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十九、式の使い方

 藍沢の危機に間に合った珠生を目の端に捉えながら、彰と敦は雷燕の封印場所へと走っていた。  駐車場脇の雑木林の中で、結界班の職員たちが倒れているのを見つけたのだ。彰と敦は、すぐさま結界の保護へ向かうことにしたのである。  雷炎の眠る場所は、金剛崎の石碑の地下深く。容易に起こせないような深い場所に眠っている。五百年前まで、彼が長きに渡り守ってきたこの土地で。  しかし、とうとう雷燕の眠りを妨げる者が現れてしまった。ほかならぬ、雷燕の心に邪悪なものを植えつけた、能登の祓い人によって。  それだけは絶対に阻止したい。彰は、視界を烟らせる雨の中をひたと走った。ばしゃばしゃと水を跳ねながら、少し後ろを敦が走っている。 「おいおい! いったいどうなっとるんじゃ! この辺一帯、ガラ空きじゃが!」 「周囲を守る感知結界が消えてるだけだ。雷燕の封印自体はきっと……」 「うッ……!」  不意に、一筋の閃光が彰の頬をかすめた。同時に敦が息を呑む音が聞こえてきた。  そして数秒後、敦の頑強な身体が、水を含んだ地面に倒れこむ。 「あ……敦!?」  思わず立ち止まった彰は、うつ伏せに倒れている敦に駆け寄り、身体を仰向けに転がした。  そして、目を見張る。 「……これは」  敦の白いワイシャツの胸のあたりが、焼け焦げている。まるで雷に心臓を射抜かれたような、そんな傷跡だった。 「敦!」  頸動脈で脈を確認し、呼吸を見る。  浅い呼吸を繰り返す敦の生は、驚くほどに頼りないものになっていた。彰はすうっと足元から冷えていくような感覚に陥り、視線を巡らせて術を放った相手を探した。  その時、雷燕の封印から青黒い炎が火柱が立ち昇った。  彰は思わず立ち上がり、一目散にそちらへと駆けた。  しかしそれを阻止するように、再び先ほどの白い閃光が彰に向かって風を切る。さっと身を屈めてそれを避け、彰は石碑の前に立っている男を見据えた。そして、その冷え冷えとした気配に警戒を強める。 「……水無瀬拓人か」 「どうも、よくご存知で」  品のいい身なりをした拓人は、黒い傘を差して悠々とそこに立っている。その背後では、青黒い炎が轟々と燃え盛っているのだ。彰は表情を鋭くし、さっと印を結んだ。 「黒城牢! 急急如律令!!」 「おっと」  拓人は動じることもなくひらりと身軽に術をかわした。後ろに跳躍しながら黒い傘を崖から海に投げ捨て、彰から距離を取る。石碑のそばから拓人がいなくなったのを見て、彰はさらに違う印を素早く結んだ。 「封魔滅却!! 急急如律令!!」  雷燕の封印場所を示す石碑を、分厚いガラスケースのような膜が覆う。尚も燃え続ける青黒い炎が、酸素を失って一瞬、勢いを衰えさせたかのように見えた。 「へぇ、そんな術もあるんや」  呑気な拓人の声。  しかし彼は、手を出してこようとはしない。彰は怪訝に思った。 「……君は、この結界を解けばどういったことが起こりうるか、分かってるのか」 「分かってますよ。あの伝説の大妖怪・雷燕が目を覚まし、再びこの地は瘴気の海……ってとこかな?」 「この土地は君たちの生まれた場所だろう。そんなことになってもいいっていうのか」 「俺たちは、この地になんの感傷もありませんよ。雷燕自体にも、俺は特に思い入れもないしね」 「じゃあ、なんで……!」 「楓が……俺たちのリーダーが、雷燕を欲しがってる。別に逆らう理由もないし、面白そうだから手伝ってやってるだけ」 「……何て馬鹿なことを! 君はこの妖の恐ろしさを知らないから、そんなことが言えるんだ!」 「まぁね。俺はあんたや楓と違って、正真正銘の現代人なもんで。でも、楓に話は聞いているよ。あいつは、あんたのことが、大嫌いだってな」 「それは僕も同感だね。ただ、忠告してやる。こんなことはもうやめろ。後から後悔するのは君たちだぞ」 「それ、脅しのつもりですか?」  にこやかに笑う拓人が胸の前で柏手を打つと、その背後から暗い灰色の煙が湧き起こった。そしてその中から、ぬぅと人の姿が現れる。   ふわりと漂うように拓人にしなだれかかったその人形(ひとがた)の妖は、黒地に艶やかな牡丹の描かれた豪奢な着物を身に纏う、婀娜っぽい女の姿。黒く裂けた目には白目がなく、まるで爬虫類のそれのようである。 「拓人様、お呼びで」  甲高く細い声でそう言うと、その女の妖は拓人にまとわりつく。脚は煙のようで、実態はない。 「こちらの陰陽師の相手をしてやれ」 「へぇ……陰陽師」  女の真っ黒な丸い目が、ぎょろりと彰の方へと向けられる。彰は怜悧な瞳に激しい怒りを滲ませて、すぐさま印を結んで詠唱した。 「陰陽閻矢百万遍!! 急急如律令!!」  彰の背後で数千の破魔矢が浮かび上がる。女が、さっと拓人の前に回った。  「お前たちと遊んでいる暇はないんだ!! 行け!!」  振り下ろされた彰の手に従い、破魔矢の群れは拓人の方へと鋭く飛んだ。地面に突き立ったものは激しく地面をえぐり、土塊を跳ね上げた。そして拓人と妖を直撃したであろう術の残滓が、けぶる雨の中でもうもうと白煙を上げている。  拓人と妖女の姿は、煙に紛れて見えなくなっていた。徐々に薄れゆく白煙と同調するように、彼らの気配もうっすらと頼りないものへと変化してゆくのが感じ取れる。  ――……死んだ、か。  ――僕はとうとう、現世でも人を殺めた……。  現世で、人を殺した。  彰は微かに震える拳をぎゅっと強く握りしめた。込み上げてくる激しい感情に思わず吐き気を覚えて、拳で口をぐっと押さえる。しかし、今はそれどころではない。彰は背後にいた藍沢に向かって、鋭く命じた。 「藍沢、封印を守れ! もう炎は消えているはずだ」 「は、はい!」  藍沢が、再びだっと駆け出す。もうもうと沸き起こる白煙を避けて石碑のもとにたどり着いた藍沢は、しゃがみ込んで地面に両手をついた。そして、鎮霊の詠唱を始める。  先ほど彰の放った結界術により、青黒い炎はほとんど消えていた。ぶすぶすと煙を立てて石碑を名残惜しそうに焦がす小さな炎のみが、そこにある。  彰は先ほどまでや拓人のいた場所へと歩を進めながら、スマートフォンをポケットから取り出した。莉央に連絡を入れようとしたその時、足元から声が聞こえてきた。 「くく……あんた、ほんまに強かったん?」  地面から黒い風が生まれ、かまいたちとなって彰を襲う。彰は咄嗟に身を引いたが、スマートフォンを持っていた右腕を細く斬られ、血を吹いた。 「藍沢! 離れろ!」  そう言い終わるか終わらないかのうちに、その場にどさりと藍沢が倒れる。スーツの背中がざっくりと裂け、そこからじわりと血が流れ始めた。 「俺らのこと、舐めすぎなんとちゃいますか? あんたは一ノ瀬佐為やから、相当やる男やと思ってたんやけど」  しゃがみこんでいた拓人の周りから、黒い煙がゆるゆると離れていく。それは再び人を模した姿となって、小馬鹿にしたような笑みを唇に浮かべる女へと変化(へんげ)した。  拓人がすっと立ち上がる。怪我一つしていないその姿に、彰は正直驚いていた。 「この子はね、こんな見てくれだが齢九百の黒井守でして。俺の一番のお気に入りです」  拓人はまとわりついてくる妖を愛おしげに撫でると、彰を見て微笑んだ。 「言っとくが、只の人間であるあんたの技など、こいつには通用しないよ。全て喰ってしまいますからね」 「……よく使役している。どういう契約だ」  彰の穏やかな口調に、拓人は少しばかり首を傾げつつ眼鏡を押し上げた。 「こいつが俺に惚れてるだけです。契約はあるが、そんなに強いもんじゃない。俺の霊気が、美味いそうでね」 「……ほう」 「楓は祓い人の中でもずば抜けて霊力が強い。だから奴はどんな妖でも縛ることができるが、俺にはそんなことはできない。でもね、やり方次第でなんとでもなるんですよ」 「……君はお喋りだな。何でも聞けば教えてくれそうだ」  ぱん、と彰も柏手を打った。そして、目を細めてニヤリと笑う。 「もっと色々と聞きたいが、そんな時間もない。式を使うのは好きじゃないけど、この際しかたが無いな」 「ほう、あんたの式か」 「蜜雲、来い!」  どろん、と白い煙が湧き、その中からぬうっと妖の姿をした密雲が姿を現す。  腕組みをした彰の背後で、巨大な白狐の姿を晒した密雲は、ぺろりと赤い舌を覗かせて鋭い牙を舐めた。 「……でかいな」 と、やや驚いたような表情で拓人がそう呟くと、彰は微笑む。  蜜雲の妖力の強大さに恐れを感じたのか、井守女がぐっと悔し気な表情を浮かべる。蜜雲はふさふさとした大きな尻尾を振って、文字通りの狐目でその妖を見据えた。 「御相手しろ。僕は結界を張り直す」 「承知」 「待て! そうは……」 「千年鎖!! 急急如律令!」  図太い金色の鎖が、ぐるぐると拓人の身体にまとわりつく。幾重にも幾重にも巻きついた鎖の重さで、拓人はがっくりと膝をついた。がしゃん、と巨大な南京錠が現れて施錠されるのを見た井守女が、慌ててそれを外そうと頑張るが、びくともしない。 「ご主人さまは人間だからね、こういった技は防げまい。君も、あんまりよそ見してると、食われてしまうよ」  風を切って井守女に襲いかかる蜜雲の牙が空を噛む音が響く。なんとかその場から逃れた井守女は、逃げ惑いながら忌々しげに彰を睨んだ。 「陰陽師にも、式を持つものはたくさんいるさ。ただし、陰陽師(ぼくら)が式を戦闘に使うことはほとんどない。己の手を汚さずに、妖を縛って罪を犯す。君たちのそういうやり方には、反吐が出るな」  妖狐と瓜二つの切れ長な目を細めて、彰は冷たくそう言い放った。拓人は舌打ちをし、小さく悪態を吐く。  井守女を追い立てて上空へと駆けていく蜜雲を見上げつつ、彰は急いで石碑と藍沢のそばに膝をついた。 「藍沢、生きてるか!?」 「……はい。大丈夫です……」 「すぐに終えるから、辛抱しろよ」  彰は目を閉じて息を整えながら、雷燕に語りかけるように石碑に触れる。 「再びこの地を騒がせて、申し訳なかった。すぐに封印を閉じ……」 「もう遅いよ、斎木先輩」   石碑の向こう側の崖縁に、ぼう……と青黒い炎が燃え上がった。  そしてその炎の中から、深春がゆっくりと姿を現す。

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