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『傷口をなぞる指』〈二〉

   屯所の地下には、独房がある。  舜平は彰の後について、薄暗い階段を降っていた。  しんと冷えた空気は、どことなく湿っぽく、黴臭い。打ちっ放しのコンクリートの床は、靴音がえらく高く響いた。  皇宮憲兵隊の屯所に、罪人が留め置かれることは滅多にない。ここに連れてこられるのは、霊的な事件を起こした者と限られているからだ。舜平が皇宮憲兵隊に配属となって三年あまりが経つが、ここに足を踏み入れるのはほんの二度目だ。 「……使ってへんわりには綺麗やな」 「使ってないから綺麗なんだろう」 「……せやな」  舜平の素っ気なさが気になるのか、彰は首だけで後ろを振り返って舜平を見た。 「思い出すかい? ここに連れ込まれた時のこと」 「そら、な。別になんの感傷もないけど」 「そうか。……ん?」  彰は短くそう言って、突然歩調を速めた。異変を感じ取った舜平は、走り出した彰にすぐさま続き、薄暗い地下牢の廊下を走る。二人の靴音と混じって、男たちの笑い声が奥から響いてくることに気がついた。  バシッ!! バシッ!! と、肌を鋭く鞭打つような音。くぐもった悲鳴。そして、複数の男たちの愉しげな声。  舜平はぞっとして、彰を追い抜いて地下牢の最奥へと走った。そして目の当たりにした光景に、声を失う。 「この半妖め!! どうだこの鞭の味は!! お前のような中途半端な妖ものは、ここで成敗してくれるわ!!」 「あぐ……っ! いやだ、……いやっ……!!」 「あっははははは、守清殿。それじゃ半妖が喜ぶだけですよ」 「やめ、っ……やめてっ……!」  憲兵隊の制服に身を包んだ男が、少年を鞭打っている。  男は嬉々とした表情で黒革の鞭を振り上げ、勢いよく振り下ろす。白い浴衣の袖を抜かれ、むき出しにされた白い背中に鞭がしなるたび、肉が裂けて真っ赤な鮮血が迸る。少年の両腕を戒めるのは、石の壁に穿たれた手錠と鎖。鞭打たれる少年を下卑たにやつきを浮かべて眺めているのは、男と同じ、憲兵隊の制服に身を包んだ若い男たちだった。  舜平と彰の姿を目に留めた壁際の男たちが、ハッとしたように目を見合わせる。無我夢中で少年の華奢な背中を鞭打っている守清と呼ばれた男は、未だに舜平らの存在に気づいていないようだ。 「生かしておく価値もない下賤が!! 貴様のような生き物は、ここで我らの慰み者になるがいいわ!!」  嬉々とした表情で鞭を振り下ろそうとした守清の手首を、舜平はしっかと掴んだ。  そしてそのまま守清の腕を引き、ごつごつとした石の床に突き倒す。 「な、何だ貴様!! 何をす……」  守清が倒れたことで、壁際にいた二人の男も、少年からじわじわと距離をとった。脱力し、冷たい壁にしなだれかかるように崩れ落ちたのは、年端もゆかぬ若い少年だった。涙に濡れた頬で、震えながらこちらを見上げる少年の横顔を目の当たりにした途端、舜平の腹の底から、今までに感じたこともないほどの苛烈な怒りが燃え上がった。  鞭打たれているのは、見たことも、口を聞いたこともない少年だ。なのに、その少年と目が合った瞬間、まるで己の身を穢されることと等しいほどの屈辱と、激しい憎悪を感じたのだ。激情が全身を包み、まるで心が炎に巻かれているかのように。 「……一体何をやってるんや、貴様」 「く……こ、これは……! 懲罰だ!! こいつは人間ではなく、半妖で、」 「それが、こんなことをしていい理由になるんか!? あぁ!!?」 「ひいっ……!」  鎮火することのない激情に突き動かされた舜平の拳が、守清の頬にめり込んだ。思い切り吹っ飛ばされた守清は冷たい石の壁に激突して、恐怖におののいた表情で舜平を見上げている。それでも舜平の怒りおさまりを見せず、硬く握られたままの拳がぶるぶると震えている。  そんな舜平の肩を、彰がぽんと叩いた。 「もうやめろ、舜平。どうしたというんだ」 「……っ……」 「これ以上やると、君まで悪者になってしまうよ」  彰は静かながらも怒りの滲む声色で、じっと男たちのことを睨みつけた。そして地面にへたり込んでいる守清の前にしゃがみこむと、守清の軍帽のつばをすっと指先で持ち上げた。 「……佐々木守清。君のやっていたこと、佐々木衆の総意と取っても差し支えないかな?」 「ひ、こ、これは、その、影龍さまが、」 「影龍? あいつがどうした」 「半妖は、粛清の対象だと、だから、その、そのうち処刑されると、」 「それで?」 「だから、処刑の前に罰を、と」 「罰、ねぇ……」  彰の表情が、すうっと冷えていく。ゆらりと立ち上がった彰は、腰に帯びていた日本刀の柄に手を添えた。  その一瞬ののち、守清の軍帽が真っ二つになって、地面に落ちる。  彰はゆっくりと納刀し、塵屑を見るような目つきで、守清と男たちを見据えた。 「ひぃぃっ……!!」 「いいか。この子は、この国の重要な戦力となりうる少年だ。大した霊力も持たず、面の皮ばかり厚い貴様らごときが、気安く触れていい存在じゃない。まったく……何様のつもりだ? 貴様らのやっていたことのほうが、よほど罰を受けるにふさわしい」 「ひっ……ひぃっ……」 「ここで死にたくなければとっとと()ね。影龍には僕から話をつける」  彰がそう言い終わるか終わらないかのうちに、男たちはばたばたとその場からいなくなった。舜平はすぐさま少年に駆け寄り、戒めを解く。そして、むき出しになった背中に手のひらをかざした。痛々しく肉のめくれた傷が幾重にも重なり、とろとろと血を流している。あまりに酷い眺めだった。  舜平の手のひらに、淡い光が灯る。少年はかすかに身じろぎをして、重たげな目つきで舜平を見上げた。 「……あ、う……」 「喋らんでいい。……ひどいことを」 「ん……おれ……」 「いいから、じっとしてろ。もっと早くに助けてやれへんで、悪かったな。もう、大丈夫やから」 「……」  その言葉を聞いて安堵したのか、少年は目を閉じて、気絶してしまった。ぐったりと重みの増す少年の身体を抱き寄せて、舜平は無言で傷の治癒を行っていた。 「君らしくないな。どうした」 と、彰が尋ねた。 「……分からへん。なんか、この子の姿を見た途端、あいつらに対して無茶苦茶な殺意を感じた」 「殺意、か。君、その子と面識でもあるのかい?」 「……いや、ない……と思う」 「ふうん……」  彰は跪いて少年の顔を覗き込んでいたが、すぐにひょいと身軽に立ち上がった。そして軍帽をかぶりなおしながら、舜平にこんなことを言う。 「車を手配する。君は、その子を早く連れて帰ってやってくれ。そこでしっかり、傷の手当を」 「ああ、分かった」 「……今の猿之助にとって、部下の不祥事は耳に痛い話だろうな。影龍は頭のいい男だが、部下がクズばかりで可哀想だね」 と、彰は同情のかけらなど見当たらないような涼しげな顔でそう言った。  佐々木影龍というのは佐々木猿之助の腹心で、何かと忙しい猿之助に変わって佐々木派を束ねている男だ。若いながらも、影龍は聡い男。こんなことをしていいと、守清に許すほど愚かな男ではない。しかし影龍は、『妖の血を持つものは人にあらず。即断罪すべし』という佐々木衆の強硬思想を、誰よりも強く胸に抱いている男である。 「この不祥事、猿之助の失脚の材料に使えるかもね」  彰はそんなことを言ってほくそ笑みながら、舜平の先に立って歩き出した。舜平は「そうやな」と生返事をしつつ、じっと腕に抱いた少年の顔を見つめていた。  血や汗に汚れ、髪の毛も煤けているが、その少年の顔立ちは驚くほどに端正で美しいものだった。  ――こんな少年は、見たことがない。何やったんや……さっきの感情は……。  彰の手配した車で自邸に戻る間も、舜平はずっと少年の顔を見つめていた。

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