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『傷口をなぞる指』〈六〉
再び部屋に運び込み、珠生の身体から砂埃を拭い取ろうと素肌に触れた途端、その体温があまりに高いことに気がついた。額に手を当てて熱をみてみると、明らかに尋常ならざる体温だ。妖気が暴走したことで、肉体に負担がかかっているのかもしれない。
「……熱、下げなあかんな」
舜平がそう呟くと、珠生が微かに目を開いた。珠生は頬を紅潮させ、苦しげな呼吸をしながら、つと目線をあげて舜平を見上げている。舜平は身を乗り出して珠生の顔を覗き込み、優しく髪の毛を梳きながら問いかける。
「苦しいんか? 何か、欲しいもんはある?」
「……み、水……」
「水やな。ちょい待て」
枕元のチェストに置いていた水差しから、グラスに水を注ぐ。そして珠生の体を抱き起こし、グラスを口元に運んでみた。が、起き上がるだけで身体がつらいのか、珠生はふわりと意識を失ってしまった。再び閉じられてしまった瞼は、ぴくぴくと小刻みに痙攣している。
「……あかんな。これは」
舜平は再び珠生を横たえ、自分の口に水を含んだ。
そして珠生の顎を少し持ち上げ、そっと、口移しで水を飲ませる。迷っている暇はない。この異常な高温、苦しげな吐息、そして不安定なゆらぎを見せている霊気と妖気……。放っておけば、珠生は確実に死んでしまうだろう。
「ん……く……」
珠生が、喉を鳴らして水をのみくだす。かさかさに乾燥していた唇が濡れ、しっとりと潤んだ感触へと変わっていく。水を飲ませるだけのつもりだったのに、珠生の唇の感触があまりにも心地よく、舜平は無意識のうちに二度、三度と小さな唇を啄んでいた。
「ぁ……は……っ……」
ふと、珠生がため息を漏らし、舜平の唇を吸い返す。それは拒絶ではなく、明らかな受容だった。珠生の腕が持ち上がり、舜平のシャツの胸元をぎゅっと掴む。舜平はその手を力強く上から握りこみながら、すっと顔を離した。
うっとりと舜平を見上げる、淡い茶色の瞳と視線が絡む。艶をたたえた唇の端から、つうと一筋の水がこぼれ落ちそうになった。舜平がとっさにそれを唇で受けると、珠生は「ん……」と小さく声を漏らす。甘えるような、声だった。
ついさっきは、珠生の身体を見てしまっただけであんなに心が騒いでいたのに、今こうして珠生と触れ合っていることは、なんだかとても自然なことのように思える。
不思議な感覚だ。しかし、いつまでもこうしていては、きっと接吻以上のことをしてしでかしてしまいそうだ。舜平は珠生の手を握ったまま身を起こした。
「……すまん。変なことして……」
「ねぇ……」
「ん?」
「ねぇ、おれたち……前に会ったこと……ある……?」
「え?」
「なんだかすごく……なつかしいなって……」
とつとつと、かすれた声でそんなことを言う珠生を、舜平は驚きの滲む瞳で見下ろしていた。今まさに舜平が感じていた感覚をこの少年も体験していたとでも言うのだろうか。
「……舜……なんだっけ、名前……」
「え、あぁ……。相田舜平、やで」
「舜平……? おれたち、会ったことなんて、ないよね……?」
「あぁ、ないと思う。でも……俺もな、君のことを懐かしいと感じた。なんでやろうな」
「……」
火照った珠生の手を指先で撫でながら、舜平は少し笑った。その笑顔を見て、珠生の目がわずかに見開かれる。そして、紅潮した頬を更に少し赤く染める。
「君は……山へ帰りたい?」
「……山……。知ってるの?」
「俺の上司……って言ってもわからへんかな。俺の仲間が、君の故郷のことを調べたんや。君の家族のことも」
「……」
家族。その言葉が出た途端、珠生の表情がわずかに陰った。舜平は慌てて続ける。
「今も、君を手放してしまったことを悔やんで、苦しんでいるそうや。君はもう死んでしまったと思ってはるみたいやけど、後悔してるって」
「……そう。でも、俺は……人と生きるよりも、妖たちといたほうがいい。みんな、俺のことをのけものにしないし、俺が力を暴走させても、鎮まるまで見守ってくれる……」
「暴走……か。山でもあんなことがあったんか?」
「……たまに、山で人間を見たりすると……。なんか、自分のことがよくわからなくなって、心が揺れて……気がおかしくなる」
「……そうか」
「でも、山の気に包まれてじっとしてたら、だんだんよくなる。……だから、山からは離れないほうがいいんだろうなって、思ってる」
「そのことなんやけど」
舜平は珠生の頭を撫で、穏やかな口調で話を続けた。珠生は澄んだ瞳で、ずっと舜平を見上げている。
「もし君さえよければ、ここに残ってくれへんか。その力をちゃんと操れるように練習して、人を守るためにその力を使う……俺たちは、君に力を貸して欲しいと思ってる」
「力を、あやつる……?」
「力が暴走するから、人と暮らせへんかったんやろ。それなら、それをきちんと自分で制御できるようになればいい。そうすれば、また家族とも会える。君は生きてるって家族が知ったら、ものすごく喜ばはると思うで」
「……」
珠生の瞳が揺らぐ。迷いがあるらしい。
舜平はぎゅっと珠生の手を両手で握ると、さらに熱っぽく訴えた。
「君は、人と妖の血と力を持ってる特別な子なんや。人と妖が穏やかに暮らせるよう、君の力を貸して欲しい」
「……そんなこと、俺にできるのかな」
「できる。俺も一緒に頑張るから。……俺は、君にここにいて欲しいねん」
「……え」
思わず本音が漏れていた。舜平の意思を耳にした珠生が、ちょっと驚いたように目を瞬く。
――俺……自分勝手なこと言いすぎやな……。でも……でも、俺は……。
「あんたが、俺に……ここにいてほしい……の?」
「ええと……。その……せやな」
「……なんで……?」
くちごもる舜平のことを見上げる珠生の視線が、くすぐったい。舜平はじわじわと自分の頬が熱くなってゆくのを感じていた。しかし、今感じている気持ちを押し隠すことの方が不自然に思われているのも事実であった。舜平は迷いを振り切るように珠生のほうをむき、強い眼差しで珠生を見つめた。
「なんでかは分からへん。でも俺は、君ともう、離れたくないと思ってる」
「もう、離れたくない……?」
「よく分からんけど、俺は、珠生と一緒にいたいねん。なんていうかその……そばに、いて欲しい」
「……」
「で、でも……! 珠生の気持ちを優先してくれ。山に戻りたいて言うんやったら、俺はもう、引き止めへんから」
「……」
舜平は一気にそれだけ言い切ると、はぁ、とため息をついて自分を落ちつかせた。珠生は熱っぽい瞳のまま舜平を見上げていたが、ふと、こんなことを尋ねてきた。
「あんたは、自分の意思でここにいるの?」
「ああ……せやな。その通りや」
「家族は?」
「家族……か」
珠生の問いかけに、舜平は目を伏せた。思い出したくもない過去の映像が、脳内にフラッシュバックする。
しかし、いつかはきちんと向き合わなければならない問題だ。舜平は、その過去からずっとずっと目をそらして来た。
もう、いい加減、過去に心を囚われる続けることにも疲れている。
「……俺は、この力で人を殺した」
「……」
「十年くらい前の話になるかな。先の大戦が終わったばかりのころのことや」
「せんそう……?」
「そう。……俺の住んでた街は戦場になったわけちゃうけど、国はまだまだ混乱しててな、貧しかってん。食い物もなくて、荒んでいくやつはどんどん荒んで。……強盗みたいな下らんやつらも結構うろうろしとってな」
「……」
舜平がぐっと目を閉じると、ふと、拳の上に暖かなものが置かれる感触があった。目を開いてみると、握り締められた舜平の手の上に、白い手がふわりと乗せられている。
どこまでも澄んだ瞳が、じっと舜平を見上げていた。深い深い、眼差しだった。
不思議と舜平の心を包み込むかのような懐の深さを感じて、舜平はほんの少し、泣きそうになる。
「……俺の村もな、襲われてん。月のない夜中やった。悲鳴が響いて、火がつけられてる家もあって……。俺、妹がおるんやけどな。家に押し入って来た大男に、妹連れて行かれそうになってん。後ろから組み付いたり、殴ったりしても、全然効かへんで……逆に殴られ蹴られしてな。あぁもう、ほんまに死ぬんちゃうかなって思った時に……身体がものすごく、熱くなった」
「……」
「戦争からおとんが帰って来て、ようやく平和に暮らせる思てたのに。こんなことになって。それを邪魔しに来た賊のやつらが憎うて憎うて、気が狂いそうになった。身体が燃えるように熱かったけど、それがめっちゃ気持ちよかった。賊の落とした刀拾って、妹拐おうとした男に斬りつけて……ってとこで、俺の記憶は途切れてんねんな」
「……殺したの?」
「あぁ……そうらしいわ。目ぇ覚めたら、俺、君が昨日囚われてた地下牢にいた。無意識に暴れてたらしくてな、両手両足縛られて……村で何が起こったか、話し聞かされて……」
盗賊団八名のうち、舜平は実に六人もの賊を殺害したのだ。
妹の目の前で賊の首を飛ばし、男が生き絶えてからも、遺体になんども斬りつけていたのだという。返り血で真っ赤に染まった舜平の鬼気迫る顔を見て、妹は失神してしまったらしい。
刀を手に家を出た舜平は、村人たちを襲う賊たちを次々に殺した。刀には舜平の霊力が通い、通常ではありえないほどの斬れ味になっていたらしい。易々と大男たちを切り捨てる年若い少年を見て、賊の生き残りは村から逃げたのだ。
騒ぎを聞きつけた憲兵が村に到着した時、舜平はまだ血濡れの日本刀を握りしめていた。
説得に応じず憲兵に斬りかかった咎で、舜平は捕縛された。
そして、囚われて来た帝都にて霊力の高さを認められ、今こうしてその忌まわしき力を振るっている。
「そんなことした俺が、家族になんて会えるわけない。……故郷にも、もう、帰れへん」
舜平は全てを語り終え、目を閉じた。
苦々しい思い、罪の意識が、舜平の心を締め付ける。
珠生はずっと、そんな舜平の手を握りしめていた。
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