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『夜桜と散歩』〈2〉

   舜平が珠生をつれて向かった先は、宇治だった。  日本最古の橋・宇治橋上流の川沿いには、両岸合わせて二千本の桜が植えられており、ライトアップされた夜桜を楽しむ事のできる名所である。  宇治橋では、いつぞや水無瀬紗夜香の襲撃を受けたこともあった。紗夜香は今も父親と京都で暮らしており、看護師を目指すべく専門学校へ通っていると聞いた。祓い人の一族の出であるということは変えられないが、紗夜香は着実に自分の道を切り拓き、歩みを進めているのだ。  祓い人たちは、全員式との契約を解除し、今はほとんど只人と変わらない状態になっている。隠れ里のようだったあの集落にも光が入り、現代社会に溶け込みつつあるらしい。  あの日見た、紗夜香の恨みに沈んだ昏い目の色を思い出すにつけ、時代は着実に流れ、変化してゆくのだということを感じずにはいられない。  さほど遅い時間でもなかったため、川のほとりの道にはそこそこのひと気があった。とはいえ、京都市内ほどの混雑はなく、のんびりと桜を見て歩くことができた。数日前の雨のせいか、宇治川の水かさは高く、流れもどうどうと速い。この流れに巻き込まれてしまえば、たやすく人の命など奪われてしまいそうな猛々しさをもっているように感じられた。その川べりにずらりとこうべを垂れる満開の桜並木は見事ではあるが、どことなく、死者の魂を待つ死神の群れのように見え、不気味でもあった。  と、そんなことを舜平に言うと、舜平は目を瞬いて「お前、ようそんな不穏な見方ができんなぁ」と、感心したように腕組みをした。珠生は憮然として前を向く。 「桜って綺麗だけどさ、なんかこう、怖いじゃん」 「そぉか?」 「特にライトアップなんかされてると、ぐあっと迫って来るような感じがするし。一瞬だけ咲いて一瞬で散って、日本人の心を弄んでさ」 「……お前、桜になんか恨みでもあんのか」 「ないけど。あ、別に嫌いじゃないよ。むしろ桜は好きなんだけどね」 「ほんまかいな」  千珠であった頃から、桜を愛していた。  咲きかけの桜も、蕾混じりの花々も、たわわに花弁を実らせる満開のときも。下向きに花をつける桜の花を見上げていると、まるで、花の精霊がこちらに語りかけてくるかのように感じていたものだった。  薄桃色の儚げな花弁を見上げていると、時が経つのを忘れてしまう。自然の声や吐息を感じながら静かに過ごす時間が、五百年前(むかし)からとても好きだった。  散り際の潔さにも、趣深さを感じていた。桜吹雪の舞う青葉の景色を眺めながら、近づいて来る初夏の足音を感じ取る。季節の移り変わりを感じながら生きることができるようになれた自分自身を、どことなく、誇らしく感じていたものだった。大切なものに囲まれて穏やかな暮らしを得、千珠(じぶん)の心が豊かになったと感じていた。  そして、舜平と再会したあの日も、珠生の頭上には狂い咲く桜があった。  一時的に舜平が霊力を失ったとき、危うく別離の道を行きかけた珠生と舜平を呼び寄せたのもまた、桜である。  こうして過去と現在を振り返ると、再会の日に千珠の幻を見せたのは、桜の精だったのかもしれない……と、珠生は一瞬本気で思った。五百年前から千珠が親しみ、深く愛でてきた桜の精霊が、珠生と舜平に何かしらの力を与えたのではないかとすら思えて来る。 「お前、昔から桜、好きやったよな」 「えっ? あ、うん」  黙り込んで過去に想いを馳せていた珠生は、不意に舜平から声をかけられて仰天した。舜平は珠生を見下ろして、微笑む。 「しかも、俺らと花見酒飲むとかじゃなくて、一人で飽きもせんと、暇さえあれば桜見てたやろ」 「うん、まぁ……ばか騒ぎ、苦手だったし」 「桜の下におるお前、めっちゃ綺麗やった。天気のいい昼間とかやと、銀色の髪に桜の色がうっすら映んねんな。近寄りがたいくらい、綺麗やったで」 「……え、あ、そうなんだ……。てか、見てたんだ。気づかなかったよ」 「見てた……かな。うん、こっそり」 「うわ……まじで? ストーカー……」 「やかましい」  今度は舜平が憮然とする番だ。ふてくされている舜平の横顔を見て、珠生はついつい笑ってしまった。 「それにしても、宇治ももう満開だね。そろそろ散っちゃうのかなぁ」 「せやなぁ」 「ちらちら散ってるね。……ほら、向こうのほうとか」 「あぁ、きれいやな」  ひらひら、ひらひら、と桜の花弁が舞っている。時折吹く強い風で、晴れた夜空に舞い上がる白い花びらが、月光を受けてしとやかに光り輝いている。  豊かに流れる宇治川、川を彩る桜並木、そして舞い散る桜吹雪。  これほどまでに美しい風景を、自分は今までに見たことがあっただろうか……と、珠生は思った。 「きれいやな」 「うん……すごく、きれい」 「まさか、こうやってお前とのんびり夜桜見物する日が来ようとはな」 「そうだね」 「五年前の今頃、お前に不審者扱いされたりしたんが懐かしいわ」 「そりゃ、初対面の男の人にいきなりキスされたら怯えるだろ普通」 「ま、せやな。あははは」 「あははじゃないよ。本気でビビったんだからね、あの時は」 「そうかそうか。そらすまんかったな」 「軽っ」  舜平は軽い調子で笑い声を立てた。のんびりした歩調で上流へと歩くうち、いつしか人気が少なくなり、桜並木の向こうには暗闇が目立つようになってくる。桜並木が途絶えた後も、二人はしばらく川沿いを歩いた。川音が音を増し、しんとした空気が二人を包む。珠生は目を閉じて、深く深く息を吸った。 「はぁ……いい空気」 「せやな。人全然いいひんもんな」 「生き返るなぁ……。最近比叡山にも行ってないし」 「そっか。……あのさ、ちょっと話しておきたいことがあんねんけど」 「え?」  突然舜平は立ち止まり、改まった口調になった。不意のことで珠生は反応に困り、ただただきょとんとして舜平を見つめ返していた。  舜平は珠生から目線を逸らして目を伏せつつ、ちょっと言いにくそうに口を開いた。 「実は、就職先が決まってん」 「えっ!? あ、そうなんだ、おめでとう! っていうかいつの間に就活してたの?」 「ありがとう。院に上がった頃から、ぼちぼちな」 「なんてとこで働くの? 俺も知ってるところ?」 「んーどうやろ。製薬会社のライラスってとこの、研究員やねんけど」 「あ、知ってる。漢方薬とか有名なとこだよね」 「そうやねん」  そこは、たいして世間知のない珠生ですら名前を知っている大手製薬会社だ。珠生はいまいち舜平や父親の突き詰めている学問の内容を理解していないが、さらりと大手企業の内定を取ってくるあたり、舜平はさすがだなぁと感心する。  しかし、舜平はあまり嬉しそうではない。どことなく浮かない顔で、なかなかその先を口にしようとはしないのだ。珠生はだんだん不安になってきて、自分から舜平に尋ねた。 「それで……あの……勤務地は、どこ?」 「……それがな」 「……え? なんだよ、遠いの?」 「……」  舜平はどことなく申し訳なさそうな顔で、珠生を見つめた。舜平の背後から光を照らすライトアップの照明や、ごうごうという川の音も手伝って、舜平のその表情は、言いようがないほどに珠生の不安を高まらせた。  ――遠いのかな。……まさか、また、海外とか? ……就職決まったって、おめでたいことだけど……離れるのは嫌だ。そりゃ、留学とかしてた時もあったけど、あれは期限が決まってたし……。 「ど、どこなんだよ? 教えてよ」  女々しくならないよう声を張るも、語尾が頼りなく震えてしまった。舜平はじっと珠生を見つめたまま、ちょっと寂しげに微笑んでいる。  そういえば、今日の舜平はいつになく寡黙だった。ひょっとして、このことを珠生に伝えるタイミングを窺っていたのだろうか。なのに、珠生はのんびり夜桜を楽しむばかりで、舜平の表情の変化になど気づくこともなかった。  ――まさか本当に海外なのかな……。男同士でも、遠距離って、できる……のかな。舜平さんは女の人にもモテるから、俺と離れたら、普通に結婚して子供作って……とか、しちゃうかもしれない。そうなったら俺、どうしたらいいんだろう。そんなの、嫌だよ……。 「いやだ……そんなの……」 「え?」  重い沈黙のせいで、不安は膨れ上がる一方だ。珠生は思わず、舜平にすがりついた。舜平は驚いたような声をあげつつも、すっと珠生の背中に手を添える。 「いやだ、いやだよ……! 俺、舜平さんと離れたくない。国内ならまだ我慢できるかもしれないけど、海外なんかに行かれたら俺……!」 「……ごめんな」 「そりゃ、努力はするけど……! でも、嫌だよ……俺、舜平さんと離れたくない。離れるのは嫌だ……!」 「……ごめん」  ただただ謝罪の言葉を口にする舜平にしがみつき、珠生は子どものようにわがままを言った。舜平はただただ珠生の背中を撫でながら、深く長い息を吐いている。  川音が、珠生の不安を掻き立てる。 「……ごめんな、まじで」 「どこに、行くの……?」 「……うん……。ごめんな、京都やねん」 「……………………は?」  数秒後、珠生は弾かれたように顔を上げた。舜平はふるふると肩を震わせながら、なんとも言えない表情で珠生を見下ろしている。どうやら、笑いを必死で堪えているようだ。 「ご……ごめ……っ……ごめん、就職しても、今までと代わり映えせぇへんから、どう言おかなって考えててんけど……まさか、まさかお前がそんなこと言うてくれるとか……っ……ふくくくくっ……」 「……ちょ……は? 京都? 京都のどこだよ」 「ふふっ……伏見……やねん……くくくくっ……」 「………………」 「ご、ごめっ……お前がむっちゃくそかわいくて……っ、ちょ、ちょお待って……」  舜平は珠生の肩を抱いたまま、声を殺してひとしきり笑った。珠生はじわじわと腹の奥から湧いてくる怒りを感じつつ、じろりと舜平を睨みつけた。 「……ふーん、伏見ね。へー、良かったね、近くて」 「ご、ごめん……。お前、ほんっっまにかわいい。どちゃくそかわいい、どないしよ、ほんっま好きやで」 「俺の舜平さんへの好感度はだだ下がりだけどね」 「えっ!? あ、すまんすまん!! だって、まさかそんな勘違いしてくれるなんて思わへんくて!! お前、めっちゃ俺のこと好きなんやな。はぁ……もう、マジでかわいい」 「なんなんだよもう!!! もったいぶった言い方しやがって!! ふざけんなよ馬鹿!!」 「ご、ごめん!! ほんまにごめん!!」 「なんだよもう……。転勤とかは?」 「あっても大阪、神戸、滋賀やねん。出張は多いけど、基本的には関西勤務や」 「……ふーん」 「ごめんて、なぁ、珠生、そんな怒らんといて」 「そんな甘えた言い方したって、全然可愛くないし。てか、ちょ、寄るな」 「すまんかったって! なぁ、機嫌なおしてぇな。なんか奢るから!」 「うるさい。俺、帰る」 「いやいやいや!! ちょう待って! ほんまにすまんかった!」  スタスタと来た道を戻り始めた珠生の後を、舜平が大慌てで追いかけてくる。珠生は安堵のあまり盛大に腹が立っていたが、ちょこまかと後ろをついてきながら珠生の機嫌をとる舜平を見ていると、ついつい笑えて来てしまう。 「……ったくもう。……でも、良かった」 「あ……うん。ごめんな」 「焼肉」 「え?」 「今度、焼肉食べに行きたいなぁ。バイト先のそばに、すっごい美味そうなお店が出来たんだ」 「お、おう! ええよ! っていうかお前が肉とか言うん珍しいな」 「なんか、ほっとしたらお腹すいて」 「そうかそうか。任しとけ、なんぼでも好きなもん食えよ」 「先輩と湊も呼んでいい?」 「えっ!? ……うーん、まあ、かまへんけど」 「やった。楽しみだね」 「……お、おう」  彰と湊にまで奢らねばならなくなったことに不本意を感じずにはいられない、といった表情をしている舜平を見上げて、珠生はちょっと笑った。珠生の笑顔を見て舜平も安堵したのだろう。ようやく気の抜けたような笑みを浮かべている。 「あ、でもその前に……」 「な、なんや。他にも誰か呼ぶつもりか!?」 「ううん。……なんか、ほっとしたら……したくなった」 「え?」  歩調を緩め、珠生は舜平をじっと見上げた。舜平の頬がちょっと赤く染まるのを見て、珠生は小さな声でこう言った。 「セックス、したい。……どこかで、しようよ」 「お、おう、ええよ。もちろん」 「でも今日、父さん家にいるんだよね」 「ほな、うち来る? 今日は檀家さんとの親睦旅行行っててな、みんないいひんねん。妹は彼氏の家に入り浸りやし」 「うん、じゃあ、お邪魔しようかな」 「おう。……怒らせたぶん、めちゃくちゃ甘やかしたるから」 「いや、そういうのはいいんだけど」 「素直じゃないとこもかわいいぞ」 「うるさい」  そうして二人は、やいのやいのと言い合いをしながら、桜並木を軽快に歩いた。  さわさわと風が吹くたび、ふたりの頭上に花吹雪が舞う。

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