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二十一、雷燕の気配

【注】暴力的な表現があります。苦手な方はご注意ください。 「深春! 邪魔する奴は全員殺れ!!」  雷鳴に負けじと張り上げた楓の声が、深春の意識を奪うようにその目を曇らせた。  珠生は斬りかかろうとしていた宝刀をぱっと左手に持ち替えると、拳を固めて深春の頬を思い切り殴りつけた。骨と骨のぶつかり合う感触が、珠生の拳から伝わってくる。  ふっ飛ばされた深春であったが、なんとか転倒することなく踏み止まった。川のように水の流れるアスファルトの上に、ぺっと血を吐き出す。 「……いってぇ」 「深春。いつか言ったよな、こういうことになったときは、俺が全力でお前を止めてやるって」  珠生の口調は静かだった。  青白い妖気を滾らせる珠生の姿を、涙がでるほど懐かしいと深春は思った。必ず、来てくれると信じていた。  自分を倒すために。 「……珠生、くん」 「何も言うな。お前の気持ちは、聞かなくても分かる。全部終わってから、何でも聞いてやるから」  珠生は右手に宝刀を持ち直すと、身構えてまっすぐに深春を見据えた。 「……だから今は、黙って俺に斬られるんだ」 「珠生くん……早く。早く俺を斬ってくれ。じゃないと、もう……!」  ばき、みし……と不気味な音が響き、石碑がぼろぼろと崩れ去るのを、皆が見ていることしか出来なかった。 「封印が、壊れた。……俺……俺じゃ居られなくなるかもしれない」 「あっはははは!!! ついにやったぞ!!」  楓のけたたましい笑い声が、響いた。  再び、空を裂く雷鳴が轟く。恐怖に歪んだ瞳の深春の顔が、稲光の閃光で白く光る。  珠生はその表情の中に、恐怖に涙を流す幼い夜顔の顔をはっきりと見ていた。あの頃と同じ、運命に抗えない子どもの目をした深春の姿を。 「……いけない」  石碑から漏れだす黒い瘴気が、じわじわと辺りに立ち込め始めた。深春の足元を這いまわるようにしていたその黒い煙が、吸い込まれるように深春の中へと消えて行く。震えていた手が、だらりと体側に落ちる。珠生ははっとして、深春のもとへ走った。 「しっかりしろ! 抵抗するんだ!」  珠生の叫びも虚しく、深春の目が闇を吸い込む。白目までもが黒く染まる。  その腕を掴もうと伸ばした珠生の手が、深春に触れようとした瞬間、黒い煙が突如爆発するように激しく膨れ上がった。咄嗟にそこから飛び退った珠生も、呆然としてその黒い煙の柱を見上げることしか出来なかった。  そしてふと、その中から感じたことのある妖気を嗅ぎとった。  ぞっとするような、懐かしいような……遥か昔に相見えた、あの巨大な妖の気配を。 「……雷燕」  その気配は、五百年前と比べるとまだまだ微弱だが、そこに確かに存在している。静かに怒りを滾らせたようなどろりとした重々しい妖気が、静かに静かに、珠生の足元にまで迫ってきた。  気づけば、雨は小降りになっている。徐々に薄まっていく黒煙の中に、深春の影が見えた。  湿った地面を踏む、黒いスニーカーの足。履き古したジーンズ、色あせたTシャツ。お気に入りの古着屋で買ったのだと楽しげに言っていた深春の笑顔が、珠生の脳裏をかすめていく。  それは全て、見慣れた深春の姿なのに、珠生をまっすぐに見据えるその黒い目はまったくの別人だった。  闇よりも暗い、漆黒の瞳。血の気の薄い、紙のように白い肌。逆巻く風に舞い上げられる少し長い黒髪。  細めの、色のない唇が動く。 「……せっかく気持ちよく寝ておったものを……こんな無粋な形で眠りを妨げおって」  深春の声ではなかった。地の底から響くような、低く、抗いがたい迫力のある声に、珠生は息を呑む。 「雷……燕……」 「……貴様か。俺をここに呼んだのは。ん……?その妖気……どこかで」  小首をかしげる雷燕が、数歩珠生に歩み寄ってくる。そして、少しばかり目を見開き、微かに頷いた。 「千珠……か。あの半妖の子鬼ではないか。しかしまぁ随分と、人間臭くなったものだ……一体何故」 「雷燕。時代は移り変わったのだ。あれから五百年の月日が流れた。俺は別の肉体をもって、この世界に転生を果たした」 「ほう、輪廻も移り変わるほどの時間がねぇ……。それにこの身体……」  雷燕は自分の両手を顔の高さに上げ、自分の顔を触ったり身体を見下ろしたりすると、次にあたりを見回して、あいも変わらず黒黒と高波を打ち上げる海を見渡した。 「……何故俺が人間の子どもの身体に。しかしこの妖気、妙にしっくりとくるのは……」 「その少年は、お前の息子の妖気を持っているからだ」 「ほう」  ふと、雷燕はぴくりと眉を動かし、楓の姿を目に留めた。  その目が、みるみる負の感情に染まっていく。 「貴様、能登の祓い人ではないか……。そうか、また貴様らは、俺の安寧を邪魔するのだな」  楓はにやりと笑うと、鈍色の鎖を右手に掲げた。 「そういうことさ。それにあんたはもう、俺の術に嵌っている。試してみようか?」 「……なんだと」 「雷燕、そいつを斬れ」  じゃら、と鎖が冷たい音を響かせる。雷燕の首筋にある鎖が呼応するように、赤く光った。 「ぐっ……ああっ!!」   肉を焼く匂いと、煙が鎖から湧き上がる。身体に食い込んだその戒めは、首を掻きむしったところで外れるものではなく、雷燕は苛立った表情に苦痛の形相を乗せ、忌々しげに楓を睨みつけた。 「……この、餓鬼……!!!」 「ふん、どんな大妖怪だったか知らねぇが、今のお前は俺の式なんだよ。とっとと千珠を斬れ!」 「うぐっ……ぁ、あぐっぅうう……!!」 「やめろ!! ……もう、こんなこと、やめろよ……!! 深春を……雷燕を返せ!!!」  苦しみ悶える深春の姿を見ているのが辛すぎて、珠生は思わず楓に斬りかかっていた。楓は得たりとばかりににやりと笑うと、手にした鎖を両手で弄ぶ。すると、雷燕の目がふっと光を失った。  珠生の腹に、激痛が走った。  吹き上げる鮮血と、曇りきった黒い瞳が、琥珀色に染まった珠生の瞳に映る。 「……み、はる……?」  深春が、楓を庇ったのだ。  振りぬいた深春の手刀が、珠生の下腹を斬り裂いている。 「た……珠生!!!」  彰の悲痛な叫びがあたりに響く。  心臓を射抜かれた敦、濡れたアスファルトに倒れたままの藍沢、そして、みるみるうちに広がっていく血の海の中に倒れこんだ珠生の姿……。それはまるで悪夢の中の風景のようだった。 「くそ……珠生……っ!! くそっお!!」  先ほど深春に切り裂かれた胸の傷から大量の血が流れ、彰は尚も立ち上がれないままでいた。気力を振り絞ってアスファルトを踏みしめようとした彰に歩み寄ってきた楓が、勝ち誇ったように高笑いする。 「あっははははは!! 一ノ瀬佐為! あの頃とはまるで逆の立場じゃねぇか! ざまぁねぇなァ!!」 「……貴様ぁ……!!」   印を結ぼうとした彰の腹を、楓は笑顔のまま蹴り上げる。鳩尾にまともに爪先がめり込み、彰は地面にひれ伏す格好になった。げほ、げほと血を吐きながら、彰は怒りと憎しみにぎらついた目を楓に向けた。 「へぇ……まだそんな顔できんのか。なら、こんなのはどうだ?」  必死で起き上がろうとしている彰の髪の毛を掴んで持ち上げると、楓はその頬を思い切り殴りつけた。肉と骨のぶつかる鈍い音が数回響き、楓は最後に彰の顎を膝で蹴りあげる。 「てめぇはこんなもんじゃ済まさねぇからな。……おい、雷燕。封印を全部壊しちまえ。まだまだ力が足りねぇだろ」  動かなくなった彰に、唾でも吐きかけるようにそう言い捨てる。    倒れ臥す珠生と彰を呆然と見下ろし、立ち尽くしている深春の方へと、楓は軽い歩調で近づいていく。  わなわなと震える右手をべったりと血に染めて、深春は色のない顔を楓に向けた。  その表情がじわじわと強張り、目に微かな光が戻る。 「……珠生、くん……? うそだ、ろ……こんなの……」 「ん? 深春の意識がまだあるのか? ま、どっちでもいいや。さぁもう一度、この土地を地獄にしてやろうぜ。こんなつまんねぇ世界、ぼろぼろにしてやろうじゃねぇか」  楓はさも楽しげにそう言うと、血みどろになって動かない珠生の脇腹を、つんと爪先でつついた。 「現世の千珠さまは、まぁなんともお優しく育ったもんだな。なりふり構わず飛びかかってきやがった。お前の苦しむ姿を見てらんなかったんだろうさ」 「……ころ……す。てめぇ……てめぇを……殺してやる……!」  ぶるぶると激しく震える両手が、楓の方へとゆっくりと持ち上がる。それを嘲るように一瞥した楓は、もう一度深春に鎖を突きつけた。 「黙れ。お前は俺の言ったことをしてりゃいいんだ。お前の大事な大事な千珠さまが俺の手の内に堕ちるところを、そこで見てろ」 「……っ」  ぎらぎらとした光を取り戻していた深春の目が、再びどんよりと曇る。  意識を奪われ、呆然とその場に立ち尽くす深春の様子を見て、楓は珠生の脇にしゃがみ込んだ。 「五百年越しだよ、千珠さま。ようやくお前を俺のもんにできる」  楓は手にしていた鎖を見下ろしてにやりと笑うと、それを珠生の首に巻きつけようとその身体に触れた。 「……お前はこれから、俺の言いなりになって人間を狩りまくるんだ。くくくっ……この現世じゃ、単なる殺人鬼にしか見えねぇだろうがな」  じゃり……と冷たい鎖が珠生の首に触れた時、意識を失っていたかに見えた珠生がかっと目を開いた。さすがに仰天した楓は、思わず後ずさって珠生から距離を取る。  自らの血でできた赤い水たまりの中でうつ伏せに倒れていた珠生が、ゆっくりと手をついて半身を起こした。  血に塗れた顔の下、その血と同じくらい赤く染まった双眸が楓を睨みつけている。  四つ這いになった珠生の腹からは、尚もぼたぼたと大量の血が流れ落ちる。それでも珠生は楓から目をそらさず、ゆっくりゆっくりと身を起こす。鬼気迫る珠生の姿を、楓は驚愕の表情で見下ろしていた。 「お前、まだ動けんのかよ」 「下衆野郎……が……」  宝刀を杖に立ち上がった珠生の身体から、ひときわ強く青白い炎が燃え上がる。  深く傷つき血に染まりながらも立ち上がる珠生の姿に、楓は思わずゾッとしていた。  そして同時に、その禍々しき美しさに、見惚れもしていた。 「死ねよ……お前……お前が死ねば、あの術は解けるんだよな……あの時みたいにさ……」 「ほう、現代人とは思えねぇ発言だな」 「……殺してやる、お前を……殺してやるよ……!!」 「ふん、残念だがな、死ぬのはお前だ」  楓は強張った笑みを浮かべ、ぼんやりと立ち尽くしたままの深春に、声高に命じた。 「深春、千珠を殺せ」

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