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十八、挑発

 珠生は片足で軽く地面を蹴って跳ぶと、今藍沢が切り捨てようとしていた大蛇の首を斬り上げて刎ねた。  その動きはほんの一瞬で、瞬きしている間に終わっていた。  どしゃ、と雨で湿ったアスファルトの上に、首のない蛇が倒れ臥す。その傍らに、珠生は身軽に降り立った。  呆然とした表情で膝をつき、自分を見上げている藍沢を見下ろして、珠生はうっすら微笑む。 「大口叩いていた割りには、大したことないんですね」 「な……」  強さを増してきた雨が、じわじわと赤い水たまりを広げてゆく。珠生はじりと白いスニーカーの足をずらして、その血を避けた。  そして、真正面に立つ男を鋭く見据える。  気配もなく現れた新たな人物から目を逸らすまいと刮目していた楓の顔からは、薄ら笑みが消えていた。 「お前が水無瀬楓か。どこかで見たような顔だ」 「……沖野、珠生……。千珠の生まれ変わり……」 「そういうお前は、水無瀬楓真の生まれ変わりか。あの晩は、随分と舐めた真似してくれたもんだな」  冷たい雨が、睨み合う二人をしとしとと濡らしていく。無行に構えた宝刀が、雨を蒸発させて湯気を立てた。  にぃ、と楓が不気味に笑う。 「……すげぇ妖気だな。よく今まで人間やってこれたもんだ」  楓に応じるように、珠生も唇の片端をつり上げて笑う。 「ご心配なく。元は半妖なもんでね。人に混じって生きるのが上手いんだ。お前と違ってな」 「……ふふ……くくくくっ。菊江の言ってた通りだぜ。なんとまぁ、現世でも、お美しいお姿。涎が出るぜ」 「……? 菊江の言う通りとは、どう言う意味だ」 「どういう意味もくそもねぇよ。あいつはただの駒にすぎねぇ。昔から、都の陰陽師衆が憎いだのなんだのしみったれたことばかり言いやがるから、ちょっと暴れる理由を与えたやっただけさ」 「何だと……?」 「ってか、もうどーでもいいだろ、あんな死にかけのババァのことなんざ」  楓は、目を細めて酷薄な笑みを浮かべる。その白い手が、ゆっくりと珠生の方へと持ち上がった。 「欲しいねぇ、その力。千珠も、夜顔も、雷燕も、全て俺のものになるんだ。くくくくっ……」  夜顔と雷燕の名前に、珠生の目が鋭くなる。  じゃらり、と楓の手に鈍色の鎖が現れる。  あの日、千珠の首に巻き付いていたあの忌々しい鎖。珠生はゆっくりと、宝刀を正面に構えた。 「夜顔はどこにいる」 「……さてね」 「あいつにも、その術を掛けたのか」 「そんなことは、自分の目で確かめな」  背後で、どぉんと何かが爆ぜるような音が響く。楓から目を逸らすことは憚られたが、一瞬だけ珠生は背後を見た。 「雷燕の……封印が!」  藍沢が、崖の先端にある石碑に向かって駆け出した。石碑から青黒い炎柱が立ち上っているのだ。 「……! これは」 「さてさて、お前は余所見していていいのかな」  じゃら、と鎖の触れ合う冷たい音が響く。珠生はすぐに視線を戻し、さらに険しい表情で楓を睨みつけた。 「深春を一体、どうするつもりだ」 「別にお前にどうこう言われる筋合いねぇだろ。あいつが勝手についてきたんだからな」  ぶわ、と楓の身体を覆うように、霊気が立ち上る。楓が空に向かって手を伸ばすと、何もない空間に亀裂が生まれ、そこから黒く長い毛に覆われた何かが垣間見えた。珠生は目を凝らして、身を低く構える。  オォオオオ!!!  凄まじい咆哮とともに姿を現したのは、黒い毛に覆われた巨大な妖犬だった。楓の前に立ちはだかった妖犬は、珠生を敵と見なしたのだろう、鋭い牙をむき出しにして低く唸る。  珠生は、ざわざわと腹の中から沸き上がってくる妖気のざわめきと高揚感に、思わず笑みを溢していた。  鬼族の持つ本能的な闘争心と、より強いものを狩りたいという欲望が、珠生の脳を支配していく。 「ふっ……あははははは!!」 「……何が可笑しい」  突然笑い出した珠生を、楓は慎重な目つきで見ている。術者の身長の二倍はあろうかという妖犬の脚を軽く撫でながら、楓は言った。 「お前、ほんまのほんまに人間か?」 「どうかな。……ただ、現世でまでこんなでかい妖を見るなんて思わなかったからな。つい血が騒いでしまったらしい」  珠生の目が、ゆっくりと明るい琥珀色に染まっていく。そして、黒い瞳孔が縦に裂けた。  宝刀の鍔鳴りが、微かに雨の音に混じって響いた。  途端、珠生の姿はそこから消え、楓ははっとして頭上を見上げる。 「やつを喰らえ!!」  妖犬にそう命じた楓の鋭い声とともに、涎をまき散らして妖犬が吠えた。人体ほどの太さのある妖犬の脚が荒々しく地を蹴ると、アスファルトが脆くも砕け散る。楓は破片を避け、さっとその場から退いた。 「……動物は嫌いじゃないんだけどな」  そう言いながらも薄笑みを浮かべ、珠生は妖犬の横っ面を蹴って身を翻した。すぐさま妖犬は長い爪の生えた前脚で珠生を叩き落とそうと動くが、そこからはすでに珠生の姿は消えている。  きら、と白い剣閃がひらめく。  脚を斬りつけられた妖犬が、忌々しげに珠生に向かって牙を剥いた。びしゃ、もろくなったアスファルトの上に鮮血が飛び散り、先程倒れた大蛇の血と混じり合い、血の海が広くなる。真っ赤に濡れた大地を蹴って、珠生は再び空を舞った。  敵を頭から食らってやろうと、大きく裂けた口を開いて飛びかかってくる妖犬に向かい、珠生は音もなく駆けた。 「おぉおおお!!」  一撃だった。  ひときわ高く跳躍した珠生が打ち下ろした刃が、一刀で巨大な妖犬の首を落とす。  激しく降る血の雨の中、駆けていた勢いのまま、妖犬の身体が傾いで倒れる。ずん……と重たい音があたりに響いた。  楓は目を瞠って、人間離れした珠生の動きを見つめている。  珠生は素早く刀を振り、赤く濡れた刀身から血と脂を振り払う。びしゃっと濡れた地面が跳ねた。  身体の半分を真っ赤な血の色に染め、珠生は研ぎ澄まされた刃のような目つきで、楓のほうを振り向いた。 「……お前は、こうして妖を操るだけで、何もしないのか」 「自分の霊力を餌に妖鬼を飼う。これが俺たち祓い人のやり方なんでね」 と、楓は言った。 「ふん。飼う……ねぇ。ならばこの俺が、お前の薄汚い霊気を喰って、お前の言いなりになるとでも?」 「心配すんな。俺の霊気は美味いぜ」 「祓い人の黴臭い霊気など、喰らいたくもない。俺はもっと、美味な霊気を知っているからな」 「ふうん、それが舜海の霊気ってか。そりゃ悪かったなぁ、菊江がそれを持ってっちまったから、随分と寂しい思いをしたんじゃねぇの?」  珠生の脚が止まる。  楓は再び、にやりと笑った。  こうして血に塗れようと、雨に濡れそぼろうと、現世の千珠も神々しいまでに美しい。それは姿形だけのことではなく、身に纏う冷えた妖気の燃える様や、激情に揺れ動く獣じみた大きな瞳、圧倒的な存在感、全てをひっくるめての美しさだ。  楓は興奮のあまり身震いし、珠生を見据える。  こいつの弱点の一つは、舜海だと菊江から聞いていた。思惑通り、珠生の表情が分かりやすく変化している。 「よぉく知ってるぞ、お前らのこと。お前、あいつとセックスしたら怪我から何から治るらしいじゃねぇか。おかしな身体してんな」 「……」 「霊気のねぇあいつとのセックスはどうだ? 物足りねぇんじゃねぇのか? 俺が代わりに相手になってやるよ。どうだ? 俺の式になれば、毎日でもてめぇの身体を可愛がってやるぜ……くくくっ……」 「黙れ……」  その時、激しい地響きが辺りを揺らがせる。  先程よりもずっと大きな爆発音が響き、背後からの爆風に珠生は思わずよろめいた。 「見ろよ。雷燕の封印が壊れる。……さて、向こうでは一体、何が起こってるのかな」  振り返った目線の先で、轟々と燃え盛る青黒い炎が見えた。  更に激しさを増す雨の中でも消えることなく、炎はさらに勢いを増して燃え上がり、低い雲をなめるように天を焦がしている。

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