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『傷口をなぞる指』〈四〉

   翌朝。  舜平はいつもより一時間以上は早く起き出していた。  隣の部屋で眠る珠生という名の少年のことが気がかりで、日が昇る前に目が覚めてしまったのだ。寝台の上に起き上がり、舜平は隣の部屋から物音がせぬかどうか、耳を(そばだ)てる。  珠生が逃げ出さぬよう、一応彼の部屋には結界術の札を貼っておいた。怪我をしている上、彼はこの国にとって貴重な戦力となりうる存在だ。十分な聴取も行わないまま逃げ出されてしまうのは至極都合が悪いのである。  黒いズボンの上に白い開襟シャツを着込みながら、舜平は窓の外を眺める。今日も麗らかないい天気だが、清々しく晴れ渡った空を見上げていても、舜平の心はどこか晴れない。珠生と出会ったことで、今まで忘れかけていた故郷のことを思い出したせいだろう。舜平は目を伏せて、小さくため息をついた。  一旦台所に降り、湯を沸かす。同時に、台所の隣にある風呂場へ行って丸い浴槽に水を張り、火を入れて湯を温める。あの少年を風呂に入れてやろうと考えたのだ。昨日の痛々しい記憶を洗い流したいだろうし、さっぱりすればまた気分も変わるだろう。 「おい、起きてるか。腹減ってるやろ。飯、持ってきたで」  柚子が準備しておいてくれた握り飯と茶を盆に載せ、舜平は珠生の部屋のドアをノックした。中からはなんの物音もしないが、珠生の気配は感じることができる。舜平は札を剥がし、静かに部屋のドアを開けた。  寝台の方に目をやるが、めくれた布団の中に珠生の姿はなかった。はっとして部屋の中を見回してみると、珠生は部屋の隅っこで小さくなってこちらを睨みつけている。警戒心の強い猫のようだと、舜平は思った。 「……どうした。そんなところで」 「……ドアが開かなかった。どうして、俺を閉じ込めるの?」 「昨日も言うたけど、君にはまだ色々と聞きたいことがあんねん。だからもうちょい、我慢してここにいて欲しいんや」 「……」 「怪我も治りきってヘんやろ。……さぁ、こっちに来て、飯を食え」 「……」  握り飯の乗った盆を見せると、珠生の腹の虫が素直に鳴いた。珠生は気恥ずかしそうに目を伏せて、小さく頬を染めるのである。そんな珠生の素直な反応が可愛くて、舜平はふっと笑ってしまった。 「な、何がおかしい」 「いや。ほら、おいで。俺は何もせぇへんから」 「……」 「食べるとこ見られんのが嫌なら、俺は外に出ててもいい。あ、せや。風呂も沸かしてんねん。さっぱりしたいやろ?」 「……」 「出てよか。部屋の外におるから、食い終わったら出ておいで」 「……」  珠生は何も言わなかったが、舜平の言葉に対して反抗的な態度をとる様子は見られなかった。舜平はベッドサイドの丸テーブルに盆を置き、少し微笑んで見せてから部屋を出る。  + 「湯加減、どうや」 「……ちょうどいい、です……」 「そうか」 「っ……」 「ん? どうした」 「傷に、しみて……」 「あぁ、まだふさがり切ってへんところがあったか。あとで治療してやる」 「……」  ぱしゃん……と湯を使う音がする。舜平はちりちりと火のくすぶる竃の前から立ち上がった。台所と風呂場は隣り合わせで、その間を隔てるものは舜平の顔の高さほどの土壁、そしてその上にあるのは通気用の格子戸である。つまり、立ち上がると珠生の入浴している姿が見えてしまう格好になるのだ。珠生の様子を確認するために、舜平はほんの一瞬だけのつもりで、その格子戸の中を覗き込む。  そして、すぐに目を逸らした。  こっちに背中を向けて、浴槽に浸かる珠生の背中を見てしまったのだ。同性の少年の、しかも背中を見ただけだというのに、舜平の胸はばくばくと今までになく激しく高鳴っている。そんな自分の反応を訝しむように、舜平はシャツの胸元をぐっと握りしめた。  珠生の白い背中が、まぶたの裏に焼き付いている。  尖った肩の線、胡桃色の髪の毛が色っぽくまとわりついた頼りないうなじ。湯けむりの向こうに見えた珠生の肉体があまりにも艶っぽく見え、舜平の中に眠る何かをぐらぐらと揺さぶってくる。  ――あ、あかんあかんあかんあかん!! 何してるんや俺は!! ありえへん俺!   舜平は逃げるように風呂場から離れ、広々とした居間の方へとやってきた。出窓を開け放し、深呼吸して外の風を吸い込みながら、舜平は大きくため息をついた。  ――おかしい、俺はおかしい。そりゃ……最近はまるでそういうこともしてへんかったけど。かといって男にこんな……。  舜平とていい年をした青年だ。女と夜を過ごした経験がないわけではない。十九のとき、憲兵隊の仲間たちに連れられて赴いた花街で、舜平は初めて女と閨を共にした。  やるものはやれた。が、後に残るのは虚しさだった。事後に見せた舜平の醒めた瞳に、女は紫煙を燻らせながらこんなことを言った。「あんたに女は向かないね」と。  その時は、女の言っていることの意味が分からなかった。舜平の淡白な態度が女の機嫌を損ねたのだろう、というくらいにしか捉えてはいなかった。  しかし今、美しい顔かたちをした少年の肌を見て浮ついている自分がいる。あの時の女の台詞はこういうことだったのだろうかと、舜平はふと考えた。  ――けど、訓練場で会うガキどもには、別に何の感情も抱いたことはないし……。  と、己の性癖について悶々と思い悩んでいると、ちらりと、窓の外を白い影が横切っていくのが見えた。舜平ははっとして、出窓から飛び出して庭を見渡す。 「あ!!」  珠生が、白い浴衣一枚というあられもない姿で、裏庭の方へと走りゆく様が見えた。寝室には逃亡防止のために呪符を貼り付けていたが、風呂場から逃げることはないだろうと油断していたのだ。舜平はどこか惚けていた自分を殴り付けたい気分になりながら、慌てて庭の方へと駆け出した。 「待て!! どこ行くねんそんな格好で!!」  声を張り上げたところで、少年が足を緩めるはずがない。それにしても、信じがたいほどの俊足だ。珠生は振り返りもせずに裏庭へ回り、ぐるりと屋敷の周りを取り囲む鉄製の柵の方へと風のように走って行く。柵の高さは約三メートルあり、等間隔に尖った槍状の装飾が施されている。やすやすと乗り越えられるような高さではない。  が、珠生はその柵の手前でぐっと腰を落とした。そしてその一瞬後、常人ではありえない跳躍力を見せ、ひょいと柵の上に手をついたのだ。そして、柵の上で逆立ちでもするかのような格好でひらりと柵を乗り越えたかと思うと、浴衣の裾をはためかせて柵の向こう側へと着地した。まるで猫のような身の軽さに、舜平はただただ唖然とさせられるばかりだ。  ちらりと横顔で舜平を振り返った珠生と、一瞬視線が絡み合う。舜平ははっとして、慌てて駆け出した。 「……ま、待て!!」  舜平とて身軽な方だ。柵の手前に植えられた樹木を蹴って柵のてっぺんに飛びつくと、尖った装飾におっかなびっくりしながら柵を乗り越えた。珠生のようにふわりとは行かないが、舜平は怪我するでもなく地面に降り立ち、すぐに珠生の消えた方向へと足を向けた。  が、珠生は、さほど遠くへは逃げていなかった。  正確に言うと、逃げられなかったのである。 「……お前ら……!!」  佐々木影龍が、印を結んで立っていた。背後には、十五人近くの憲兵隊を連れている。  影龍の発動した術により、珠生は全身を黒い触手のようなもので雁字搦めにされていた。黒々とした蛇のようなそれは、珠生の四肢や腰、そして頼りない細首にもしっかりと絡みついている。珠生は苦しげに息を詰まらせ、酸素を求めて乾いた悲鳴をあげた。 「何をやってるんや!! その子を離せ!!」 「うちの馬鹿どもの非礼を詫びようと、わざわざここまでやって来たというのに……何だ、このザマは」  影龍は、佐々木猿之助の下で佐々木衆を束ねる男だ。目深に被った制帽の下から、氷のように鋭利な視線を舜平に向けている。浅黒く日に焼けた肌、痩身ながらも引き締まった肉体は堂々たる自信に溢れ、声色にもぴんと張った威厳がある。 「半妖など、所詮はただの(あやかし)ものだ。再び妖のはびこる山奥へと戻りたくなったのだろう?」 「その子は俺たちを警戒してるだけや。術で縛るなんてやめてやれ!!」 「ふん、逃げようとしていた餓鬼を捕まえてやったのに、何だその言い草は」 「ええから離せ!! 油断した俺が悪かったんや!!」 「ふ……甘い台詞だな」  影龍はそう言って唇を釣り上げると、珠生を見上げて手印を変えた。すると、珠生の白い肌に絡みついていた触手がうぞうぞとその肌の上を蠢き、するすると珠生のことを締めあげる。ほっそりとした太ももが露わになり、影龍の背後に居並ぶ男達の目の色が変わる。首を絞められて苦しげに呻く姿を、そしてあかい唇にまで黒い触手が迫りゆく様を、男達は興奮の滲む卑しい目つきで見つめている。  舜平の腹の奥から、また激しい怒りが逆巻いてくる気配があった。呼吸が浅くなり、拍動が速くなる。手足からすっと血の気が引くほどの激しい憎悪に、舜平はぐっと拳を握りしめた。 「……やめろ。そいつに、触るな……!!」 「ふっ、こんな餓鬼、人にも妖にもなれぬ、惨めで哀れな生き物だ。こんなもの、生かしておいて何になる」 「離せって言うてるやろ!! 影龍!!」  影龍の術に対抗する技を発動させようと舜平が印を結んだ時、珠生の様子が俄かに変化した。 「うぐ……ぅぅうううう…………!!」  ずず……ずずず……と、珠生を取り巻いていた微弱な霊気が、じわじわと勢いを増してゆく。風など吹いていないと言うのに、ふわ……と浴衣の裾が持ち上がり、胡桃色の髪の毛が風にでも撫でられるかのように揺れている。  持ち上がった珠生の手が、首に絡んでいた触手にかかった。珠生が指を軋ませると、ぼたぼたぼたっと湿った音を立てて触手が溶けていきえてゆく。影龍が弾かれたように印を解くと、珠生はその場に崩れ落ちるように膝をつき、俯いて、ぶるぶると全身を震わせている。 「うぅぅ……ぅぐ……ぁあああ……あああ……!!」 「……珠生?」 「ぁああああああああ!!!!」  突如、嵐のような突風が、珠生を中心に巻き起こった。

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