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二十八、深春の居場所
微かに水の流れる音が聞こえる。ちろちろ、ちろちろ……と小さな流れの音が。
重たい目を開くと、視界にはぼんやりとした灰色の明かりが見える。煤けた天井に、曇り空の色が映っているようだ。
「……目が覚めたんですか?」
硬い床の上に寝かされているようだ。ゆっくりと声のする方へ首を動かすと、そこにはまだ幼い少年が座っており、目が合うと勇んでこちらに近づいてきた。
「大丈夫?」
「……」
――誰だ……このガキ。敵意がないのは分かるが、知らない顔だ。
「ねぇ、大丈夫? 傷の手当てはしたけど、痛む?」
「……っ」
その問いかけには応じて、ゆっくりと身を起こす。激しい痛みはないが、ずしりと鉛を飲み込んだように重苦しい具合だった。
何か、とんでもないことをやってしまったような……大切なものを、傷つけてしまったような……。
自分の手を見下ろすと、微かに血がこびりついている。
――誰の、血だ……?
「よぉ、目が覚めたか」
今度は聞き覚えのある男の声だ。弾かれたようにそちらを見遣ると、その部屋のドアにもたれて、若い男が立っている。
「……てめぇ」
「派手に暴れた割に、顔色はいいじゃねぇか」
「暴れた……?」
見れば見るほど、苛々とさせられるような顔立ちだ。細い唇をつり上げて、男は笑う。
「お前は、千珠の生まれ変わりをその手で斬り裂いたんだ。おしかったな、もうちょっとで殺れたのに」
「え……」
不意に、琥珀色の瞳が驚愕の表情に見開かれる様を思い出す。その手に残る、皮膚や臓腑を切り裂いた生暖かい感触も。
「た……珠生くん……」
思い出した。俺が、珠生くんを斬ったんだ。
その後……どうなった。珠生くんは、一体どうなったんだ。
「あぁ……あぁあああ……!!」
深春は頭を抱えてうずくまり、苦悶に満ちたうめき声を上げる。それを傍らで見ていた薫までも、泣き出しそうな表情になるほどに痛ましい叫びだった。
「……その反応は深春か。おい、雷燕はどうした。その腹の中にいるんだろう」
楓が近づいてくる。
燃え上がるような憎しみを感じて、深春は楓に飛びかかろうとした。しかし、それはやはりうまくは行かなかった。
立ち上がりかけた途端に、首を焼かれながら締め上げられるような痛みが襲う。深春は倒れこんで首を掻き毟り、苦痛の痛みに叫び声を上げる。
「ぐあ……あぁあああ!!!」
「やめて……! 楓、やめてよ!!」
たまらず楓に飛びついた薫の目からは、痛ましげな涙が溢れている。楓は冷ややかな目つきで薫を見下ろし、煩わしそうに薫の身体を払いのけた。
「俺がやろうと思ってこうなってるわけじゃない。深春が俺を殺そうと思っているから、術が戒めをかけているだけだ」
「じゃあこんな術、もう解いて!! 可哀想だよ!」
「かわいそう? お前、馬鹿じゃねぇのか。せっかく捕まえた夜顔と雷燕を、みすみす手離すわけねぇだろうが」
「……そんな……! 拓人は? どうして拓人はここにいないの?」
「あいつはもう要らない。この場所のことも知らねぇしな」
「……嘘。じゃあ、何で僕を連れてきたん?」
「お前はガキの中でも霊力が強い。雷燕の餌にちょうどいいかと思ってな」
「えさ……?」
「まぁせいぜい世話してやんな。いつ食われちまうか分かんねぇけどな」
へたり込んだ薫に嘲笑を見せ、楓はドアを閉めて行ってしまった。六畳ほどの何もない部屋の中、ふわふわと埃が舞い上がる。
ぜいぜいと苦しげな呼吸をしていた深春が、ようやく落ち着いたのかあぐらをかいて座った。それの動きにビクッと身体を震わせて、薫がゆっくりと振り返る。
「……お前なんか食わねぇよ」
深春は首を押さえたまま、ぼそりとそう言った。
「雷燕って……あの?」
「まぁな。今は……眠ってるのかな、よく分かんねぇ」
「あんな大妖怪を身体に入れて……平気なの?」
「俺はもともと雷燕の子どもだ。なんてことない」
「……」
薫は恐る恐るといった様子で、ゆっくりと深春に這って近づいてきた。
「お前は何でこんなとこにいんだよ」
「楓に、連れて来られたんだ」
「無理やりか?」
「……拓人のことが、心配じゃないかって。会わせてやろうか? って言われて……」
「あぁ、もう一人のやつか……」
深春は立ち上がり、換気用と思われる小さな窓から外の景色を覗きこんだ。外は明るいが、また雨が降っている。ここのところ、そんな天気ばかりだ。
最初に連れて来られたロッジよりも、ずっと山深い場所のようだ。今いる部屋はかなり埃っぽく、相当長い間人の手が入っていなかったことが窺われる。楓はこういう時のために、あちこち廃屋を探しておいたのだろうか。
「楓 は何やってんだ」
「うん……里のほうがね、なんだか騒がしいからって、ずっと式を飛ばして情報収集してるみたい」
「騒がしい?」
「陰陽師衆が、僕たちの里を包囲してるって……けが人も出てるって」
「……包囲」
楓や俺を探しているんだろう。それも少し手荒な手段を使ってまで。
藤原のやり方じゃない。きっと彰か、莉央あたりが指揮を取っているに違いない、と深春は考えた。今までの歴史において、祓い人と陰陽師は決してうまくはいっていなかったが、直接的な手段に出るのはこれが初めてだろう。
――……もう我慢ならねぇってか。
「どうしたの?」
「……お前は、ここにいて平気なわけ? 大人たちが心配すんだろ。なんとか連絡取れねぇのか」
「取りたいけど……」
「お前も式とか飛ばせんだろ? 使役してる妖がいるんじゃないのか」
「楓に全部、取られちゃったから……」
「そうか」
深春は諦めて、どかりとまた床に座り込んだ。
――あの人達なら……きっと俺を見つけてくれる。そして、これ以上面倒を起こす前に、きっと俺を殺してくれるだろう。
何よりも国を想って動く陰陽師衆なんだ。そうしてくれると俺もありがたい……。
諦めに近い気持ちを感じ始めると、次第に心が穏やかになってくる。
これ以上、自分に優しくしてくれた人たちを傷つけるくらいなら、死んだほうがいい。
――珠生くん……死んでないよな。俺よりもずっと強いあんたのことだ、きっと生きてるよな。
早く来て、俺を殺してくれ。
今度こそ、こんな魂は永久に封印して欲しい。
もうこんな想いはしたくない……。
深春はもう一度ごろりと横になって、窓から見える小さな空を見あげた。
空が深春の代わりに涙を流すように、大粒の雨で窓を濡らす。
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