409 / 533
『傷口をなぞる指』〈七〉
それから三ヶ月が経った。
舜平は自室で静かに軍服を身にまとい、窓の外に広がる朝焼けの空を見上げた。
珠生は結局、これまで棲家としていた山へと帰って行ってしまった。
季節は巡り、時期は盛夏。
舜平は蝉の声に耳を傾けながら、ぼんやりと珠生のことを想う。
+
舜平の過去と懺悔を聞いたあと、珠生はベッドの上に起き上がり、舜平を無言で抱きしめた。そして小さな声で、「舜平は、悪くない」と囁いた。何度も、何度も。
だらりと膝の上に乗っていた舜平の手が、引き寄せられるように珠生の背に回る。抱き返され、珠生はより一層強く舜平にしがみついた。珠生の匂いとぬくもりが、張り詰めていた舜平の気持ちをほんの少し、弱くする。
「……悪くない」
「あれは、正当防衛かもしれへん……けど。俺が人殺しをしてしまったっていう現実は変えられへん。時々夢に見るんや。血まみれになって笑ってる自分の姿を、少し離れたところから見てるっていう、胸糞悪い夢や。意識を失ったあとに何があったんかは、俺にもようわからへんけど、俺は……」
「あんたは、家族を守っただけだよ。村の人のことも」
珠生は、少し驚くくらいにはっきりとした口調でそう語った。舜平の罪悪感を全て拭い去ってしまうほどの力強い声で。
こうして、自分の身に起きたことを、言葉にして誰かに話すのは初めてのことだ。彰のように、舜平の事情を何とはなしに察している仲間はいるが、自分からは誰にも話したことはない。過去を口にしてしまえば、舜平の抱え続けて来た重い咎の意識に飲み込まれてしまうような気がしたからだ。
しかし自然と、珠生の前では言葉にできた。そして珠生の言葉は、舜平の心にすんなりと染み込んでくる。気が緩んで目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。
「……うん……。守りたかった。我を忘れて、暴れくさって……っていうんじゃなく、ちゃんと自分の意思で」
「それは、あんたがまだ子どもだったからでしょ。力の使い方を知らなかっただけ。悪いのは、村を襲って来た奴らの方に決まってる。舜平は、自分を責める必要なんかないんだ」
「……」
「だからもう、そんな顔しなくていいよ……」
珠生は少し舜平から身体を離すと、優しく微笑みながら舜平の頬を撫でた。濡れた感触にはっとする。どうやら、舜平は涙を流していたらしい。
「ずっと、一人で抱えてたんだね」
「……ん」
「つらかった、よね」
「……っ」
「舜平は悪くない。罪の意識はすぐに消えるものじゃないかもしれないけど、あんたはもう十分に傷ついて、苦しんだんだ。だからもう……もう、我慢しなくていいよ」
「う……っ……」
ぎゅっと珠生を抱きしめ、舜平は声を殺して泣いた。珠生は舜平の嗚咽に動じる様子もなく、ただただ舜平を抱き返していてくれた。そうしていると、か細い身体と温かなぬくもり、そして、花の香りのような珠生の匂いが、どうしようもなく懐かしいものに思えてくる。遥か昔にも、こうして体温を分け合っていたような記憶が、舜平の脳裏にふと浮かんだ。
「珠生……」
「ん……?」
「ここに、いてくれへんか」
「……」
「俺のそばにいてほしい。……ずっと」
胸に潜んだ想いの全てを、言葉にして珠生に伝えた。いつまでもこうして、肌を触れ合わせていたかった。二つに分かれていたものがようやくひとつになったという感覚を、確かなものにしたかった。
しかし、しばらくの沈黙の後、珠生は小さくこう言った。
「……ごめん」
「……」
「俺……山に、戻らなきゃ……いけないから」
「……そ、うか……」
珠生を抱きしめていた腕の力が、自然と抜けてしまう。舜平は魂が抜け出て行ってしまいそうなほどの脱力感に襲われながらも、なんとか己を保とうと目を固く瞑った。
珠生がそういう答えを出すであろうということは、何となく感じていた。舜平が感じているこの感覚を、珠生が同じように感じていることなど奇跡に近いことだ。舜平はそっと珠生を離し、無理に笑って見せた。
「……せやんな。お前は……山の主、なんやもんな」
「……ごめん」
「謝るなって。……いいねん。それが、自然なことなんやろうし……」
「……」
珠生は痛ましげな表情で、小さく俯いて黙り込んだ。耐えきれないほどの喪失感をごまかそうと、舜平は珠生の背に触れてこう言った。
「傷、全部治そうな。せやないと、山へなんて帰せへん」
「……あ、うん……でも、さっきよりもすごく体が軽い。俺に飲ませた水、薬なの?」
「薬? いや、ただの水やけど」
「そうなんだ。……なんか、すうって、何か力強いものが染み込んでくるような感じがした」
「……そうなん?」
口移しに渡った霊気のことだろうかと、舜平は思った。しかし、またあんなことをしてしまえば、舜平の理性が持ちそうにない。理性だけではない、倫理感もだ。珠生を縛りつけ、肉体に快楽を教え込み、自分から離れられなくしてしまいたい……そんな危険な思想が脳裏をかすめ、舜平は慌てて首を振った。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「手当て……ありがとう。俺、あんまり人間のことは好きじゃなかったけど……あんたのことは、好きだよ」
珠生は舜平を見上げて、初めてにっこりと微笑んだ。その笑顔のあまりの愛らしさに、舜平の心臓が激しく高鳴る。ただただ、その美しい笑顔から目が離せず、舜平はひたと珠生を見つめ続けてしまう。
舜平を見上げる淡い色の瞳に、ふと小さな翳りが見えた。と同時に、ふと伏せられる珠生のまつげが、白い頬に陰を落とした。
「もう一晩、寝かせてくれるかな。……そしたら、俺……ここを出て行くから」
「あ……ああ。ええよ、もちろん」
「ありがとう。……色々」
珠生は小さくそう言って、それ以降、舜平の顔を見ようとはしなかった。ぎこちない沈黙をどうすることもできないまま、舜平は珠生のそばをそっと離れ、その部屋をあとにした。
そして翌朝、珠生の姿は消えていた。
+
あの呆気ない別れ以来、舜平はどこまでも腑抜けたままだった。仕事中は気を張っていられるため、何とかなっているのだが、こうして一人になってしまうとどうにもこうにも力が入らず、ただただいたずらに時間を過ごしてしまうのだ。
――会いたい……。
きっぱりふられてもうたのに女々しいことだと頭では分かっているが、この三ヶ月、舜平の心の中から珠生の姿が失われる瞬間などなかった。舜平はため息をついて首を振ると、制帽を深く被って、へこたれている己の顔を隠す。そして、バシバシと両頰を打った。
「しっかりせなあかん。男やろ俺! はぁ……、もうええ加減前を向かなあかんのに!」
無理やりにでも気合いを入れるため、舜平は大声でそう言った。そして、淀んだ胸の内に溜まりに溜まった陰気を晴らそうと、窓を派手に開いてみる。
広々とした庭を見渡しながら、大きく深呼吸をしようとした舜平の表情が、ふと、固まった。
「……え?」
庭園の片隅を真っ白に埋め尽くす白い木槿 のかげに、見覚えのある薄茶色の髪の毛を見つけたのだ。
「……た、珠生?」
珠生だ。どこからどう見ても珠生だった。
あの日、最後に身につけていた白い浴衣姿で、珠生が庭に潜んでいる。
不審な動きで首を伸ばしてはきょろきょろと屋敷の玄関の方を伺い、そして首を引っ込めてはため息をついている珠生の姿が、二階の窓から見えたのだ。
その姿を目に映すやいなや、舜平は反射的に駆け出していた。
「珠生!!」
「あっ……」
「な、何やってんねんお前……!」
「えっと……あの、えーと……」
突然玄関の戸を全開にして駆けてきた舜平に、珠生は逃げる間も無く捕まっていた。上腕をきつく掴まれながら問い詰められ、珠生の目が明後日の方向に泳ぐ。
「どうしてここにいんねん!」
「お、怒ることないだろ!?」
「おっ……お、怒ってへんけど……山のことは、どうなったんや」
「……それは」
訥々と珠生が語る内容はこうだ。
山へ戻ったものの、心ここに在らずといった状態で惚けている珠生のことを、山の妖たちは心底心配していたのだとか。何があったのかと問われ、ここであったことや舜平との出会い、そして家族への懸念について、珠生は正直に妖たちに話をした。
すると彼らは口を揃えて、『人に心を奪われた山の主など、もう必要ない』と言ったのだという。そして『新たな我らで決める。お前は、とっとと人里へ降 りて人間と番うがいい』と。
「俺……追い出されちゃったっていうか。送り出されたっていうか……」
「おいおい……妖に気ぃ遣わすとかお前……」
「あ、あんたのせいだぞ!! そばにいて欲しいとか、懐かしいとかなんとか……妙なこと言いやがって」
「俺のせいって」
「あんたの言霊 が、俺の心を縛ったんだ。……もう、山には戻れないよ」
「……じゃあ、ひょっとして」
珠生は怒ったような顔で懐手をすると、赤面しつつじろりと舜平を見上げた。
「……ここにいさせてもらう」
「ほ、ほんまに……!?」
「もう、俺にはそれしか道がないんだ。……人と妖の橋渡しだかなんだかっていうその仕事……やってやらなくもない」
「そ、そうか……」
「ただし条件がある」
「え?」
珠生はずいと舜平に近づき、舜平の胸を指先でとんと突いた。
「あんたが一度、故郷 へ帰ると約束するなら、だ」
「え? 俺が?」
「事件以来一度も里帰りしてないとか、親不孝にもほどがあるよ」
「そ、そらそうやけど……。というか、ここで暮らすっていうんなら、珠生も自分が無事に生きてるってこと、ちゃんと親御さんに伝えなあかんで!」
「……え……俺はいいよ、もう。捨てられて何年経ってると思、」
「あかん! お前の親御さんは、お前を手放したことで心を痛めてるんやで? 落ち着いたら、一度きちんと顔を見せて挨拶して、今後のことを報告したりやな、」
「……なんだよ、一緒に来たそうな口ぶりだね」
「えっ……!? は、はぁ!? 俺は別に!」
「ふふっ」
珠生が笑うと、舜平はぽっと赤面した。
そしてそんな舜平の反応を見て、珠生もくすぐったそうな笑い声をたてる。
「取りあえず、腹が空いて倒れそうなんだ。何か食べさせてよ」
「お、おう。ええで、俺も朝飯まだやしな。一緒に食おか」
「……うん」
舜平が照れ笑いを浮かべながら屋敷の方へ誘うと、珠生もまた、頰を薄く紅色に染めて舜平の後に続いた。二人は肩を並べて、歩調を合わせてゆっくりと歩く。
燦々と眩く輝く太陽が、並んで歩く二人の背中を明るく照らす。
季節は盛夏。
清々しい朝の出来事である。
『傷跡をなぞる指』 ・ 終
ともだちにシェアしよう!