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六十七、新年

 結局、珠生は京都で年を越すことになった。  まだ帰ってこないのかと、母すみれが催促の電話を入れてきた時、千秋が電話をもぎ取るようにして電話口に出てきた。 『珠生、久しぶり』 「千秋。元気?」 『元気なわけないじゃん! あんたと違ってこちとら受験があんのよ、まだ年明けも続くんだからね!』 「あ、そうだね……」  電話の向こうでぎゃんぎゃん喚く千秋の愚痴をしばらく聞いてやっていると、徐々に向こうも気持ちが落ち着いてきたのか、こんなことを尋ねてきた。 『ねぇ、忙しいのは国家の危機だから?』 「国家の危機って……。まぁ、まさにその通り。だからちょっと帰れそうにないんだ」 『そう。分かったよ。お母さんには私が上手いこと言っとくよ』 「ほんと? ありがとう、助かる」 『お父さんも、前よりは緊張せずに過ごせるようになったみたいだから、珠生がいなくても大丈夫でしょ』 「そっか、何よりだな」 『気をつけてよ。変な怪我とか、しないでね』 「うん、分かってる」 『じゃあね、舜平さんにもよろしく』 「うん、伝えるよ」  電話が切れてから、正也といったいどうなっているのか、聞くのを忘れたと気づく。珠生はスマートフォンを机に置き、しんしんと降りしきる雪を見つめた。  珠生が一人では寂しかろうと、今日は皆で宮尾邸にて年越しをすることになっているのだ。湊もそこへ来る予定だと言っていた。  壁にかかった時計を見ると、そろそろ出かけなくてはならない時間になっている。暮れかけた空を見上げている珠生の背後から、すっと手が伸びてきた。  舜平の体温が背中にじんわりと伝わってくるのが心地よく、珠生は目を閉じて舜平にもたれかかった。珠生の髪に頬を寄せる舜平の動きは、どこまでも優しい。  耳たぶを噛まれ、珠生は微かに声を立てる。その反応に少し笑う舜平のため息が、更に耳をくすぐった。  ほんの三十分前までつながっていた二人の身体だが、身を寄せていると性懲りもなく、またその身を重ねたいと思ってしまう。振り返って首を伸ばし、舜平の唇を求めると、舜平は力強く珠生を引き寄せた。  ここのところ、珠生は自分の異常な性欲に戸惑っていた。連日連夜の見廻りで気を張っている上に、眠ると必ず前世の夢をみる毎日。舜平を見ると、その身が欲しくて欲しくてたまらなくなるのだ。  夢はランダムだった。  戦の頃の夢をみる日もあれば、舜海と離れて修行に明け暮れていたあの二年間の夢を見ることもあった。自由に自然を駆け回っていたあの頃と比べて、現代のこの生活のなんと息苦しいことかと、珠生は改めて感じていた。  正直、明桜高校での事件の時は、一大事だと憂う気持ちもありつつ、思い切り力を奮って動ける自由さを楽しんでいるという部分もある。  妖を斬った時、その感触を気持ちがいいと思った。妖気を解放して剣を翻し、戦えることに喜びを感じた。もっと、もっと斬りたいとさえ思った。  しかし、彰や藤原の疲れた顔を見るたび、そんなことを思った自分を恥じた。  しかし一度覚えた快感を、すぐには忘れることはできない。  それを埋めるように、珠生は毎晩のように舜平を貪るのだ。 「……送って行こうか?」 「いや、いい。逆方向だろ」 「せやな……みんなによろしくな。良いお年をって」 「うん。舜平さんのご家族にも」 「おう」  離れがたいのか、舜平もなかなか珠生を離そうとしない。珠生もそれは同じ気持ちだ。たった一晩会えないということが、なんだかひどくつらいことに思えてならない。まるで、都に発つ前の舜海との時間を思い出すようだ。  舜平に抱きしめられて、唇を何度も重ねた。珠生はうっとりと目を開き、間近にある舜平の黒い瞳を見つめる。 「……逆らえないな、舜平さんのキスには」 「……そうか?」 「だからもうやめてよ、行かなきゃいけないんだ」 「もう少し……ええやろ」 「んっ……」  カーテンを引いたリビングの窓に押し付けられて、珠生は喘いだ。  このままではまた止まらなくなってしまうと、珠生は渾身の思いでぐいと舜平を突っぱねる。 「駄目だってば!」 「へいへい、ごめんごめん」  舜平は両手を上げて、珠生から離れた。そして、にやりと笑う。 「ようやくこれで勉強ができるわ」 「正月なのに大変だね」 「まったく……世話のやける」 「自分だって喜んでたくせに」 「そんなことはない。俺はお前のお守りしとっただけや」 「……」  ふんぞり返ってそんなことを言っている舜平を見上げながらため息をつく。しかし、実際その通りだ。  舜平がいなければ、珠生の精神はきっと、また好戦的な鬼の本能のみの姿へと変わってしまっていただろう。  どうあがいても舜平を欲してしまう自分の心と体に、珠生はほとほと呆れていた。 「やっぱり修行しないと、いけないかもな……」  地下鉄の駅へ向かいながら、珠生は一人呟いた。  相田将太からの申し出を受けるべきかどうか、答えはとっくに出ているのだ。  +    「おーい、珠生!」  振り返ると、自転車でやってくる湊がそこにいた。湊はあれ以来、黒い矢筒を常に持ち歩いているのだ。黒い円筒状のケースを斜めがけにしている姿は、まるで美大生のようにも見える。 「寒いなぁ、今日も」 と、湊は自転車を降りて珠生の隣を歩き出した。 「ほんとだよ、もういい加減にして欲しい」 と、珠生は千秋のお下がりのベージュのコートに手を突っ込んで、マフラーに顔を埋める。 「黒装束なら寒くなかったんちゃう?」 「あれは普段着てたらただのコスプレだって」 と、珠生は苦笑する。 「それもそうやな」 「戸部さんと年越さないの?」 「向こうはなかなかのお嬢様やからなぁ、そんなことはさせてもらわれへんて」 「ふうん……ねぇ、湊もさ、戸部さんと……するの?」 「何を?」 「えっと……身体の関係というか」 「え?」  珠生がそんなことを言ってくるのが珍しいのか、湊は黒縁眼鏡の奥で目をぱちくりとさせている。そして、ふっと笑った。 「何や急に。そりゃあ、まぁ、何回かはな」 「えっ、いつの間に」 「お互い実家やから、ひやひやや」 「いつするの?」 「いつって……えらい具体的なこと知りたがんねんなぁ」 「あ、うん……普通どうするのかなって、ふと気になって……」 「そりゃあ、ご両親が昼間出てて留守の時とか……ってどうしたんお前」 「……いや、別に……」 「また舜平泊まってたん?」 「うん……」 「飽きひんなぁ、お前らも」 「でもさ、なんか最近、俺が変なんだ」 「え?」 「この間の一件以来、やたらと千珠の夢を見るせいなのか、見回りで疲れてるのか……なんかえらく妖を斬りたくなったりして……」 「それができひんから、舜平でストレス発散しとるってこと?」 「さらっと言うなぁ……まぁ、でもそんな感じなのかも」  珠生がため息混じりにそう言うと、湊はうーんと唸った。 「お前の妖力ってさ、記憶や能力が戻るに連れてどんどん上がっていくんやろ? どこかで発散していかな、ちょっと危なそうやな」 「うん、そんな気はする。また比叡山にこもるかなぁ」 「深春と喧嘩したらいいんちゃう?」 「あ、それいいかも」 「冗談で言ってんけど」 「……」  そんな話をしている間に、宮尾邸に到着する。  柚子が準備してくれていたのは、純和風の夕食だった。沢山若者が来るというので、腕によりをかけて作ったという夕食は、どこの店で食べるものよりも美味かった。  ここ数日の激務を忘れて、高校生たちは賑やかに食事を楽しみ、食後はテレビの正月番組を見ながらくつろいだ。賑やかなバラエティ番組を見たがる深春と、「行く年くる年」を見たがるじじむさい湊がチャンネル権を争ったりする様子を、珠生と亜樹は呆れつつも楽しく見ていた。柚子も今日は一緒にテレビを見ながら、楽しげに笑っている。  こんなにも賑やかで楽しい年越しは、生まれてはじめてだった。  普段は千葉の実家で、千秋と二人テレビを見ながら年を越す事が多かったため、いつも静かに新年を迎えていたものだった。  比べて、今日はえらく賑やかで、そして楽しい。  平和な夜だ。  珠生はふと、藤原や彰は、今日くらいはゆっくりとしているのかと気になった。敦からの連絡によれば、二人は主に水無瀬文哉の尋問にあたっているというし、最後に見た藤原の背中といえば、文哉を拷問していた時の鬼気迫る姿……。  藤原には家庭があったはずだ。たしか東京に、一人息子と妻がいると話していたはずである。  ——東京に帰ったのかな……。  結局、賑やかしいバラエティ番組でカウントダウンを始めた深春が、はしゃいでいる。亜樹も笑って、そんな深春と一緒になってカウントダウンをしている。湊と柚子は熱い茶をすすりつつ、せんべいを食べている。 『ハッピー・ニュー・イヤー!!』  テレビの中の派手な花火とともに、新しい年がやって来た。  珠生も笑顔で、その瞬間を迎えていた。  今年がいい年になるといい。誰も傷つかず、誰も苦しまないような、そんな年に。  そう願いつつも、珠生には分かっている。そんな夢のような絵空事は、到底ありえないということくらい。  きっと水無瀬菊江の憎しみは、消えることなくいまもくすぶり続け、きっとこれから先、なにかしらの不吉を呼ぶ。  それでも今は、皆の笑顔がただただ続いていくようにと、祈るばかりであった。

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