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『珠生、社会人一年目の夏』〈4〉

   結局、珠生と彰に出会うことなく、催事の刻限となった。  舜平はずらりと居並ぶ黒装束の仲間たちを眺めつつ、目線だけで珠生の姿を探した。だが、珠生の姿はどこにもない。彰の姿もだ。  季節は盛夏であるため、十九時とはいえまだ空はうっすらと明るい。しかし深い木々に囲まれた比叡山の修行場は、すでに闇へと沈もうとしている。  ほうぼうに焚かれた篝火の灯が、赤々とあたりを照らしている。人工的なあかりが何一つ存在しないこの空間は、ひどく非現実的でありながらも、舜平にとってはどことなく懐かしさをも感じさせられる雰囲気である。  目の前に組み上げられた素木造りの能舞台を見上げて、舜平は感嘆のため息をついた。数年前、藤原に修行をつけてもらっていた時には、こんなものはなかったはずだ。白木で組み上げられた能舞台には美しい装飾までもが施されており、神々しいほどに見事な設えである。比叡山の深い樹々をバックに作り上げられたこの舞台で、亜樹が舞を舞うのだろう。  能舞台の正面に置かれた観覧席には、赤い絨毯とパイプ椅子が四つ、並んでいる。そしてその背後にずらりと、二十人ほどの黒装束が並んでいるのである。これから来る来賓たちを出迎えるべく、ずらりと列をなしているというわけだ。  今日は全員が髪をきっちり撫で付けて、黒い立烏帽子をかぶっている。女性陣も同じ装束を身にまとっており、いつにもましてきりりとした装いだ。  樹齢の高い樹々に囲まれた静謐な場所、現代的な設備の何もない比叡山山中。こういう場所で、貴族装束に身を包んでいる陰陽師たちを見ていると、まるであの時代に立ち戻ったかのような感覚に陥りそうになる。皆の顔は見慣れているはずなのに、五百年前に修行を共にしたかつての陰陽師衆の顔ぶれと面影がだぶって見え、舜平は何度か目を瞬いた。  思えば、あの頃の仲間の血を引く者が今この中にも存在しているのだから、霊気の波長が似ていて然りなのかもしれない。転生者や後天的に能力に目覚めたものを除けば、皆陰陽師の血をもつ家系に生まれている。葉山も、敦も、佐久間も赤松もそうである。  ――不思議なもんやな……。 と、舜平は思った。  見慣れた顔ぶれだが、中には初めて見る若者の姿もある。彼らもまた、異能の力を持つ若者なのだろうか……と、舜平はふと昔を懐かしく思った。  自らの持つ力と記憶に怯えていた珠生が、今は宮内庁の職員としてこの国の和平を保ち、重要な催事の中心にいる。その変化が誇らしくもあり、また少し寂しくもある。ずっと共にあった二人の道が、今は距離を隔てているという現実を実感して、舜平はふともどかしい気持ちになった。  自分たちで選んだ道とはいえ、舜平の心には今でも迷いがあった。大手製薬会社の研究員という職は、専門性を生かせるやりがいのある仕事だ。舜平の望んだ進路でもあったはずなのに。  しかし今の仕事は、自分じゃない誰かでも替えが効く。でも、日本全国で起こる怪異を解決するという仕事をこなせる人間は、ごくごく限られた人数だ。しかも、人手はいつでも足りないというではないか。日々、疲れ果てた珠生の声を電話で聞くたび、少しやつれた珠生の肉体を抱きしめるたび、珠生の力になりたいと心が騒ぐ。すぐそばで、珠生を守ってやりたいと……。 「……おい、舜平。聞いとるんか」 「……えっ? な、何や」 「何じゃお前。俺がわざわざ舞台の説明してやっとんのに、上の空か」 「すまんすまん。で、今日だけのために造ったんか? もったいなくないか?」 「外国から王子様が来るんじゃ。そりゃ、それなりのもんを見せんといけんじゃろ」 「そらそうやろうけど。税金の無駄や言われへんか」 「これでもゴリゴリにコストを削ったんじゃ! 常盤にむちゃくちゃ言われながら、俺が一生懸命業者探して交渉して、」 「こらそこ、うるさい」  相変わらず常盤にこき使われているらしい。うっぷんまみれの敦の声が大きくなりそうになったところで、背後からぴしりと釘を刺される。聞き覚えのある声に背後を振り返ると、そこには黒装束姿の高遠雅臣がいた。  高遠の雅やかな顔立ちに、平安装束と烏帽子は素晴らしく似合っている。 「お久しぶりです、高遠さん」 「やぁ。ふたりとも、正装もよく似合うよ」 「高遠さんほどじゃないですよ」  舜平がそう言うと、高遠は手にした扇で口元をちょっと隠し、少し背伸びをして舜平の耳元に口を寄せた。 「今日はね、ちょっとした物語仕様にしてあるから、舜平くんも楽しめるんじゃないかな」 「物語仕様?」 「そう。海外からの大事なお客だからね、ただ単に手合わせを見せるのでは芸がない。だから、ちょっとした趣向を凝らしてみたのさ」 「へぇ……」 「珠生くんにも口止めしていたから、知らなかったろ?」 「ええ、はい……」 「ふふ。よく見ててね」  高遠と舜平のやり取りを、敦の反対隣にいた深春も耳にしていたらしい。ちょっと居心地悪そうに立烏帽子をいじりつつ、深春は小さくため息をついた。 「あちー……。ねぇ、いつ始まんの? お客さんってまだ?」 「もうすぐお着きにならはるんちゃうか。もうすぐ時間や」 「見てるだけとかつまんねー」  と、深春が退屈し始めたところで、どぉん……どぉん……と、大太鼓の音が山間に響き始めた。姿勢を正して直立すると、広場から少し離れた道路の傍に、黒塗りのリムジンが静かに停車した。  黒服のSPたちが周囲を固める中、そこから姿を現したのは、黒装束姿の常盤莉央と、黒いスーツ姿の露草宮喜仁親王。そしてけぶるような金髪もきらびやかな、背の高い青年であった。  スウェーデン王国のフェルディナンド王太子である。ごくごく地味なグレーのスーツといういでたちだが、身にまとう高貴なオーラは隠しようがなく、整った容姿も手伝って、かなり目を引く存在だ。年齢は二十四歳で、舜平と同じ年である。 「……あれがスウェーデンの王子様か。意外と普通じゃな」 「黙れ阿呆」  興味津々な目つきでスウェーデンの第一王子を眺めている敦に一喝しつつ、舜平はそっと居住まいを正した。フェルディナンド王太子の全身からは、只人とは思えないほどの霊力を感じた。なるほど見えるわけだと、納得する。  王太子は比叡山の山深い風景を興味深そうに見回しながら、ゆっくりと出迎えに並んだ陰陽師たちの前を歩いた。皆小さく頭を垂れ、露草宮とフェルディナンド王子が並んで歩く姿を直接見ないようにしている。  だが、ふと、王太子が舜平の前で立ち止まった。何となく顔を上げると、篝火に照らされてきらきらときらめく大きな目が、じっと舜平を見つめている。舜平は目を瞬いて、小首を傾げた。 「さぁ、席へ」  しかし、すぐに露草宮に(いざな)われ、フェルディナンド王太子ははっとしたように肩を揺らし、そのまま歩を進めて行った。  上背のある美青年だが、その背中はどことなく自信なさげに見えた。年齢にしては痩身であるし、肩がやや下がっていて頼りなげなのだ。いずれは国王になるだろうに、大丈夫かいな……と、舜平はそんなことを思った。  常盤と来賓たちが観覧席に並び座ると、また高らかに和太鼓の音が響き渡った。和楽器を手にした雅楽隊がしずしずと高舞台の傍に敷かれた赤絨毯の上に並び、腰を下ろす。そして静かな笙の音があたりを厳かに包み込む中、巫女装束に身を包んだ亜樹が、後座からすっと姿を現した。  白い長羽織を身に纏った亜樹は、笙の音色に合わせてゆっくりと舞台の中央へと進んだ。閉じた檜扇(ひおうぎ)を眼前に掲げつつ、亜樹はそっと目を閉じる。  しっかりと化粧を施された顔は、あの頃よりもずっと大人びたものに見えた。落ち着いた態度は堂々たる雰囲気であり、観覧席から見上げる露草宮とフェルディナンド王太子の表情が、ぐっと引き締まったものになる。  やがて音色が重なって、雅やかな音楽がゆるやかに始まった。亜樹は閉じていた目を開き、神降ろしの舞を舞いはじめる。  観覧席の後ろに二列に並んだ陰陽師の面々の中から、舜平は亜樹の姿を見上げていた。彼女もまた、とても立派になったなと、改めて感じさせられる。  親を失い、いじめの標的にされ、傷つけられつつも、強気という鎧で頑なに自分を守っていた亜樹が、こんなにも堂々と神への問いかけを舞っている。迷いのない眼差し、指先にまでみずみずしく行き渡る自信が、亜樹の表情をぐっと大人びたものに見せている。  徐々に雅楽が盛り上がるにつれ、皆の視線を一身に集めながら、亜樹は華やかに舞った。  その時、ぴたりと雅楽が途切れた。

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