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四十四、薫と深春

 京都へ出発する時間が、近づいている。  めいめいが荷物をまとめて帰り支度をする中、身一つで能登へとやって来た深春は、ぶらぶらと宿の付近を散歩していた。駐車場からほど近い場所に展望台を見つけた深春は、足取りも軽くそちらへと向かってみた。  晴れ渡った空の下にある能登の海は雄大だ。深い青を湛えた美しい海だと、深春はしばし展望台から海の風景に見惚れていた。  深春の記憶の中にある能登の海は、いつも陰鬱な暗い灰色だった。岩肌に砕ける白波から感じるものは、激しい拒絶。この土地の持つ禍々しさをあらわすかのように荒れ狂う暗い海は、人々の憎しみの象徴のようなものだと感じていた。  しかし、今朝の海の美しさは、見違えるようだった。凪いだ海面にはきらきらと陽光が反射し、海鳥の声がのんびりと響いている。空にぷかぷかと浮かんだ白い雲はわたあめのようで、夏の海風はどこまでも爽やかだ。  祓い人という、古い因習に囚われた人々が全て宮内庁特別警護課の管理下に入ったことで、長きにわたってこの地を縛り付けていた陰鬱な何かが、きれいさっぱりなくなったような感じがする。これまでの重く湿った不気味さが消え、何もかもが新しく生まれ変わったような。  深春は空を見上げ、深呼吸をした。  もう、当分はここへ来ることはないだろう。でも、それでいいのだと思う。  雷燕の御霊(みたま)は、もうここには存在しない。    ここは、夜顔としての自分が生まれた場所。人間たちの憎しみをぶつけられ、大岩の奥に閉じ込められ、気が狂うほどの孤独と憎しみを培った場所でもあった。しかし今は、もう誰を責める気持ちにもならない。そんなふうに変化している自分の心に、一番驚いているのは深春だった。 「深春……」  おずおずとした声。振り返ると、薫がそこに佇んでいた。あの廃屋で見た時よりも、小綺麗格好をしている。白いポロシャツと黒いズボンに身を包んだ薫が、心配そうな顔で深春を見つめていた。 「薫じゃん。……どうしてここに? よく来れたな、こんなとこまで」 「あの、斎木さんて人から、連絡もらって……。電車とバスで、来たんだ」 「先輩が?」 「深春に、謝りたかったから……」 「え?」  薫は体側で握りしめた拳を震わせながら、直角に体を折った。 「ごめんなさい……! 楓と拓人が……あんな」 「な、なんでお前が謝るんだよ」 「僕は、あの二人の幼馴染なのに、あの二人のしてること、間違ってるって思ってたのに、止められなくて……! 深春にもひどい怪我させて、いっぱい泣かせて……ごめん、本当に」 「薫……」  顔を上げた薫の表情は、痛ましく歪んでいた。泣くのを堪えているのだろう、血の気が失せて白くなるほどに唇をきつく噛みしめている。  深春は薫に歩み寄ると、震える肩にそっと触れた。 「何言ってんだよ、お前のせいじゃねーだろ」 「けど……」 「あの野郎のことは、里の長でも止められなかったんだろ? それにあいつは転生者だ。お前の手に負えるやつじゃねぇよ」 「……」 「お前は楓に、元に戻って欲しかったんだよな? 昔のあいつに」 「……うん」 「けど、水無瀬楓真の魂に喰われちまった。……いわばあいつも、被害者の一人だったんだなって、今は思う」 「……あんなこと、されたのに……?」 「まぁ、思い出すと腹立つけどな。けど、あいつもきっと、本当は(とど)まりたかったんだと思う。あいつに一度触れた時、あいつの肌や目つきには迷いがあった。でも、走り出してからじゃもう、止められなかったんだろうな」 「……うん」 「仲間に救われた俺より、仲間を失ったお前のほうがつらいだろ。……俺に謝る必要なんかねぇから、薫は本物の楓をきっちり弔ってやれよ」 「……うん」 「……こんなガキにこんな顔させて、どこまでもバカな野郎だな」  泣き出した薫を、深春は片手で抱き寄せた。肩口に顔を埋めて嗚咽を漏らす薫の背中を、そっと撫でる。 「お前、いくつだっけ?」 「十四……」 「ちゃんと学校行けよ。散々サボってた俺が言うなって感じだけど」 「……うん……いぐ……」 「あんな里に、縛られるなよ。お前の人生は、お前のもんなんだからな」 「うん……うん……っ」  顔を上げた薫を見つめて、深春は優しく微笑んだ。ただでさえ上気していた薫の頬が、ぽっとさらに赤くなる。 「落ち着いたら、京都に遊びに来いよ。案内くらいしてやるから」 「ほ、ほんと……?」 「おう。行きたいとこ考えとけよ。うちに泊まれるように、家族にも話とくからさ」 「あ、ありがとう……! 楽しみにしてる……! うわぁ」  パッと目を輝かせて、薫はぎゅっと深春のシャツを掴んだ。そんな薫の頭をわしわしと撫で、深春は気持ちのいい笑顔を浮かべた。  その様子を少し離れた場所から眺めていたのは、車の準備をしていた舜平と彰だ。荷物を積み込んでいるときに、たまたま二人の姿を見つけたのである。 「祓い人のガキと、深春の友情か。未来は明るいな」 と、舜平。 「そうだね。あの子の素直さがあれば、祓い人たちの不気味さも少しは薄まるだろうさ」 と、彰があくびをしながらそう言った。 「どうした、眠そうやな」 「んー、ここんとこずっと忙しかっただろ? ようやく京都に帰れるんだと思うと、気が抜けて」 「ほー、珍しいな。お前がそんななんの」 「君は、珠生に色々と吸い取られたわりには元気そうだね」 「や、やかましい! ……まぁ、霊力も戻ったしな。こんなに身体が軽いのは久々やで」 「なるほど。今朝の珠生、いつにも増してキラキラしてたもんね。佐久間さんがそわそわしてたよ。ああいう人には、きちんと釘を刺しておいたほうがいいんじゃないのかい?」  にやにやとあやしげな笑みを浮かべながら舜平ににじり寄り、彰は舜平の耳元でそんなことを囁いた。舜平は渋い顔をしてじろりと彰を睨むと、ひょいと身をかわして彰から距離を取る。 「寄るな。いつもいつも近いねんてお前。……てか、釘ねぇ。ま、そのうちな」 「ふぅん、余裕じゃないか」 「ニヤニヤすんな。気持ち悪いねん」 「気持ち悪いはないだろ、ひどいなぁ」 「ていうか、お前も十分危険なんやからな。いっつも珠生にベタベタと……」 「いいじゃないかあれくらい。僕だって、もっと珠生と一緒にいたいんだから」 「なんやかんやで結構会うてるやろ」 「なんだかんだでいっつも君が一緒にいるから、二人きりの時間が持てないんだけど」 「はぁ? お前、葉山さんというものがありながら、珠生と二人きりになって何をするつもりやねん!!」 「何って君、何を想像してるんだい?」 「ぐっ……」 「……何やってんだよ、二人とも」 と、舜平と彰がやいのやいのと言い合っていると、当の珠生が微妙な表情を浮かべて、すぐそばに立っていた。その傍らに立つ湊も生ぬるい顔だ。  「ねぇ、早く帰ろうよ。父さんからの電話がうるさいんだ」 「えっ、先生から? まじか……どないしよ……はよ帰らなあかんな」 と、舜平が青くなっている。 「出てあげたらいいじゃないか。友達と旅行してますって。なんなら僕が話そうか?」 「いや、話したんだよ。今から帰るところだからって。でも留守電で『今どのへん?』とか『何時に帰ってくるの?』とか、うるさくて」 「……先生、心配性やからなぁ。よっしゃ、帰ろ。すぐ出発や!」 「深春、呼んでこなあきませんね。ていうか、珠生、深春、先輩、俺……か。舜平、お前の車、五人も乗れたっけ?」 「彰は敦の車でええやろ」 「えーやだよ。……まぁ、珠生も敦の車でいいなら僕もそれでいいけど」 「俺、どっちでもいいですよ」 「あかんあかん!! 敦の車っちゅうことは佐久間さんもおるやろ! セクハラ野郎どもと密室移動なんてありえへん! 五人くらい余裕やから、とっとと乗れ」 「じゃ、俺、深春呼んでくるね」  話がまとまったところで、珠生はにっこりと微笑んだ。そしてくるりと踵を返し、展望台の方へ駆けていく。  晴れ渡った空に、珠生の白いTシャツや、胡桃色の髪の毛が映える。身軽に駆けていく珠生の背中からは、ここ最近常に漂っていた焦燥感のようなものが消えている。ついこの間、血まみれで牙を向いていた姿が嘘のように、手を振りながら深春のもとへ駆けていく珠生の表情は晴れ晴れとしていた。  そんな珠生の背中を見つめながら、舜平はふっと微笑んだ。ようやく、花のような笑顔を見ることができたことが、嬉しくてたまらないのだ。  血に濡れ、青ざめていた肌の色も、陽の光を受けて健康的に輝いている。珠生の傷を癒せること、珠生を元気にしてやれることに、こうまで充実感と幸福感を感じてしまうものなのか……と、舜平は改めて、戻った霊力にありがたみを感じていた。  これまでのことを噛み締め、珠生の後ろ姿に見ほれていると、背後から彰と湊の会話が聞こえてくる。 「……ニヤニヤしちゃって。舜平、ほんっとに珠生のことが好きだね」 「ほんまですねぇ。なんや昔よりベタ甘ですよね。隠そうともせぇへんし。胸焼けしそうやわ」 「まぁ、幸せそうでいいんだけどねぇ。でもちょっと妬けるんだよなぁ」 「先輩には葉山さんがいるじゃないですか」 「うん、まぁね。でもそれとこれとは話が別っていうか」 「あぁもう、うっさいうっさい!! もうええからとっとと乗れお前ら!! 珠生!!深春!! 早う来い!!」  赤面しつつ運転席に乗り込みながら、舜平は珠生を呼んだ。すると、展望台の上で薫と握手を交わしていた深春と珠生が、足並みをそろえて駆けてくる。   皆が車に乗り込んだところで、舜平は車をスタートさせた。  一路、京都へ。    晴れ渡る能登の空の下を、颯爽と駆け抜ける。

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