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二十六、お宿にて

 その日の夕方には抜糸を済ませ、腹に包帯をぐるぐる巻きにされた状態で、珠生は退院することとなった。  医師の疑わしい目線をやり過ごし、看護師達の熱い目線をかいくぐり、珠生は舜平の車に湊とともに乗り込んで、病院を後にした。  まだ動くと痛むのか、珠生は後部座席に横たわって毛布にくるまり、眉を寄せて目を閉じている。そんな様子を、湊は助手席から振り返って気遣っている。 「痛み止めももらってきたで。夕飯食ったら飲みや」 「……食欲ない。それに、薬なんか効く気がしないよ……」 「そらあかんで。ゼリーでもアイスでもいいから、胃に入れとけ」 「うん……わかった」  舜平もルームミラーで珠生の様子を見つつ、慎重に車を走らせる。先導するのは、敦と藍沢を乗せた宮内庁の公用車だ。黒塗りのセダンが滑るように道路を走る姿を追いかけながら、湊は現場の後始末で見聞きした話を二人に伝えていた。 「……じゃあ、雷燕の封印は完全に破れたわけじゃないんだね」 「ああ。それでも深春の力と雷燕の妖気の一部が交じり合ったってことで、どのくらい力が増してんのかは分からへんて。珠生が喋った時、深春の意識は雷燕のもんやったんやろ」 「うん。なんか……懐かしかったよ」  珠生は旧友を思い返すような穏やかな表情で、唇に笑みを乗せてそう言った。 「雷燕は、楓の術に抵抗しようとしてた。うまくそこに力を貸してやれたらな……」 「なるほどなぁ」  湊は再び前方を向き、暮れかけた空を見上げて眼鏡を押し上げる。 「夕暮れ時になってようやく晴れたな……全く、こっちの天気は重苦しくて嫌んなるわ」 「せやなぁ……」 と、舜平も空を見る。  重苦しく空を覆い隠していた雲は切れ目ができ、そこから茜色の空が見えた。なおも黒い雲と、燃えるような夕空の対比は美しくもあり、そしてまたどこか不吉でもあった。  珠生は、そんな空をぼんやりと見上げていた。  +  それから三十分ほど車を走らせると、今回宮内庁が借りきっているという宿が見えてきた。  切り立った崖の上にある駐車場に車を停めた舜平は、暗闇に包まれ人気のないその場所を見回して、溜息をつく。 「やれやれ、どこに行っても人がおらへんな。気が滅入るわ」 「いやいや、人払いしてあるやろうから当然やろ」 と、湊。  珠生はすっかり眠ってしまっている様子で、静かな寝息を立てている。湊が後部座席のドアを開き、珠生を起こそうとしているのを、舜平は留めた。 「俺が抱えてくわ。湊は荷物頼む」 「おう」  駐車場からは、黒い海と頼りなげに駐車場を照らす小さな明かりしか見えない。どこに宿があるのかと湊が辺りを見回していると、藍沢要がのっそりと歩いてきた。 「藍沢さん、もう歩いてええんですか」  舜平の声かけに、藍沢は重たい目を上げてゆっくりと頷いた。  顔色が悪く見えるのは、何も灯りが少ないせいだけではないらしい。藍沢は意識のない珠生を見て、少し目を伏せる。 「先程は、珠生くんに危ないところを助けられました。何も出来ず、申し訳なかった……」  藍沢は神妙な口調でそう言うと、小さく頭を下げる。舜平はちらと珠生を見下ろしたが、その目は相変わらず伏せられたままだ。 「まぁ、起きたらもう一回言ってやってください。俺は現場にいいひんかったから分からへんし。……それに、あんたも怪我してはんねやろ」 「ええ……。でもまぁ、浅い切傷です。墨田よりは軽傷ですので」 「敦さんは?」  湊とは口を利いたことのなかった藍沢は、一瞬で湊の全身を観察するような目をした後、こう言った。 「もう部屋に移ってもらいました。なんとか、手を借りれば歩けるようです。治療班のものが手当しています」 「そうですか」 と、湊。 「こいつも、早く寝かせてやりたいねんけど。宿はどこにあるんですか」 と、舜平があたりを見回しつつそう尋ねると、藍沢は先に立って歩き出した。 「こっちです。みんな、今は出払っているので静かなものです。ゆっくり休んでください」 「探索か」  舜平の声に、藍沢は頷く。 「佐為さまも、直接探索に回っています」 「そっか……」  駐車場脇の急な階段を下ると、突然居心地のよさそうな灯りが見えた。海に面して崖に沿うように作られた建物が、今回の宿らしい。  黒瓦に白壁と、一見すると土蔵が並んでいるようにも見えるが、海へせり出したテラスにはライトアップされたプールやベンチ、パラソルが並んでいるのが見える。がらりと引き戸を開けて中に入れば、そこは高級感漂う京町家風の端正な佇まいが皆を迎え入れる。 「……毎回毎回、ええホテルやなぁ」 と、舜平は呆気にとられながらそう言った。 「ほんまや。何しにきたんか分からへんくなるわ」 と、湊。 「私たちの仕事はハードなものですから。お上も宿泊環境くらいは快適にとと、藍沢。  うなぎの寝床風に細く長い廊下をひたすら進んでいくと、一旦庭へ出て客室の並びに入るらしい。一番奥の部屋を示して、藍沢は立ち止まった。 「三人はこの部屋を使ってください。今……十八時半なので、そろそろ探索に出てた面々が帰ってきます。そしたら食事と会議になると思います」 「会議、出ていいんですか」 と、湊。 「そうですね……、どちらかお一人だけ出席してください」 「分かりました」 「まぁ温泉もありますけど、部屋に風呂もあるので。好きな方を使ってください。今のうちに旅の疲れは癒しておいてください」 「……温泉なんか入ってられへんやろ」 と、舜平は部屋へ上がりこみながらそう言った。 「そうですか? まぁ常盤さんなんか、戻ったら速攻行くと思いますけどね」 と、藍沢は初めて少し微笑んでみせた。 「確かに」 と、湊。 「私も少し休みます。隣の隣の部屋にいますので、なにかあったら声かけてください」  そういい置いて、藍沢は青い顔をしたまま扉を閉めて去っていった。  部屋にはベッドが二台あり、押入れには布団が入っている。とりあえず珠生をベッドに寝かせ、湊は窓際においてあった座椅子に腰掛けて息をつく。  「……こんな時でもなきゃ、こんなええ旅館、テンション上がってまうよなぁ」  窓から見えるのは、真っ黒な日本海だ。視界を遮るものは何もなく、きっと日が昇れば、素晴らしい景色が広がっているのだろう。今はこんな暗い海を見ていたくないと、湊は早々に重たい素材のカーテンをひく。防音と防寒を兼ねているのだろう、厚手の重たいカーテンだった。 「霧島んときもすごかったよな」 と、舜平は珠生に布団をかけながらそう言い、はたと手を止める。 「あ、シャツに……血が」 「え? ああ、まだ出血してんのか」  白いTシャツをめくって覗きこむと、腹にまかれた包帯に赤い色が滲んでいる。湊はごそごそと自分のリュックサックから救急セットを取り出した。 「お前、どんだけ準備いいねん」 「こんなこともあるかと思ってな。今はお前の得意技も使えへんわけやし」 「得意技て」  湊は舜平に珠生の上半身を抱き起こすよう指示を出すと、てきぱきと包帯を外してガーゼを剥がした。抜糸は済んでいるものの、下腹を横一文字に裂く長い傷ができており、白い肌に赤い傷跡が痛々しい。 「流血ってほどじゃないか。とりあえず、ガーゼだけかえとこか」 「お前はほんまに手際がええな」  舜平は湊の手つきを感心して見下ろしていたが、珠生が微かに身動ぎしたのに気づいてその顔を見下ろす。何か夢でも見ているのだろうか、瞼がたまに痙攣し、長い睫毛が震えている。 「……珠生」  小さく名前を呼びかけても、珠生は反応しない。再び清潔な包帯を巻かれ、ベッドに横たわると、苦悶の表情を浮かべて小さくうめき声を上げる。 「痛そうやな」 と、湊。 「……ああ。もどかしいわ」 と、舜平はぎゅっと珠生の手を握りしめた。  宿には、徐々に人の気配が戻りつつあった。扉の外で人の声がしたかと思うと、彰がひょっこり顔を覗かせる。 「あ、先輩」  湊がまっさきに気づいて声を上げると、舜平も扉のほうを振り返って少し笑顔を見せた。それを見て、彰も少しほっとしたように微笑むと、畳張りの部屋の中へ、佐久間を伴って入って来た。 「お疲れさん、どうやった」 「方向は絞れた。山の方へ逃げたようだから、夜が明けたら山狩りだな」 と、彰は空いていたベッドに腰掛けてため息をつく。頬が腫れたり擦り切れたりしていたが、今は腫れも引いており、すっきりとしたいつもの顔に戻っている。 「うわ……ほんまに珠生くん、やられてしもたんか」 と、佐久間は苦い顔をして、横たわっている珠生を見下ろした。 「……可哀想に。結構な大怪我やったんやろ?」 「ええ、まぁ。でも医者もびびるくらいの回復力ですからね、縫合と輸血でなんとかここまで」 と、湊。 「そっか……。あかんなぁ、珠生くんばかりに頼ってたらいかんと思いつつ、こうしてやられてしまった姿を見てしまうと不安になるわ」  佐久間が気落ちした声でそんなことを言うものだから、彰はべしっと佐久間の尻を叩いた。 「情けないことを言うな、それでは敵の思う壺だろう! あなたはいい年した大人なんだから、もっとしゃきっとしてくださいよ」  びしりとした彰の声に、佐久間は背筋を伸ばしてこくこくと何度も頷いている。 「す、すみません!! 失礼しました!」 「子どものおいたにいつまでも付き合っている暇はないんだ。さっさとけりをつけよう」 「子どもって? お前と大して歳変わらへん奴らやろ」 と、舜平が言うと、彰はいやいやと首を振る。 「思想がまるでお子様だよ。やつらの個人的すぎる理由に、僕らが付き合ってやる義理はない。ここまでことを大きくして、怪我人までこんなに出してしまったんだぞ」  水無瀬拓人の証言について、彰は舜平たちに話して聞かせた。佐久間もそれは初耳だった様子で、じっと真剣な顔で聞いている。 「……確かに個人的な理由やな」 と、舜平。 「拓人の言う、古くからの伝統や慣習に疑問を感じつつ逆らえないという気持ちは分からなくもない。が、だからといってこんな騒ぎを起こしていい理由にはならないよ。楓に至っては、強い妖を使ってみたいという理由と、僕への復讐だ。恨みがあるなら、僕に直接仕掛けてくればいいものを」 「まともに突っかかって、お前に勝てるとは思えへんけどな」 と、舜平。 「とはいえ、つまらない現状を壊したいなんて、くだらない動機だよ。深春や雷燕さえも、そのための道具としか考えていないんだ。……もう野放しにはできない。祓い人の集落は、明日にでも我々の監視下に置く」 「監視下、ですか」 と、湊。 「あそこはずっと手付かずになっていた。霊力を持つものは国が保護し監視するという制度が、この国の裏側には存在している。なのにずっと、この土地は見逃されてきたんだ。ただ、それを執行するというだけのことさ」 「なにか手荒なことをするんですか?」 と、湊。 「いや。そのつもりはない。それに、彼らももはや抵抗することはないだろう。楓一人止められないあの老人たちや、世間を知らない若者たちだ。説得だけで何とかなるだろう」 「……そうですか。なんや戦争に行くみたいな口調にきこえたから」 と、湊は浮かない顔をしてそう言った。 「昔とは違うからね。五百年前なら、きっと僕は武力制圧を考えただろうが」 「そうやろうな」 と、舜平。 「まぁ、あんま無茶すんなよ」 「分かってるよ。大丈夫だ」 と、彰は目を伏せて微笑み、珠生の横たわっているベッド脇に膝をついてそっとその額を撫でる。 「……悪かったね、こんな怪我をさせて」 「こいつはそんなこと気にせぇへんて。それより、お前の具合の方を気にするやろうな」 「はは、そうかもね」  彰は笑って珠生の頬を撫で、立ち上がった。 「会議は食事の後にする。僕も疲れたしね。会議には湊が来てくれ。舜平は珠生についててやって」 「はい」 「残念ながら食事は仕出し弁当さ。今回従業員も皆休んでもらっているから」  彰はつまらなそうにそう言って肩をすくめると、部屋を出て行った。佐久間はしばらく彰の出て行った方を眺めていたが、ふうと息をついてもう一台のベッドに腰掛ける。 「お疲れっすね」 と、舜平。 「いやはや、ほんまにね。佐為様も今はあんなに落ち着いて喋ってるけど、最初はもんのすごい怖かってんで」 「え、そうなん?」 「……まぁ、あんまり言わんとこ。壁に耳あり障子に目ありや」  佐久間はぶるりと身震いして、部屋のあちこちを見回す。そんな仕草に、舜平と湊は笑った。 「それにしても、珠生くん。夜になって熱が出ぇへんとええけど」 「そうなんですよ」 と、湊。 「会議の後に治療班の人が来てくれはるから、それで少しは持ち直すとええな」 と、佐久間はしげしげと珠生の顔を見つめながらそう言った。そしてしみじみ、「……それにしても、珠生くんは可愛い顔してんなぁ……」と呟いている。  じいっと穴が空きそうなほどに珠生を見つめる佐久間の目線を嫌がるように、珠生は小さく呻いて寝返りをうった。

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