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十六、いざ、能登へ

 葉山が目を覚ますと、彰はすでに起きだして朝食を作っているようだった。キッチンから漂ってくる食欲を誘う香りと物音に、ふと幸せを感じる。  深春が行方不明になってからというもの、彰はずっと葉山の家にいる。そこで能登へ向かった面々と電話でやりとりをしたり、現地の写真を確認したりと、彰はいつになくずっと笑わず、張り詰めた表情をしていた。 「おはよう。いい匂いね」 「ああ、おはよう」  すでに身支度も終えている彰は少しばかり微笑むと、皿にハムエッグを乗せてトーストを添えたものをカウンターに並べた。いつ見てもいい手際だ。  葉山がコーヒーをカップに注いでいると、彰はダイニングチェアに腰掛けてまた小難しい顔をしている。 「眉間にしわが寄ってるわよ」 「え?」  指で眉間を突かれて、彰はやや拍子抜けしたような顔をする。葉山は向かいに座りながら、顔色の良くない彰をじっと見つめた。 「今夜から能登ね。私、比叡山で会議と修行のあと……」 「葉山さん」 「なに?」 「君は、能登へは行くな」 「え?」  彰は見たこともないくらい真剣な顔で、まっすぐに葉山を見据えてそう言った。一瞬、何を言われているのか分からなかった。 「……何言ってるの。私はあなた達の足手まといにはならないつもりよ」 「分かってる。そういうことじゃないんだ」 「じゃあ、何よ」  やや喧嘩腰になって葉山が聞き返すと、彰は更に難しい顔をして言った。 「水無瀬楓、拓人の写真を見た。町中で買い出ししてる姿だった」 「そんなの、私も知ってるわよ」 「楓の顔。見たことがあるんだ」 「うそ、どこで?」 「大昔。僕がまだ佐為であったころ、僕は彼に会っている」 「彼も転生者だっていうの?」 「十中八九そうだろう。普通、顔かたちは変わっても霊気なんかは変わらないもんだが、水無瀬楓は、僕が見た前世の奴と、顔立ちもよく似ていた。それに高遠さんから聞いた彼の霊力の強さといい、禍々しさといい……おそらく」 「誰が転生したっていうのよ」 「水無瀬、楓真だ」 「楓真……?」 「彼は、妖としての千珠を欲していた。どこで知ったのかは不明だが、あいつは千珠が一晩人間の姿になることを知っていて、その機を狙って青葉に攻め入ったんだ。その頃はもう青葉には僕が不知火を張っていたから、使役している妖は使えない。だから、陰陽師衆の若者を利用して直接千珠を襲いに来た。僕は奴らを退け、千珠にかけられた術を解くために、楓真を殺した」 「……」  淡々と過去の出来事を話す彰の顔は、見る間に蒼白になっていく。表情もますます冷えて、何を考えているのかさっぱり分からなくなっていく。  かつて粛清という名のもとに、佐為が多くの人命を奪ってきたことを、葉山は知っている。そしてそれを、今になって彼が深く悔いるようになっていることも。  それは自分を愛するようになったがために生まれた感情であることも、彰が必死でそれを受け入れようとしていることも。 「……きっとあいつは、僕に対しても復讐を遂げようとするだろう。死に際に放った彼の言葉が、いまだに頭から離れない。重い、呪いの言葉だ」 「つまり、私はあなたにとっての弱みになるということね……」 「そういうことだ」  彰は不意に悲しげな表情になると、目を伏せる。 「葉山さんを盾に取られれば、僕はきっとなにもできない。死ねと言われれば死ぬだろう。でも君はきっと、自分の身などいいからあいつを何とかしろというに決まっている。そんな板挟み、僕には耐えられないよ」 「……そうね」 「不安要素は増やさないに越したことはない。だから葉山さんは、ここに残れ」 「……」  目元を押さえ、痛みを堪えるような表情を浮かべている彰に、逆らえるはずもない。葉山はゆっくりと息を吐き、頷いた。 「……分かったわ」 「ありがとう」 「ただし、置いて行くからには必ず戻って来なさいよ。いいわね」 「うん、分かってるよ」  彰はほっとしたようにため息をつき、ようやく笑った。 「早く食べましょ、冷めちゃったわ」 「うん」 「今日は講義あるんでしょ? ちゃんと大学へ行ってから出発しなさいよ。私は見送れないけど」 「うん。珠生を拾って、そのまま敦と三人で向かうよ」 「そう。……気を付けてね」 「うん、大丈夫」  さく、とトーストを齧りながら、彰はにっこり笑った。 「すぐ帰ってくるよ」 「……そうしてくれると嬉しいわ」  葉山もハムエッグにフォークを刺しながら、微笑みを返す。  少し冷めたトーストも、ハムエッグも、とてもとても、美味しかった。  +  午後九時半。  珠生はアルバイトを終え、身支度を整えていた。  この後そのまま、能登へ向かうのだ。健介には「大学の友達と旅行へ行く」とだけ告げ、そそくさと家を出てきた。  再び能登へゆく、自分の過去と今について、珠生はずっと考えていた。  今回は一人ではない。青葉から逃れるため能登へ向かうのではない。仲間とともに、深春を連れ戻しに行くのだ。そしてまた、雷燕を守るために。  あの時自分を連れ戻しに来てくれた舜海、柊、山吹、そして朝飛の顔が蘇る。  大馬鹿野郎と怒鳴られて、舜海に殴られた。いつになく物憂げな表情をして千珠を見ている柊がいた。身を呈して千珠を守り、傷つき倒れていった山吹。とてもとても、温かい言葉をくれた朝飛。  雷燕を封じた陰陽師衆の技と力。  雷燕の穏やかな微笑み。  夜顔へと続く、記憶だ。  時代は違えど、あの頃感じた絆は確かにここにある。それを辿って、向かうのみ。  パタンとロッカーを閉め、珠生はすっと顔を上げた。すぐそばで休憩していた斗真が、ポットから注いだ煎茶を飲みながら珠生を見上げている。斗真はまだこれから、店内の清掃という仕事があるのだ。 「ど、どないしたん、怖い顔して」 「えっ!? そ、そんなことないけど……」 「明日から二週間も休むって、どっか海外でも行くん?」 「ええと……ちょっとね、実家で用事があるっていうか……。ごめんね、迷惑かけて」 「ええよええよ。夏休み限定で、高校生の従兄弟もバイトしに来るって言うてるし」 「うん……。帰ってきたら、しっかり働きますって、社長に伝えておいてくれる?」 「おう、ええよ」  明るく笑う斗真を見ていると、珠生も自然と笑うことができた。軽く手を挙げて、珠生はスタッフルームを出た。  これから、能登へ向かう。  珠生はスマートフォンを取り出し、どこかで待っているはずの彰に電話を入れた。

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