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『夜桜と散歩』〈1〉
とある土曜日。相田舜平と柏木湊は、空井斗真の祖母が経営している和菓子屋、”そらゐ”の新店舗を覗きにやって来ていた。
まだまだ真新い店舗の看板は、代々受け継がれて来ているのであろう、どっしりと飴色に磨かれた木の板に金文字で店名が刻まれている。緑色の暖簾をくぐって自動ドアに迎え入れられると、中はまた広々とした空間が広がっていた。
石畳のような店内の床を踏みしめてショーケースに進むと、目にも鮮やかな和菓子が美術品のように並んでいる。その両側には、気軽に食べれるようなおはぎやわらび餅が量り売りできるようになっており、ちょっとしたお持たせから高級な菓子折りまで、シーンに合わせた和菓子がここで調達できるようになっている。
入って左手の方には小さな喫茶スペースが設けられており、小さなテーブルセットが三つと、切り株のようなベンチや椅子が並んでいる。そこでは、老夫婦や中年女性が静かに和菓子を楽しんでいた。
そんなショーケースの向こうに、暖簾と色を合わせたような深緑色の着物に身を包んだ沖野珠生が立っている。ごそごそとショーケースの中に新しい菓子を陳列している珠生は、湊と舜平を見て顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
レジの前に立っている中年女性も、二人を見てにこやかに「いらっしゃいませ」と迎えてくれる。湊たちは会釈を返し、立ち上がった珠生と向かい合った。
「なんで眼鏡してんの? 俺の真似?」
と、湊はきょとんとして、黒縁眼鏡をかけている珠生をしげしげと見つめた。珠生は苦笑する。
「社長命令だよ。俺目当てであんまりうるさい女の人達が来るのも困るから、眼鏡で接客してって。じゃないと、元から来てくれてるお客さん達が、静かに和菓子を楽しめないからってさ」
「へぇ……」
「眼鏡も似合うやん、どっちみち五月蝿い女どもがくるんちゃうか?」
と、舜平も着物に眼鏡姿の珠生を珍しそうに眺め回しながらそう言う。
「まぁ……しばらくは大丈夫だよ」
と、珠生は微笑むと、「席一つ空いてるし、お茶でもしていってよ」とちゃっかり勧誘している。
「あ、そうやな。そうしよか」
と、湊と舜平は素直にそれに従った。
珠生は、二回生になった。
ここ『そらゐ』でアルバイトに勤しむようになり、二年目の春である。
斗真は結局バスケ部の活動が忙しく、なかなか一緒に働くことはできていない。珠生は明桜高校時代の美術部長・最上満寿美が作った、『美術部』という名のサークルに入っているが、結局高校時代とやることは大して変わらず、淡々と集まって淡々と絵を描くという緩い集団である。そのため、アルバイトに割く時間は自由に作ることができた。高校時代と変わった部分といえば、『絵画旅行へ行ってみようか』とか、『飲みに行くか』というような会話が増えたことであろうか。
『そらゐ』には正社員として働いている従業員が二名おり、どちらも中年の女性である。小学生の子どもがいるという岡村と、中学生と高校生の子どもがいるという山上だ。珠生は苗字しか覚えていないが、珠生は二人に大歓迎された。
斗真の祖母やすよは、裏方で職人として和菓子を作っており、山上はどちらかと言うとそちらの手伝いに出ている方が多い。したがって、珠生は岡村と店舗内で仕事をすることが多いのである。
平日の昼間は岡村一人でも十分回るのであるが、やはり土日などは賑やかだ。特にここは奥まった場所とはいえ下鴨神社が近いため、観光客が訪れることも多い。困るのは外国人観光客の相手だが、意外なことに岡村がさらさらと相手にしてくれるのだ。
流暢ではないものの、相手の言うことを受け取り、欲しい物を見せる。そういった穏やかなやり取りで、外国人観光客たちは満足して帰っていく。大学生だというのにあまり外国人慣れしていない珠生は、これはもっと勉強しなければと危機感を覚えていた。
珠生は盆の上にほうじ茶を乗せ、予め二人に選んでもらっていた和菓子をショーケースから取り出した。こぶりな和皿の上に敷いた懐紙の上に、優しい色をしたねりきりを置く。そして喫茶スペースで和んでいる二人のところへと運んでゆく。すると舜平が、緑色の和服に白い店名入りの前掛け、足元は草履履きの珠生を眺めて微笑んだ。
「やっぱお前は和服が似合うわ」
「そう? でも確かに、なんだかんだ楽かも」
と、黒縁眼鏡の下で珠生は笑った。
「斗真もその服着るんか?」
と、湊。
「うん、そうだよ。でも斗真は背が高いからさ、ちょっとつんつるてんだけどね」
と、お茶を出しながら珠生はそう言った。
「もうすっかり慣れてるみたいやな」
と、舜平。
「そりゃね、もうそろそろ一年経つし。岡村さん、いつも優しく教えてくれるから」
と、珠生はレジの前で笑みを浮かべつつ、暇そうにしている中年女性を振り返る。
「うわ、めっちゃうまいやん」
春らしいから、という理由で舜平が選んだのは、桜の形を模した薄桃色のねりきりだ。それを菓子楊枝で半分に切ってぱくりと食べ、感嘆の声をあげている。湊の手元にあるのは、鮮やかながらも品のある黄緑色をした、鶯のかたちをしたねりきりである。湊は鶯のしっぽの方を竹ようじで小さく切り取ると、そっと口に運んでゆく。
「……うん、うまい。上品な口当たりや……。それにこのほんのりとした甘みといい、この造形の美しさ……」
「はははっ、社長に教えてあげなきゃ」
渋い口調でそんな事を言っている湊を見て、珠生と舜平は笑った。
「じじいやな」と、舜平が付け加えると、湊は「これやから情緒の分からへん男はいややねん」と眼鏡を押し上げる。
「まぁゆっくりしていってよ。お客さんだ」
そう言ってすすっとショーケースの方へと回っていった珠生は、三人連れの中年女性を相手に和菓子を売り始めた。珠生のきらきらした営業スマイルを見ながらほうじ茶をすすり、二人はのんびりとした午後を過ごす。
+
舜平と湊は、珠生が仕事を終えて出てくるのを、糺(ただす)の森で待っていた。三十分ほどで、私服姿に着替えた珠生が小走りにやってくる。
三人は鴨川を北へと進みながらゴールデンウイークの予定など話をし、ぶらぶらと春先の夕暮れを楽しんだ。
湊の語る、同級生の誰それが新しいバイトを始めただの、失恋しただの、という耳新しいネタを耳にしながら、珠生はのんびりと河原を歩いた。湊も、とあるデータ管理会社の情報処理というよく分からないアルバイトをやっているのだが、詳しい仕事内容を教えてくれない。どうせまた怪しいことをしているのだろうと、珠生は深く追求しないことにしているのである。
皆それぞれに人間関係が広がり、また一歩、社会の中へと足を踏み入れていく。そんな変化が、ゆるやかに自分たちを大人にしていくのだなぁと珠生は静かに感じていた。
「お前らは旅行とか行かへんの?」
と、百合子と一泊旅行へ行くという予定のある湊が、珠生と舜平にそんなことを尋ねた。珠生はちょっと顔を赤くして「べ、別にそんな予定は……」と口ごもった。
しかし舜平は顎に手をあててちょっと空を仰ぎ、なにやら考え事をし始めた。
「旅行かぁ。せやなぁ、いつか行きたいなぁ言うてたよな」
「えっ……あ、うん。よく覚えてたね」
舜平が卒業論文に苦しんでいた頃、二人はふらりと夜の琵琶湖を訪れたことがあった。その時、舜平とそんな話をしたことを、珠生は思い出す。
「でも俺……結構バイト入れちゃったからなぁ……」
と、珠生はカレンダーを思い浮かべながらそう言った。サークル仲間たちとの絵画遠足(部長命名)や飲み会という予定もあるし、優征や斗真たちと遊ぶ約束もしているのだ。
「そっか。うーん、俺も何かと用事入ってんねんな。修論のこともあるし、フットサルとかバイトとか……」
「お前ら、結構自由な付き合い方してんねんな」
と、どことなく羨ましそうな口調で湊はそう言った。
「百合子のやつ、割と俺の予定把握しときたがるからなぁ。もう慣れたけど……」
「へぇ、そうなんだ」
「女っていうんはそういう生き物や」
と、舜平はどことなく遠い目をしてそう言った。梨香子のことでも思い出しているのだろう。
「お前と、その百合子ちゃんって子、付き合いだしてどんくらいなん?」
と、舜平が尋ねた。
「えーと。高二の学祭からやから……四年目?」
「おー、すごいやん」
「よう飽きひんなと思うわ。俺あんま喋らへんのに」
「奇特な子もおったもんやな。大事にしぃや」
「分かってるわ。でも最近、なんかあいつ俺のおかんみたいになってきてて……」
「なんやそれ。ジジむさいお前相手におかんって逆にすごいやん」
「やかましいわ」
舜平と湊の会話を聞いてはいるものの、女性との交際経験のない珠生にはどこか遠い話題である。
大学の飲み会などではしばしば恋愛の話題に花が咲くものだが、決して甘く楽しい話ばかりが続くわけではないことを、珠生はようやく理解するようになっていた。彼女からの束縛、浮気、別れ話、倦怠期……などなど、つい数ヶ月前までは楽しげに恋人の自慢をしていた友人たちの口からは、そういった不穏なワードが聞こえてくる。甘い恋愛の裏側にあるどろりとした部分を経験したことのない珠生は、彼らの不満に心底共感できず、いつも生返事しかできないのである。
舜平は珠生を束縛しないし、適度な距離感を保って付き合ってくれる。もちろん、舜平自身も忙しいということもあるのだが、珠生は予定の確認をされたこともないし、筆不精な珠生に文句を言われることもない。今日はたまたま、湊が『そらゐ』に行ってみたいと言って珠生と舜平に声をかけたので、三人で出歩くという格好になっているのだ。
健介を通じて、互いの動向をなんとなく窺い知ることができるという環境もいいのかもしれない。健介が出張で不在となる日は、舜平が会いに来る。そんな日は、自宅でまったりと過ごしたり、セックスに耽ってみたり……と、会わないでいた時間が嘘のように、甘く濃厚な時間を過ごすのだ。抱き合いながら、会わないでいた時に何をしていたのかということについて喋り合ったりするのである。
舜平はいつでも珠生に優しいし、二人きりの時は情熱的に珠生を愛してくれる。舜平と喋っていると、自分の話下手を忘れてしまうくらい、会話が楽しいし、別れ際はやはり離れがたいものがある。
倦怠期という言葉の意味を頭では理解しているものの、珠生はそれを実感したことは一度もなかった。
――相当長い付き合いなのにな……。
と、珠生は湊の不平を聞いている舜平の横顔を、そっと見上げた。すると、ふっと舜平が珠生の方を向いた。珠生は仰天して、慌てて目を逸らす。
「旅行は行かれへんけどさ、これから俺らもどっか行かへん?」
「えっ?」
「湊、もう百合子ちゃんとこ行かなあかんらしいし。お前、この後なんかある?」
「いや、何もないよ」
「ほな、ちょっと遠出して夜桜見物でも行こや。まだ十八時やし、いけるやろ」
「へぇ、楽しそう。良いね」
「よし。あ、車は大学に停めてあんねん。取りに行くわ」
「うん」
珠生がにこやかに頷くと、舜平は白い歯を見せて爽やかに笑った。舜平の気持ちのいい笑顔が夕日に眩しく、珠生はちょっと照れてしまった。
すると、湊のじっとりとした声が聞こえて来る。
「……お前ら、ほんっっまに仲ええな。人前でも遠慮なくいちゃつくようになりよって」
「べ、べつにいちゃついてなんかないだろ!」
「おーおーおー、自覚ないんかい。あーもう胸焼けするわ」
「うるさいなぁ。湊も戸部さんといちゃつけばいいだろ」
「んーまぁ、そういう雰囲気になったらな」
「おいこら湊、そういう雰囲気ってのは自然となるのを待つもんとちゃうねん。自分から作っていかなかあんねんで」
と、舜平が湊の背中を叩きながらそんなことを言う。すると湊は黒縁眼鏡をきらんと光らせ、生ぬるい目つきで舜平を見上げた。
「ほうー。舜平はよっぽどそういう雰囲気つくるんがうまいんやろうな。珠生のやつ、しょっちゅう寝不足やもんな〜」
「うぐ……。い、今は俺らの話はどうでもいいやろ」
「舜平って、爽やかな顔してドスケベやもんな。性欲ありあまってんねやろうな、すごいなぁ」
「はぁ!? ど、どすけべって何やねん!? 俺はそんな性欲旺盛とちゃうし!!」
「よう言うわ。なぁ、珠生」
「……その話、俺に振る?」
飛んで来た火の粉に、珠生は思い切り渋い顔をした。
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