405 / 530

『傷口をなぞる指』〈三〉

   舜平が住んでいる屋敷は、皇宮憲兵隊本部からほど近い場所にある。  もともと舜平は帝都の生まれではなく、異能の力を認められた際、単身でこちらに移ってきたのだ。  その屋敷は、二階建ての大きな洋館である。躯体は煉瓦造、壁は白漆喰で、赤銅色の屋根が特徴的な優美な建築物である。玄関の門扉から屋敷までの道のりを彩る庭園は英国式を意識した造りで緑が多く、四季折々の美しい花々が来客を出迎える。  ここは十年ほど前まで、行き場のない異能者の子どもを住まわせるための施設であった。しかし、ここ数年で法の整備と異能者の受け入れ態勢が整い始めたこともあり、この屋敷からは徐々にひと気がなくなっていった。舜平がここに住み始めた頃、ここにはまだ三、四人の異能者がいた。年齢性別はそれぞれであったが、当時の舜平はその中の誰とも交わることをせず、ただ淡々と訓練をこなすといった生活を送っていた。  嫁ぎ先が決まった、任地が決まった、故郷(くに)へ帰ることにした……皆がそれぞれの理由で屋敷を出ていく中、舜平は帝都に残って帝を守るための職務に就くことを決めた。舜平の生家は寺であるから、故郷へ戻って僧職に就くことも選択できた。だが、舜平はそれをしなかった。十四で帝都に連れてこられたあの日以来、舜平は一度も故郷へ帰っていないのである。 「あら、舜平さん。おかえりなさい」 「ただいま戻りました、柚子(ゆず)さん」  この屋敷の管理者責任者は、当然のように舜平だが、なかなかに広い建物であるため、舜平ひとりで屋敷を管理はできない。しかし、舜平はこの家に長く人がいつくことを厭うかのように、家政婦や女中を住まわせることをしなかった。今は通いの家政婦に炊事洗濯を任せつつ、夜や休日は一人きりで過ごすのが舜平の常であった。  その通いの家政婦が、宮尾柚子である。おっとりとした初老の女性で、舜平がここへやってきた時からの長い付き合いだ。 「あら……その子は?」 「この子も俺と同じ、異能を持つ子どもです。ちょっと傷がひどいので、ひとまず客間の寝室で手当をしたいんですが」 「そうですか。では、舜平さんのお部屋のお隣をすぐに開けますね」 「はい、頼みます。あと、湯を沸かしてもらえますか。新しい浴衣と晒しも」 「承知いたしました」  柚子がてきぱきと動き始めるのを見送って、舜平は階段を使って二階へと向かった。二階は個室になっているのだが、今は当然のごとく二階を使うのは舜平のみである。隣の部屋の扉がすでに開いているのを見て、舜平はそっと室内へと滑り込んだ。久しく使っていない部屋であるはずなのに、この部屋の空気には澱みもなく、床にも埃ひとつ落ちていない。使っていない部屋までこまめに柚子が掃除をしてくれている様子が窺え、舜平は柚子への感謝の念を新たにした。  広い寝台(ベッド)に少年を横向きに寝かせ、枕でその体勢を固定する。肩につくほどに伸びた胡桃色の髪の毛がさらりと滑り、頼りない首筋があらわになる。たったそれだけのことで、舜平は思わずどきりとしてしまった。  ――なんや、俺。なんで急にこんな……。  自身の動揺を紛らわせるように首を振り、大きなたらいに入った湯に清潔な手ぬぐいを浸す。少し熱めの湯に触れたことで少しばかり気が落ち着き、舜平は少年から浴衣を丁寧に脱がせ、背中の傷を露出させた。背中の傷はまだまだ治療の途中であるため、出血が止まっていない部分も多い。新しい浴衣をもって部屋に入ってきた柚子が、その傷を見て眉を寄せた。 「……ひどい怪我ですねぇ」 「ほんまに、ありえへん。……あ、この子、夜に目を覚ますかもしれへんので、粥かなにかを支度しておいてもらえますか」 「分かりました。舜平さんの御夕飯は、いつものように用意してありますからね」 「すんません、いつも」 「何をおっしゃるのですか。では、私は台所におりますので、何かあったら呼んでくださいね」 「ありがとう」  柚子がいなくなると、舜平はもう一度深呼吸をした。治癒の術式はどちらかというと不得手で、特別警護職の仲間内において、舜平はもっぱら『とりあえず攻めろ』という立ち位置にいる。しかし、この少年のことは何が何でも治してやらねばと気が逸る。どうしてこんな気分になるのかは分からないが、舜平はその意味を深く考えることをやめ、少年の背中に手のひらをかざした。 「ん……」  手のひらに熱を感じる。気を溜めて、少年の肌に送り込む。すると、ずっと眉間にしわを寄せて苦しげな表情を浮かべていた少年の顔が、わずかに緩んだ。固く閉じられ、震えていたまつ毛は穏やかになり、血の気のない唇からは穏やかな吐息が漏れた。  そして、少年は薄く目を開く。そして首だけをかすかに動かすと、くるりとした大きな目で舜平を見上げた。 「……だ、れ……?」 「目ぇ、覚めたんか」 「ん……」  少年は視線を巡らせて部屋の中を窺ったあと、もう一度舜平に視線を戻した。そして、掠れた声でこんなことを言う。 「俺を……殺すの……?」 「え?」 「その服……軍人、でしょ……? 俺を(さら)ったやつらと……同じ」 「攫った? ……君は、どうして自分がここにいるか、わかるか?」 「……」  少年は重たげに瞬きした後、苦いものを飲み込むような表情で目を伏せた。舜平は無言で治療を続けながら、少年の言葉を待つ。 「……知らない」 「人目を避けて暮らしていたと聞いたが、それはこの力のせいか?」 「……」  少年はぎょっとしたように全身を強張らせ、貝のように口を閉ざした。舜平は少し身を乗り出して、黙り込んでしまった少年の顔を覗き込むが、横顔から読み取れる表情は硬く、頑なな拒否を感じた。 「……まぁ、言いたくないなら言わなくてもいい。でも、君の存在は、この国にとって非常に重要な戦力や。色々と選択を迫られることになると思うで」 「……選択?」 「君は未成年やろ。親元に戻るか、帝都で国のために働くか。この二択しかないと思うけど」 「……勝手な話ですね」 「まぁな、俺もそう思う。……けど、俺はこの道を選択してよかったと思ってる。親元になんて戻れる状況じゃなかったしな」 「……」  舜平は、ふと過去を思い出しながら、そんなことを口にした。その台詞を耳にした少年が、ちらりと目を動かして舜平を見上げている。舜平ははっとして、慌てて口をつぐんだ。 「そ、それより。君の名前は何ていうんや」 「……言いたくない」 「あのな、君はしばらくこの家で療養せなあかんねん。つまりは俺と一つ屋根の下や。名前くらい、教えてくれてもいいんちゃうか? 呼びにくいやろ」 「……」  舜平が砕けた口調でそう言うと、少年は逡巡するように目を泳がせた。しかし、諦めたように小さくため息をつくと、聞こえるか聞こえないかの声量で名を名乗る。 「……珠生」 「珠生……。珠生くんでええか?」 「……君なんてつけなくていい」 「え、いきなり呼び捨てってのもなぁ」 「妙な馴れ合いはしたくないから」 「そっか、分かった。ちなみに俺の名前は相田舜平や。好きに呼んでくれたらいいで」 「……」  舜平がそう言って笑顔を浮かべると、珠生はぷいと目をそらし、ぎゅっと枕を抱きしめた。  手当をしているうち、少年はうとうとと眠ってしまった。あらかた傷のふさがった少年の背中を見下ろして、舜平は人知れずため息をついた。こうして微妙な加減で力を放出する術は、舜平にとっては至極重労働なのである。 「……まぁ、これでしばらく様子を見るか」  舜平はそうひとりごち、珠生の衣服を直してやろうと手を伸ばす。つるりとした尖った肩に指先が触れた瞬間、舜平は言いようもないほどの郷愁を感じた。と同時にその身を支配するのは、珠生に触れたいと突き上げる熱い衝動。舜平は己の不可思議な反応に驚愕し、思わず手を引っ込めた。 「……な、なんや……これ」  気が抜けて眠りに落ちている珠生の横顔を見つめていると、じわじわとその想いは強くなっていく。あちこち砂埃で汚れているが、美しく整った寝顔は、まるで天使のように愛らしい。  薄く開いた唇を、己の唇で塞いでしまいたい。そこから漏れる吐息を、飲み込んでしまいたい……気を抜けばそんなことを考えてしまう自分の心と、制御しがたいほどに高鳴る己の心臓。舜平は寝台から立ち上がって、荒く首を振りながらため息をついた。  ――見ず知らずのがきのことを、俺……どんな目で見てんねん。こいつは男やで、ありえへんやろ!!  舜平は珠生の上に薄い布団を掛け、逃げるようにその部屋を立ち去った。

ともだちにシェアしよう!