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二十、操られる深春
「深春……!」
「先輩、無理だって。だってその封印術燃やしたの、俺だから」
深春は憔悴しきった顔で、のろのろと彰の方へと歩を進めつつそう言った。俯いたままの目元は影になって、表情は読めない。
彰は立ち上がった。
「深春、京都へ帰ろう。柚子さんも、亜樹も、君のことを待ってる。珠生も、僕も、君を迎えに来たんだ」
差し伸ばされた彰の白い手を、ちらりと深春は見た。いつになく真剣な彰と目が合うと、深春は微かに視線を揺らがせる。
「君の居場所はここじゃない。もうこんな寒く冷たい場所にいる必要なんかないんだ」
「……もう遅いんだって、言ってるだろ」
「何が遅いんだ。拓人は捕らえたし、楓も珠生が始末する。君を縛るものはなくなる」
「……だからもう遅いんだって!! 見ろ!」
深春は着ているTシャツの首元をぐいと引っ張って、自分の首筋を彰に見せつけた。
鈍色の鎖が、深春の首を戒めている。その上に深春の絶望的に歪んだ顔が見える。
「……それは……!」
「俺は……楓の式になっちまった。何のために、俺がここに連れてこられたか分かるか? ……雷燕の容れ物になるためなんだぜ」
「……」
ぐっと眉根を寄せて険しい表情になった彰を見て、深春は自嘲気味に笑った。
風が強くなり、下から降っているのか上から降っているのかも分からない激しい雨が、音を立ててアスファルトに叩きつける。
「……こんな結界術。俺には効かねぇって知ってんだろ」
石碑の前に佇んた深春が手をかざしただけで、消えかけていた青黒い炎が再び息を吹き返す。バリン! と分厚いガラスが割れるような音が響き、封印のほころびを閉じようとしていた結界術が瓦解した。激しく燃え上がった炎に、競り負けたのだ。
「……もう少しで、封印が破れる。そうすると、雷燕のこの黒い妖気が、全部俺の中に流れ込むんだとさ」
「深春、やめるんだ」
「先輩……、もし俺が何にもできないまま雷燕に呑まれたら、容赦なく俺を殺してくれ」
「そんなこと……できるわけ無いだろう!! 何か方法があるはずだ!!」
深春は泣き出しそうな表情のまま、寂し気に微笑んで彰を見つめた。諦観の滲む深春の目の色は、妙に澄んだものに見える。彰は奥歯を噛み締め、印を結んだ。
「この封印を壊せと、命じられてんだ。あの茶髪のチンピラ野郎にさ……」
「やめろ、深春」
「駄目なんだ。身体が、勝手に動くんだよ」
深春は右手を石碑に翳したまま、左手をゆっくりと彰の方へと向ける。その動きに、深春の心は抵抗しているらしい。左手は、ぶるぶると震えている。
「……邪魔をするなら、一ノ瀬佐為を、殺せと言われてる。封印術を締め直すのは、あいつだからって……」
彰はじり、とすぐに動けるように身構える。
深春の能力は、目に見えない巨大な鎧のようなものだ。それに搦め捕られてしまえば、一瞬で肉体を握りつぶされてしまうだろう。
「逃げろ、先輩。今日の目的は、あくまでも雷燕の封印を破壊することだから、今、身を引いてくれれば……」
「この封印は渡せない! 君のことも、見殺しになんかできるか!!」
彰が悔し気な表情で、珍しく声を荒げる。深春はまた泣き笑いのような顔になり、彰の方へ向けられた左手の震えが激しくなった。楓の術に抗いたいという想いが、深春の全身から溢れ出しているように見える。
しかしそれは、うまくは行かなかった。徐々に開かられる深春の手から、青黒い炎が燃え上がる。
「……先輩。あんたさ……昔の俺に、金平糖、くれたよな」
「……え」
つう、と深春の目から涙がこぼれた。激しい雨に流されても、それは熱い雫となって、深春の頬に生きた感触を与える。
「俺が、夜顔だった頃……まだなんにも分からなかった俺に、甘いだろって……金平糖、くれた。俺に、服を作ってくれた……」
「……深春」
「ごめん、俺……! いっつもいっつもこんな馬鹿なことばっかりやってよ……! 結局いつも、誰かの言いなりになって、こんなことばっか……!」
「しっかりしろ!! まだそうなるって決まったわけじゃないだろう!!」
彰の怒号と、雷鳴が重なる。まるで雷に呼応するように、青黒い炎が一層燃え上がった。
低い曇天をなめるほどに、巨大な火柱が立つ。彰が一瞬そちらに目を奪われた瞬間、深春の左手からも炎が燃え上がった。
「逃げろ!! 早く……!!」
彰がその場から飛び退るのと、深春の炎が彰に襲いかかるのはほぼ同時だった。
「……っぐ……!」
胸に鋭い痛みが走る。まるで焼けた鉄で斬りつけられたかのような、激痛だった。
ばしゃ、と一瞬膝をつきかけたが、その反動を利用してくるりと一回転すると、彰は低い姿勢で深春の方へ身体を向けた。叩きつけるような雨が幸いしてか、あまり熱さは感じない。ただ、ぱっくりと裂けた胸から、どくどくと鮮血が流れ出している。
夥しい量の血液を一気に失ったがゆえに、襲いかかってくる脱力感と激しいめまい。彰はそれに、必死で耐えた。
しかし深春はすでに彰からは興味を失った様子に見え、虚ろな目つきで石碑のほうへと身体を向けていた。ばりばり……と天を引き裂くような雷鳴が轟き、一層激しく炎が踊り狂う。
「封印が……、壊れる……!」
立ち上がろうにも立ち上がれないほどの痛みで、体が重い。もどかしい。
――すぐさまあそこへ駆けつけて、僕が封印を守らなければならないというのに……!
彰が絶望に近い思いでその火柱を見上げていると、もう一つ、ひときわ大きく燃え上がる妖気を背後に感じた。
「深春!! 止まれぇええ!!」
深春が振り返る。
その目線の先には、宝刀を振り翳して斬りかかってくる珠生の姿があった。
青白い炎。白く輝く直刃。
縦に裂けた瞳孔と、金色の瞳。
彰はそこに、千珠を見た。
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