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二十七、夢の告げるもの

 珠生は一人、闇の中を歩いていた。  ひたひたと湿った地面を踏みしめながら、あてどもない闇の中を往(ゆ)く。  微かに鼓膜を震わすのは、ちろちろとした水の流れる音。微かに湿った土の匂いが鼻をつく。  音、匂い、踏みしめる地面の感覚は明晰なのに、どうしてか目の前は暗い。  それが、月のない夜を歩いているためだと気づいたとき、きらりと川面に反射する白い月が視界に飛び込んできた。  立ち止まり、あたりを見回す。  澄んだ湧き水の流れが、小さな川を作っている。足元は湿った落ち葉の重なり、ふわふわとしたクッションのようだ。  暗い空に煌々と光る白い三日月。  自然の匂い。  静かだ。何の気配もしない。  少しずつ意識がはっきりとしてくるにつれて、珠生は自分の立っている場所に疑問を抱き始めた。見たこともない場所だ。  青葉の山々とは違う空気。もっと湿っていて、鬱蒼とした、人を退けようとする妖の匂いの立ち込めた山……。  ――舜……?  声に出そうとして、自分の声が出ないことに気づく。声を出そうとしている自分の身体も、はっきりとは感じられない。  ここ、どこだ……?  俺は、一体どうしてしまったっていうんだ……。  舜、どこにいるんだ。  ぎゅあぎゃあ、と背後で鳥獣の鳴く声が刺すように響き渡り、珠生ははっとして振り返る。闇夜だというのに、黒く大きな鳥が空へと舞い上がっていく不気味な気配が、珠生の足元を覆っていく。体が動かない。声も出ない。  刹那、直接魂を脅かされるような、深淵から這い上がってくるような恐怖を感じた。  ――……怖い!!  突如、自分のものではない感情が珠生の中で爆発する。  ――助けて!! 怖い……怖いよ……!! ここから出して……!!!  困惑してあたりを見回しても、そこには何もない。闇があるだけだ。  ばさばさと鳥が飛び交う不気味な黒い影が、まるで自分を攻撃してくるように感じる。  ――夜顔? 怯えているのか……?  どこにいるんだ。俺は、お前を助けに来たんだ。  ――お前は俺の、写身(うつしみ)だ。  宿命を背負ったその小さな背中に。  暗闇に封じられているその黒い瞳に、あの光輝く太陽を見せてやりたい。  どこにいるんだ……?  何故そんなにも、怯えているんだ。  ――深春……! 「……珠生。珠生」  身体を揺さぶられ、珠生ははっとして目を開いた。何度か瞬きをして見あげた先には、見慣れた舜平の顔がある。  珠生が目を開いたのを見て、彼は安心したように微笑むと、そっと手を伸ばして頬に触れた。 「……舜」 「お前、めっちゃうなされてたで。何の夢を見たんや」 「夢……?」 「何で泣いてるんや。どうした」  心配そうに自分を見つめる力強い瞳に映る自分の姿は、沖野珠生の姿だった。ここは現世なのだ。  ――じゃあ、あの夢は……? 「……気持ち悪い」 「え?」 「……シャワー、浴びたい……」 「あ、ああ。部屋にある。立てるんか、お前」  身を起こし、包帯の巻かれた腹を見下ろす。ベッドから脚を下ろしてぐっと力を込めて立ち上がると、ずきんと貫くような痛みが全身に走った。 「……つっ……!」 「珠生……」  支えられ、何とか踏みとどまる。呼吸を整えて何とか姿勢を保つと、珠生は舜平の腕をそっと掴んだ。 「……大丈夫。これくらいなら」 「そうか」  ゆるゆるとした動きで浴室へ行き、包帯を剥ぎとってバスタブに腰掛け、傷を見た。へその下を見事な傷が横一文字に走っている。迷いのない太刀筋がありありと浮かび上がってくるような傷跡だ。やや赤く腫れている傷からは、少しばかりまだ出血がある。構わず熱いシャワーを浴びていると、今朝からの戦いからの汗や血の匂いが消えていくのが分かり、人心地ついてきた。  うっすらと赤い水が、排水口へと渦になって吸い込まれていく。  珠生ははっとした。  あれは、深春の思念に違いない。  ただの夢じゃない。  深春に斬られたことで妖気が流れ込み、少しだが感情が同調しているようだ。  ぱぱっと身体を拭いてタオルを腰に巻き、部屋へ戻ると、舜平と湊が同時に珠生を見た。 「こ、こら、なんちゅう格好してんねん!」 と、舜平は慌てているが、湊は淡々と押入れから新しい浴衣を取り出している。珠生は半裸のまま舜平に尋ねた。 「先輩は?」 「え? なんか用事か?」 「話したいことがあるんだ。すぐに」 「分かった、呼んできてやる。お前はそれまでにちゃんと服着とけ、熱出るぞ」 「あ。うん……」  舜平が部屋を出て行くと、湊が珠生に浴衣を手渡した。 「ありがとう」 「夢でなんか見たんか」 と、湊は鋭いことを言うので、珠生は微笑んだ。 「そう、分かる? さすが」 「深春の行方か?」 「多分……はっきりとは分からないけど、佐為に聞けば何か分かるかもしれないから」 「なるほどね」  そこへ、彰が藍沢を伴って入ってきた。藍沢はすでに血色も戻っているように見えた。藍沢は、浴衣を着流してベッドに胡座をかいている珠生を見ると、ややホッとしたような表情を浮かべている。 「珠生、良かった。顔色、良くなってきたね」 「……ねぇ、佐為」 「ん?」  彰は珠生のベッドに腰掛け、小首を傾げてその顔を覗きこんだ。 「こんな夢を見たんだ」  珠生はさっき見たばかりの夢、そして深春との同調についての意見を彰に話して聞かせた。彰はじっと珠生から目を逸らすことなく話を聞いていたが、ふと浴衣の袷から覗く珠生の肌に目を留める。 「傷に触っても?」 「あ、うん」  なんのためらいもなく帯を外して前を開けるので、藍沢が慌てて目を逸らす。彰は傷をそっと指でなぞり、そこに妖気の残滓を探しているようだった。 「……確かに、深春の妖気を微かに感じる。でもこれを辿って彼らを探せるほどではないな……」 「そうか……」  明らかに残念そうにする珠生の衣服を直してやりながら、彰は微笑んだ。 「でも、その夢からヒントは得た」 「本当ですか?」 「小川……君の歩幅で跨げるほどの幅。ということは上流のほうだろう。それだけでも、かなり捜索範囲は狭まるからね」  彰は立ち上がり、藍沢に頷いて見せてから部屋を出て行こうとする。扉の前で立ち止まり、こう言った。 「君の治療は藍沢がする。君に借りを返したいらしいし」 「借り? ……あぁ」  藍沢はベッドサイドに膝をつくと、目線で珠生に横たわるようにと訴えかけてくる。どうも素直に礼は言えないらしい。そのなんとも言えない表情に、珠生は軽くため息をついて横になった。 「……浴衣、開いてくれますか」 「……」  藍沢は傷をしばらく観察していたが、珠生の下半身に布団を掛けて治療を始めた。  この男のことはどうも好きにはなれないが、他者の霊気が傷を癒していく、その暖かくくすぐったい感覚は、ほんのりと心地が良い。 「……ありがとうございました。今朝方は」  ぼそ、と藍沢は珠生だけに聞こえる声量でそう言った。舜平と湊は居間の方でニュースを見ているが、舜平はじっと藍沢の動向を警戒しているように見える。 「……いえ、別に」 「強いんですね、君は」 「まぁ……。でもこうして、やられちゃってますけど」 「私は、実際に千珠さまが戦っておられる姿は見たことはありませんでした。でも、今朝の君の姿……心底惚れ惚れしましたよ。人間の戦い方とは思えない、鮮やかさだった」 「……人間、ね」 「今後ますます、君から目が離せなくなりそうです。沖野珠生くん」 「……それは別に構いませんが……」  珠生はうとうとしながら藍沢の言葉に応じている。そんな様子に和んだのか、藍沢はふっと微笑んだ。 「先ほどのあの強さの後でこんな無防備な姿を見せられたんじゃ、かないませんね」 「……大昔も、誰かにそんなことを、言われたような気がします……」 「そうでしょうね」  程なく、珠生は寝息を立てて寝入ってしまった。藍沢は治療の手を休めることなく、片手でさらりとした茶色い髪を梳いてみる。柔らかい、絹糸のような髪だった。 「寝たんか」  寝室と居間の境目に、腕組みをした舜平が立っている。藍沢はすっと珠生の髪から手を離し、その寝顔を見つめたまま頷く。 「ええ。……なんとまぁ、可愛らしい」 「なんでよりにもよってお前に治療を……」 「僕には、あなたがたに対する敵意なんてありませんよ。それに、今ここにいる職員たちの中じゃ、僕の治療が一番効力がある」 「……そうやとしても。俺はお前を珠生に近づけとうないな」  憚りもなくそんなことを言う舜平を、藍沢は振り返った。  五百年前と同じ、迷いのない真っ直ぐな黒い瞳がそこにある。強い光を湛え、何事にも屈服しないであろう頑丈な芯を持つ黒い瞳に、二つ心を持っていた浮丸はひどく怯えさせられたものだった。  霊力を失っても尚、舜平の目つきや佇まいは堂々として、あの頃と何も変わらない。今も、直視するには眩しすぎる眼差しだ。 「舜海さまは、昔と何も変わらないですね」 「そうか? 今は霊力の欠片も持ってへんけどな」 「いえ……それ以前の問題かもしれない」 「どういうことや」 「……さて、今夜は、傷の手当はここまでにさせてください。僕も多少は自分の怪我の治癒に当てないといけませんから」 「おう……。あんた攻方やろ? 治療もできんねんな」 「僕は一通りのことは何でも出来ますから。佐為さまほどの力量はないにせよ、器用な方なもので」 「へぇ。せやから北陸支部を任されてるっちゅうわけか」 「はい。君たちのお役にも、立てると思いますよ」  藍沢は身を屈めて珠生の衣服を直し、布団をそっとかけ直す。平和に寝息を立てている気の抜けた表情を見下ろし、もう一度微笑んだ。 「幼く見えますね、この人は」 「……せやな。寝てるとな」 「あなたは今でも、この人を守って生きているんですね」 「……まぁな」  藍沢はワイシャツの腕まくりを直しながら、部屋を出ようと歩を進める。舜平の脇を通り過ぎるとき、ちらりと視線がぶつかった。  意味ありげな微笑みを残して部屋を出て行く藍沢を、舜平は何となく落ち着かない気持ちで見送る。 「何考えてんのかわかりにくい人やな、あの人」 と、テレビを眺めながら湊がそんなことを言う。 「……そうやな。また祓い人とつるんでんちゃうかと思って見てたけど、そういう感じでもないし……」 「まぁ、まだ千珠さまや夜顔への恨みが消えへんのかな。それで、どういうふうに接していいか分からへんのかも」 「どうやろうな……」  居間から声をかけてくる湊に、舜平は寝室から返事をする。眠る珠生の頭を撫でながら、その傷を確認した。  腹の傷は、確かに随分と良くなっている。藍沢の治療は本物のようだ。 「敵じゃないなら、それでいいねんけど」  舜平の手の感覚に刺激されたか、珠生が微かに呻いて頭を手前に傾ける。うっすらと開いた唇から漏れる、ふわりとした吐息の感触を、どうしてかとても懐かしく感じた。  能登の夜が、更けていく。

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