左脛は、ジーパンが張るほどに腫れ上がっていた。 「……駒、ね。君は何でそれに黙って従うんだ。こんな目に遭っているのに」 「俺は……今のこの世界が嫌いや……それを壊してくれるっていう、姉さんの言葉に乗っただけ……。お前らなんかより、姉さんはずっと強いぞ……あの術、見たやろ……俺は少し、力と身体を貸しただけ……」 「ちょっと学校が壊れただけだ、お前は何がしたかった」 「ちゃんとデータも取れたしな……」 「データだと?」  藤原が低い声でそう言うと、文哉がびくっと肩を揺らす。 「……どういうことだ。佐為、どいていなさい」 「……はい」  藤原は彰をどかせると、文哉の襟首を掴んで顔を引き寄せる。明らかに彰と対峙していた時よりも怯えた表情を浮かべ、たらたらと汗を流し始めた。 「もう、ここらで諦めたほうが身のためだよ。肉体への痛みがこれ以上きかないというなら、残念ながら、こちらももっと酷いことをしなければならない」  低く抑えた藤原の声とともに、ゆらりとその背から白い霊気がかぎろい立つ。ごく、と文哉が唾液を嚥下する音が聞こえた。 「……へっ、殺せばいいじゃないか。もう、俺からは何も出てこぉへんで……」 「殺すなど、そんなことはしない。君が真実を話すまで、私たちは君を治療し、目覚めた所でまた痛めつける。その永遠の繰り返しだ。しかし、そんなことをしているほど、私の気も長くはない」 「……」  二人の視線がぶつかる。尚も口を開こうとしない文哉から手を離し、藤原は立ち上がって彰に笑顔を見せた。 「佐為、今日はもういい。お前は帰っていなさい」 「しかし……」 「あとは私一人の方がいい。さぁ、ひどい顔だよ」 「業平さまこそ……」 「お前がこんな仕事をする必要はない。さぁ、行け」 「……分かりました」  有無を言わさぬ藤原の圧力に、彰は頷いてドアをノックした。すぐさま小窓から職員が彰の姿を確認し、鍵を開ける。  立ち去り際に部屋を振り返ると、藤原は文哉を見下ろして、こちらに背を向けていた。いつもぱりっとしていた白いワイシャツが、汗で背に張り付いている。  ぎぃい、とドアの軋む音と、ガチャンと閉まる金属の扉の音が、後味悪く耳に残った。 「……お疲れ様」  人気のない薄暗い廊下に、数人の職員が見張りに立っていた。ドアの直ぐ側に立っていた葉山が、彰にタオルを差し出す。 「葉山さん。ずっと、ここに?」 「ええ……はい、そうです」  周りに人がいることを憚ってか、葉山は口調を正してそう言った。彰は居心地悪そうに目をそらし、タオルを受け取る。今まで自分が文哉にしていたことを、葉山に見られていたのかと思うと、つらかった。 「……こういうところは、男性職員に任せればいいのに」  彰はそう言って、すたすたと味気のない廊下を歩いた。葉山もヒールの音を響かせてついてくる。  閉鎖病棟のある階は、他の病棟の居心地の良さとは比べ物にならないほど質素にできている。早くこの雰囲気から離れたいと、彰は足早に階段を降りていく。 「あなたにばかり、酷い役回りを押し付けられないでしょう」  階段の踊場で立ち止まった葉山は、静かな声でそう言った。彰も立ち止まって、自分より半階上の踊り場に立っている葉山を見上げた。  眠っていないのだろう。目の下にはくまができて、化粧も崩れている。それでも、きりりとした葉山の揺らがない瞳はいつものようにまっすぐだった。 「……僕は、汚れ仕事は慣れているんだ。あれくらいなんてことはない」 「そう? その割には、ひどい顔」 「え……?」 「昔のあなたは平気だったかもしれないけど、今は平気じゃないんじゃないの? 人の痛みが分かるようになってしまった、あなたには」 「……」  彰はじっと葉山を見上げて、静かに瞬きをした。そして、大きく息を吐きだす。 「……何でもお見通しか」 「嫌っていうくらい、私はあなたの顔を毎日見てるのよ。それくらい、分かるようになるわよ」 「……嫌っていうくらいって、ひどいな」  彰は力なく笑うと、タオルをぐっと握り締めた。  葉山はゆっくりと階段を降りてくると、彰の立っている踊り場までやって来た。そっと彰の背に手を添える。  その背はひどく汗ばんでいるのに、驚くほどに冷えていた。  彰は、葉山の肩を引っ張って、しがみつくように抱き締めた。葉山の匂いが、ふわりと彰の荒みきった気持ちを緩めていく。思わず零れそうになる涙をこらえて、彰はぎゅっと目を閉じた。 「……一度帰ろう。ね?」  葉山は彰の背を優しく撫でながら、穏やかな声でそう言った。 「そうだね……」 「大変だったわね、彰くん」 「……うん」  弱くなったな、と自分で思う。  こんなことで、いちいち気持ちが揺れることなど、昔はなかった。  大義のもとに行う殺戮にも、暴力にも、慣れていた。そしてそれを成すことが自分の勤めであり、陰陽師衆を護るすべであると思っていた。  何も感じなかった。  相手がどんなに苦しもうが、泣き喚こうが、恨みのこもった目から魂が抜けていくのを見ていようが、何も感じなかったというのに。  今はつらい。大義があるのは分かっているのに、どうしても非情になりきれなかった。  文哉はいわば敵なのに、そんな文哉の痛みですら、今の彰には鋭く突き刺さるように痛かった。  だから文哉は、彰をまるで舐めていたのだ。  だから藤原に、こんな仕事をさせてしまう羽目になった。  それが情けなくて、申し訳なくて、彰は渦巻く負の感情に押しつぶされそうになっていた。 「……僕は、こんなにも弱くなってしまった」 「弱くなんかないわ。あなたは強いもの」 「でも……」 「藤原さんくらい偉くなってから、今日のことを後悔すればいい。今は休まなきゃ駄目よ」 「……業平様は……」 「あの人は、自分がどれほどのものを背負っているか、よく分かっておいでよ。だから今、あなたを潰してしまわないように、こうしたんだと思う」 「……僕の仕事なのに」 「あなたは十分、よくやってる。……あなたが藤原さんの立場になった時、こうして誰かをまた助けてあげたらいい。その時、私もそばに居てあげるから」  葉山は彰を見上げて笑ってみせた。彰は目頭がじわりと熱くなるのを感じながら、小さく頷く。 「帰って、寝ましょ。難しいことは明日考えたらいいわよ」 「……うん」  まるで幼い子どものように、葉山に手を引かれて階段を降りていく。  病院を後にしながら、藤原は誰かにこうやって助けてもらえているのだろうかと、彰は思った。  自分以上に隙がなく、完璧な藤原修一が肩の荷を下ろせるのは、一体どこなのだろうと。

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