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四十六、ただいま

   亜樹は、家の前をぐるぐると歩き回りながら、ただひたすら待っていた。  湊から朝方届いたメールを読んでからというもの、亜樹はずっと落ち着かないのである。そわそわとした気持を抱えたまま、家を出たり入ったり、意味もなくあたりを歩き回っては近所の人に怪訝な目で見られたりと忙しない。  そして家の中では、柚子が同じ気持を抱えて食事の支度をしているのである。  一体どんな顔で、深春は帰ってくるのだろう……。  亜樹はそんなことをぐるぐると考えながら、路地を曲がり、道路をゆく車を眺めていた。  時刻は昼前。湿気を孕んだ京都の熱風が、亜樹の髪を重たく揺らす。その時。 「あっ!」  角を曲がってこちらへ向かってくる、見慣れた黒い車が見えた。あれは、舜平の車に違いない。亜樹は思わず駈け出していた。  それに気づいてか、車も道路脇にすっと停車する。ゆっくりと、後部座席のドアが開いた。 「……深春!!」  どことなくバツの悪そうな顔をした深春が、歩道に立っている。ぎこちない笑みを浮かべて、亜樹に軽く手を上げた。 「よ、よぉ……亜樹ちゃん。ただいま……」 「こんの……ドアホがぁああ!!」 「いってぇぇ!!」  駆け寄りざま、亜樹は思い切り深春に体当たりをした。深春は勢いに負け、吹っ飛ばされて尻もちをつく。仁王立ちになって憤怒の形相を浮かべている亜樹を、深春は目を瞬かせながら恐る恐る見上げた。 「アホ深春!! よう知らん奴にホイホイついていったらあかんやろ!! 子どもか!!」 「……ご、ごめんなさい」 「どんだけ心配したと思ってんねん! 大バカ野郎!!」 「す、すみませんでした!」  びびりきって土下座しそうな勢いの深春である。その場にへたり込んだ深春に、亜樹は思い切り抱きついた。 「あ、亜樹ちゃん……」 「ドアホ! もうこんなこと、絶対にすんな!! うちらがどんな想いであんたのこと待ってたか、分かる!?」 「……ごめん……」 「あんたの家はここやろ! うちの家もここ!! あんたはもう、うちの弟みたいなもんやねん!! 勝手なことしたら許さへんで!!」 「お……弟?」 「なんや、不服なん?」  怒っているのか泣いているのか、亜樹のぐしゃぐしゃの泣き顔に見上げられて、深春ははっとしたように目を見開く。そして、ぶんぶんと首を振った。 「不服なわけないじゃん。嬉しいに決まってんだろ!」 「ならばよし」  亜樹は身を離し、涙を手で拭って深春をまっすぐに見つめた。 「おかえり、深春」 「た、ただいま……。ごめん、ごめんな……」  そう応じた途端、ぽろぽろと涙が溢れ出す。  唇を噛んで俯いても、涙は嗚咽を伴って、止まる気配を見せなかった。 「ごめん……うえっ……俺、ごめん……えぐっ……」 「はよ帰ろ、柚子さんも待ってる。いっぱいご飯作って待っててくれてんねんで!」 「うん……うん……」  亜樹は手を伸ばして深春の頭をそっと撫でた。深春は鼻水を啜りながら、ようやく顔を上げて笑顔を見せる。  さぁっ……と、爽やかな夏の風が、泣き濡れた二人の頬を撫でていく。 「素敵だねぇ……」 「感動の再会だ」 「ほんまやな、まるでドラマの一シーンやで……」 「こらお前ら、茶化したらあかん」  不意に、そんな呑気な会話が聞こえてくる。亜樹はハッとして、横を見た。  後部座席の窓に並んだ珠生と湊と彰が、のほほんと二人の様子を眺めていたのである。珠生は多少涙目になっている様子で、ぐすんと鼻を啜っている。彰はしみじみといった様子で何度も頷き、湊は満足げなため息をつきつき眼鏡を人差し指で押し上げる。そして舜平はそんな三人をたしなめつつも、運転席の窓を下げて笑顔を見せた。 「みんな……」  皆が元気そうな顔をしているのを見て、亜樹は更に安堵していた。  珠生と目が合う。すると、珠生は、さらに明るい笑顔を亜樹に見せた。「ほら、ちゃんと帰ってきただろ」と言いたげな表情に、思わず亜樹にの顔にも笑みが溢れた。 「……おかえり、みんな」 「ただーいま」  珠生が歌うようにそう言うと、隣で湊がふっと笑った。亜樹はぐいと涙を拭うと、ちょっと怒った顔をしてみせる。 「ちょっと遅かったんちゃう。いい加減待ちくたびれたわ」 「そうかなぁ? 最速だよ」 と、珠生。 「文句を言いたいなら舜平に言え。こいつがちょいちょいサービスエリアで休憩しとったからおそなってん」 と、湊。 「ごめんね、僕がずっと寝てたせいで」 と、彰がたいして悪びれたふうもなくそんなことを言うと、舜平はぶすっとした顔で「ほんまやわ。俺も眠かったのに」と文句を言う。  たった数日離れていただけなのに、いつもの平和なやり取りが懐かしい。やいのやいのと賑やかな四人の会話を聞いていると、自然と亜樹の口からも笑い声が生まれた。深春も指先で目元を拭い、明るい笑顔を浮かべている。 「なぁ、亜樹ちゃん。皆のぶんもご飯あるかな」 と、深春。亜樹は楽しげに笑うと、「うん、当然」と弾む声でそう答えた。 「みんなで食べよ。疲れたやろ?」  亜樹はそう言って立ち上がり、座り込んでいる深春に手を差し伸べた。その手につかまって立ち上がった深春は尻を払いつつ、「おう。腹ぺこぺこだぜ」と言った。 「ほな、車停めてこよか。今日のメニューはなんやろうな」 と、舜平がハンドルに向き直りながらそう言った。 「焼肉か唐揚げかな、深春が好きだから」 と、珠生が助手席に移りながらそんなことを言う。 「僕はあっさりめのものが食べたいなぁ。久々の京都の暑さはこたえるね」 と、彰がぼやく。すると湊が、「同感ですね、俺は茶そばが食いたいなぁ」とじじむさいことを言った。 「今言うてたもん、全部柚さんが作ってはるで。家ん中は涼しいし、はよう入りよ」 「おう、ほな先行っといて。すぐ行くわ」 と、舜平が運転席からひらりと手を振ると、ゆっくりと車が動き出した。  その場を離れて行く車の後ろ姿を見送りつつ、亜樹と深春は一度顔を見合わせて微笑み合った。そして、柚子の待つ家へと歩き出す。  肩を並べて歩くふたりの後ろ姿は、本物の姉弟(かぞく)のようである。

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