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十三、亜樹の不安
あの美しい風景を、もう一度見たいと願っていた。
三津國城の眼下に広がる、美しい山々と、青く輝く瀬戸内の海。人々の活気に満ちた豊かな街。
千珠は、天守閣の上に立ち、風に乱される髪を押さえた。
清々しい天気だった。太陽は頭上高くにきらめき、爽やかな春風が吹く。新緑が萌え、ちらちらと桜の花びらが雪のように舞う。
「……美しい」
思わずそう呟かずには居られない。千珠は笑みを浮かべて、穏やかに守られ続けるこの国を見下ろす。
「千珠、またお前こんな所に……」
舜海が、瓦を踏んで近づいてくる気配が、背中に感じられる。千珠は首だけで振り返った。
「どこにいようが俺の勝手だろ」
「へいへい、そうやな」
気のない返事をして千珠の隣に立った舜海は、腰に手を当てて千珠の眺めていた景色を見下ろした。
「ええ眺めやなぁ」
「そうだろ」
「いつ見ても、ええ国や」
「そうだな……。おい、なんか用かよ」
「柊が、白蘭を連れて沿岸警備に出て欲しいってさ」
「白蘭を? ……まぁいいけど」
「あいつも、あの一件以来えらい大人びて来てるからな、ちょっと仕事を増やしてやろうと思ったんやて」
「ふうん。そういう事なら仕方がないな」
「夜顔、無事に里に帰ったかな」
「雪代と竜胆が一緒なんだ。心配ないだろ」
「そうやな。しかしまぁ、ええ男に育ってたもんやな」
「……そうだな。あのまま、ずっと幸せに生きてくれたら……」
ただただ、穏やかに、平和に……。
誰を憎むことも、誰かに憎まれることもない、平穏無事な生活を送ってほしい。
あの笑顔を、絶やさないでいて欲しい。
夜顔……。
お前は今、一体どこにいるんだ……。
どうして、こんなことに……。
・・・・・・・・・・・・・・・
珠生は目を開いた。直後、携帯電話のアラームがけたたましく鳴り響く。
手を伸ばして携帯を切ると、珠生は溜息をついて髪の毛をぐしゃぐしゃと乱した。
「……くそ」
もう、先発隊は能登に入っている頃だろうか。こんな所でのんびりしている暇が、果たして自分にあるのか。
――すぐにでも、深春を追いかけたいのに……。
でも駄目だ、彼からの報告を待つってことになったんだ。それに、逆らっちゃいけない。
珠生は立ち上がって寝間着にしているTシャツを脱いだ。じっとりと汗ばんで、気持ちが悪かった。
+
亜樹が百合子との外出から帰宅すると、玄関に黒いパンプスが脱いであるのが目に入った。
「……葉山さん」
「亜樹ちゃん、おかえり」
リビングで柚子と話し込んでいるのは、葉山だった。久しぶりに見る葉山の姿に、亜樹の気も緩む。
「亜樹ちゃんのぶんも、お茶淹れてくるわね。手、洗ってらっしゃいな」
と、柚子が立ち上がってキッチンへ入っていく。
言われたとおりに手を洗ってリビングへ行くと、淹れたての紅茶の入ったティカップだけが置いてあり、柚子の姿は見えなくなっていた。
「あれ、柚子さんは?」
「少し疲れたから、横になるって。堪えてるみたいね……」
「うん。……何だかんだ、ずっとこの家の中も元気がなくて。五月蝿いやつやと思ってたけど、やっぱおらんくなると……」
葉山の隣に座り込み、亜樹は溜息をついた。そんな亜樹の肩に触れ、葉山は微笑む。
「そうよね。……でも、珠生くんが必ず連れ戻すって言っているらしいから。今回はここで待っていてね」
「うん……。葉山さんは、能登へ行くん?」
「そうね、明後日向かうことになっているわ」
「うちは、連れて行ってもらえへんねんな」
「ええ……。今回は、純粋に霊力の強い者から選ばれている感じだから。舜平くんや湊くんも、行かないはずよ」
「そっか……」
「心配よね、深春くんのこと」
話しているうちに目からは涙がこぼれ落ち、亜樹はスカートを握りしめながら話をする。
「うちは、夜顔の事件については何も知らへん。その後色々夜顔や雷燕に絡んだ事件があったことは聞いたけど、体験はしてへん……。夜顔のことで祓い人や陰陽師衆の人といざこざがあったってのも聞いたけど、それも詳細は知らんし、うちは何も知らんねん」
「亜樹ちゃん……」
「深春のことでみんなが精一杯ってのも分かってる。でも……なんで今、自分がこんなに寂しい思いをしてるんかが分からへん。なにも出来ひんのが歯がゆくてしょうがない。沖野にメールして聞いてみたけど、あいつ、なんも返して来 ぉへんし」
深春の出奔だけでなく、切迫した皆の態度が亜樹の不安の元凶かと、葉山は理解した。それに今の珠生に、メールを返信するだけの気持ちの余裕があるとも思えない。職員たちも何かと多忙で、亜樹や柚子の声をきちんと聞いていない。
「ごめんね……もっと、亜樹ちゃんたちにも詳しく状況を伝えられたらいいんだけど、極秘事項が多くて……」
「あっ、いや……そんなんいいねん! 謝らんといて」
「それに……珠生くんはきっと、亜樹ちゃんに対して申し訳ないって思ってるんだと思うわ」
「申し訳ない……?」
「あの子にとって、深春くんは守るべき存在なのよ。今も昔も。でもそんな彼を、みすみす敵にさらわれるようなことになって、どこかで自分を責めてるんだわ」
「……」
亜樹は泣き濡れた顔で、葉山を見た。
「それが珠生くんのいいところでもあり、悪いところでもあるわね。あの子は優しいから、なんでも一人で抱え込もうとする」
「……うん」
「本当はすぐにでも向こうへ行きたいんだろうけど、少し冷静になってもらうっていう意味でも時間を空けさせたのよ、常盤がね」
「……そっか」
「常盤と高遠さん、藍沢がいれば、大抵のことは大丈夫だとは思うわ。彰くんも、あの人たちのことは信頼しているみたいだし」
「先輩は……葉山さんには弱音とか吐くん?」
「え?」
葉山は少し驚いた顔をを浮かべたが、すぐに軽く笑った。
「まぁ、少しはね。でも、今回のことについては、なんだかむっつり考え込んじゃって。まぁ何か、思うところがあるんでしょう」
「……そうなんや」
二人の間には、目に見えるほどの信頼感がある。亜樹はそんな関係に、強く憧れた。
葉山は強くて賢い大人の女だ。きっと彰も、良き相談相手としても葉山のことを認めているに違いない。
「……いいなぁ、葉山さんは」
「え? なにが?」
「先輩と、ほんまにちゃんと向き合えてるんやろうなと思って。そういう相手が居るの、すごい羨ましい」
「やぁね、私もうアラサーよ。亜樹ちゃんのほぼ倍は生きてるんだから、そういう相手に出会えることもあるでしょう」
「倍……」
「ば、倍まではいかないわよ!! ええと……あなた達まだ十八歳でしょ? その頃の自分を思い出しても、まだまだ子どもだったって思うわ。こんな大変な目にあってる十八歳なんてなかなか居ないと思うし、戸惑うのも当然よ。それは珠生くんにとっても同じ事」
「あ……」
「時間があれば、ゆっくり話ができるといいわね。深春くんのことも、珠生くん自身のことも心配してるってことだけでも、伝えてあげるといいわ」
「うん……」
「男ってのは、周りが見えない生き物なのよ。一つのことにしか集中出来ない、単純な脳みその造りをしてんの。だからそれを分かってあげた上で、肝心なことだけ伝えてあげるのがいいと思うわ。男ってのはね、女に支えられてこの世が回ってることにも気づかないような、馬鹿な人たちなんだから」
葉山はいたずらっぽくそう言って、亜樹の手をぎゅっと握った。葉山の口調に、亜樹も思わず笑みが溢れる。
「そうなんや」
「そうよ。基本的に、小学生も二十歳も変わらないわ」
「あははっ」
「どんと構えていらっしゃい。何かあったら、すぐに私に言って」
「……うん、ありがと」
「いいえ」
葉山はにっこり笑うと、少し冷めた紅茶を飲み干す。
亜樹もティカップを手に取り、掌を温めるように包み込んだ。
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