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十五、絶望の足音

 藤之助……藤之助……どこにいるの……?  なんだか、身体がうまく動かないんだ。重くて重くて……一体僕、どうしちゃったんだろう……。  ここは暗い。雨の音が聞こえる。  どこ?僕は今、何でこんな所に……? 「目ぇ覚めたか」  声のする方へと首を動かすと、そこにはぞっとするような冷たい霊気を纏った、若い男が立っていた。  誰……? 怖い、怖い……この人は、怖い人だ。 「深春、身体の調子はどうだ?」 「みはる……?」 「夜顔、といったほうがいいか?」 「……何で、僕の名前……」  楓は面白そうに少し微笑むと、ベッドサイドに腰掛けて深春の頭を至極優しく撫でてやる。体温のない楓の手のひらに、深春はさらにゾッとした。 「夢でも見たか。夜顔」 「……え」  起き上がろうと試みたが、その身体に自由が効かないことに気づく。頭を巡らせ、自分の置かれている状況を理解しようと試みて愕然とした。  両手首には手錠が巻かれ、ベッドの柵に繋がれている。両足首にも、同じように手錠が冷たく巻き付いて、その自由を奪っている。 「……な、んで……? 何でこんなこと……」  恐怖に怯えた深春は、唇を震わせてそう呟くと、もう一度楓を見上げる。楓は哀れを込めた目つきで深春を見下ろしている。 「夜顔ってのは、こんなにも幼いガキだったのかい? まぁいいか。力さえあればそれでいいや」 「なに……何なの……? 誰……?」  今にも泣き出しそうな深春は、混乱したように手足をばたつかせる。がちゃがちゃと金属同士の触れ合う音が暗い部屋に響き、その絶望的な音に深春はさらに恐怖した。 「俺が誰かって? そうだな」  楓はベッドに寝かされた深春の上にのしかかるようにして馬乗りになると、首に巻きついた鈍色の鎖にそっと指を触れた。 「俺はな、水無瀬楓という名前だ。言ってみな」 「みなせ……」 「そう、水無瀬楓、言えるだろう? 夜顔」  楓は興奮を抑え、ぎらついた目を深春に向けながら、優しくそう繰り返す。  ――今ここで俺の名をこいつが言えば、夜顔は未来永劫、俺のものだ。  細い唇に残忍な笑みを浮かべて、楓は努めて穏やかに繰り返す。 「お前は夜顔だ。俺は、水無瀬、楓」 「みなせ……」 「そう……」  恐怖にわなわなと震える唇で、深春は楓の冷たく光る目に射すくめられるように、ついにその名を呟いた。 「かえで……」  途端、楓の顔に満足気な笑みが浮かぶ。  鈍色だった鎖が白銀色に輝き、ゆっくりと深春の首に巻きつきはじめた。 「あぐっ……かっ……はっ!!」  深春の白い首に、光り輝く銀色の鎖がぎりぎりとめり込んでいく。呼吸が出来ず、深春は苦しみのあまり暴れ狂った。手錠がその手首に食い込み、赤い血をシーツに滴らせる。 「がぁああああ!!! あぁっ! がっ!!」 「……いい子だ、夜顔」  鎖が深春の肌の中に焼きついていくのを、楓はじっと笑みを浮かべたまま見つめている。  顎を仰け反らせて悶え苦しんでいた深春の呼吸が、徐々に落ち着いてくる。  指一本すら張り込めぬほどに深春の肌に食い込んだ鈍色の鎖が、徐々に光を納めていくのを、楓はしっかりと見届けた。 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」  身体中に汗を流して喘いでいる深春が、ゆっくりと目を開いた。 「はぁっ……くそったれ……」 「お、なんだ、自我を失うはずなんだけどな」  楓はやや面食らった表情を浮かべ、用心深く深春から一歩離れる。 「くそっ……俺に何しやがった……。てめぇ……ぶっ殺してやる……!!」  ぎりぎりと奥歯を噛み締め、悔し気な表情を浮かべながら、深春は今にも噛み付きそうな表情で楓を睨んだ。ぶわ……っ、とその身体を青黒い妖気が覆う。  獰猛な獣のような凄味だと、楓は思った。そして、そんな深春の妖気にぞくぞくと興奮した。  ――こいつが、この妖力がもう、俺のものなのだ。  楓はにいっと笑うと、ベッドに縛り付けられたままの深春にこう言った。 「そんな手錠、自分で外せるだろ。そっから自由になってみろ」  深春はぎらついた目を楓から離すことなく、ぐっと拳に力を込めた。半袖のシャツから覗く白い肌に血管が浮き上がり、金属の軋む音が暗い部屋に不気味に響いた。  ガンっ、とベッドの柵が大きくひん曲がり、飴細工のように千切れた。右手が自由になった深春は、今度は左手側の手錠を引きちぎり、身体を起こす。手を伸ばして足首を戒めている手錠をも引きちぎると、深春はベッドの上から飛び退いた。  音もなく部屋の隅へと移動した深春を、楓はゆっくりと振り返った。  雨戸を締め切り、微かに開いたドアから漏れ入る光は廊下のぼんやりとした明るさのみ。  そんな暗がりの中でも、深春の目だけがぎらぎらと光っているように見える。 「夜顔。お前はもう、俺に逆らえねぇ」 「……なんだと」 「お前は俺を殺したいようだが、俺には指一本触れられねぇよ」  ゆっくりと深春が立ち上がるのが、気配で分かる。その身体を取り巻く青黒い妖気が、ぼう、と光を湛えた。 「……俺を、夜顔と呼ぶな」 「気に入らないか、佐々木猿之助に使役されて、人殺しをしていた時のことを思い出すか?」  くくっ、と楓が喉の奥で笑う音に、深春はぎゅっと拳を握り締める。 「呼ぶな……呼ぶなぁ……!!」 「おーおー、怖いなぁ。さっきまでべそかいてた可愛い夜顔はどこへ行った?」 「その名前を……言うなぁ!!!」  深春は楓に掴みかかった。  つもりだった。  しかし、拳が楓の肌を攻撃する手前で、身体が自身の意志とは関係なしに、ぴたりと止まる。 「……!?」 「くくくっ。ほらな、俺には指一本触れられねぇって言ったろ」 「何で……!?」 「お前はもう、俺の言いなりだ。俺が人を殺せといえば、お前は殺すしかない。これが祓い人の術、妖を使役する俺たちのやり方だ」 「……な」  ぴくりとも動かない身体に愕然としている深春の頬に、楓はそっと触れたかと思うと、すぐに拳を固めて深春の左頬を殴り飛ばす。  部屋の壁にぶつかって床に崩れる重たい音が、響いた。 「ま、呼び名が気に入らないならやめてやるよ。深春」 「……くそ……っ!! くそっ……!!」 「体が動かないだろ?お前の細胞一つ一つまで俺の支配下なんだからな。……くく、見ものだな」  楓がドアを開けると、廊下の明かりでその表情が見えた。  自由にならない身体のもどかしさ、この状況への混乱、不安、焦り……深春の強張った表情とは対照的に、楓のそれはとても楽しげである。 「お前が、雷燕の封印を破り、千珠を殺すんだ」 「え……」 「雷燕の妖気が受け継がれたお前の身体、憑坐(よりまし)にぴったりだろ? そうなりゃあ、お前は無敵。千珠を殺すなんてわけないさ」 「千珠さま……珠生くんを……殺す?」 「そう。陰陽師衆のやつらも皆殺し。俺に逆らう奴は、お前が全員始末するんだ」 「……な、なんだよ……それ……」 「心配すんな。雷燕がその身に宿れば、お前の意識なんてどうせなくなる。罪悪感なんて感じないだろうからな」 「……やめろ……! そんなこと、するな……!!」 「もう自分の意志で動けないお前に、何ができる。まぁ夜が明けるまでそうしてな。体力を十分に回復しておけよ」 「そんな……俺、そんなこと……したくねぇ!! したくねぇよ……!!」  血を吐くような深春の叫びも、楓には何も届かない。  深春の苦悶に満ちたうめき声も嗚咽も、楓にとってはただの耳触りの良いBGMでしかないのだ。  バタン、と扉が閉まる。  あの頃と同じように。  冷たい洞穴が大岩によって封じられた、あの時のように。  

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