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『珠生、社会人一年目の夏』〈5〉

   どこからともなく高らかな笛の音が鳴り響き、大太鼓の音が静かに、静かに大きく轟く。しんとした静けさの山中、その音は神々しくもあり、そして同時に不気味であった。  不穏な気配は感じないが、夜闇に紛れて、数多の妖がその場に集まって来ている気配を感じる。結界を張るとは言っていたが、放っておいて本当に大丈夫なのだろうかと舜平は思った。  舜平と同様、今回の催事の内容を知らされていなかった深春が、やや不安げに舜平を見上げている。舜平はそんな深春に笑ってみせた。  大太鼓のリズムが激しさを増し、笛の音はよりいっそう甲高く、けたたましく、比叡山の山々を揺さぶった。その音色を合図としているかのように、舜平らの周りにいた陰陽師たちがさっとその場から離れ、能舞台の周囲を円形に囲い込む陣形を取り始めた。舜平と深春はその動きにやや動揺しつつ、露草宮らの腰掛けた観覧席の後方で佇むばかり。  すると次の瞬間、ひときわ大きく和太鼓の音が地面を揺るがせた。  それと同時に、陰陽師たち全員が、すっと同じ手印を結ぶ。 『時は平安。人と妖が近しく暮らす、闇深き怪異なる時代。帝のおわす京の都に、夜毎人心を騒がす鬼ありけり』  低く、心地よく響く声が、どこからともなく聞こえてくる。祝詞でも読み上げるかのような口調である。どこか聞き覚えのある声だ。 『其の鬼、毎夜のように帝のおわす御所に現れり。悪しき気配に怯える幼帝の御身を守るため、数多の陰陽師が厚く守りを固めし或る夜のこと――』  ドォン……ドォン……と、大太鼓の音が、合いの手を打つように響く。  さっきとは違う笙の音が鋭く鳴り響き、ざ、っと陰陽師衆が身構える。誂えたように、ざぁ……っと激しい風が木々の樹冠をざわめかせた。 『夜闇の中、御所に流れ込む鬼の気配。当代きっての陰陽師が一人、帝に呼ばわれ御所へと来たれり』  甲高く響く笙の音と、激しく空気をさざめかせる鈴の音が、篝火をぐらりと揺らした。盛大に盛り上がる雅楽の音色に合わせて、能舞台の裏から、貴族装束姿の彰がゆっくりと姿を現す。  きっちりと髪を撫で付け、黒い立烏帽子を頭に戴き、唇に薄笑みを浮かべる彰の姿は、往年の一ノ瀬佐為そのものであった。  身にまとう気のなせるわざか、彰と佐為の雰囲気はよく似ている。顔だけを見ていたら当然別人なのだが、立ち居振る舞い、話し方や表情の作り方によって、『彰』が『佐為』だとよく分かるのである。  容姿だけを比べるならば、佐為の方がやや小柄で、どちらかというと中性的な外見をしていたものだった。過去の壮絶な体験、そして裏の仕事を請け負う佐為の表情はいつもどことなく影があった。飄々と笑ってはいても、目の奥に傷を隠しているかのような、きわどい危うさが見え隠れしていたことを思い出す。  一方、現世に生まれ直した彰はすらりと背が高く、現代人らしいスマートな所作には自信と知性がみなぎっている。  あたたかな家庭で育まれ、現世の『斎木彰』として、穏やかさと優しさを得た。前世から続く間たちとの硬い絆を結び直し、そして新たに、恋人である葉山と育んだ絆を得――それらに守られた彰は、『一ノ瀬佐為』であった頃よりもずっと、その魂を強くしている。  彰はざ、ざ、と砂利を踏み、能舞台から距離を取るように、ただ広い空き地の方へと歩を進める。  すると、ぼう、ぼう……と、暗闇の中、勝手に篝火に火が灯っていくではないか。赤々と火の灯った篝火がぐるりと円を描き、あっという間に、そこいは広々とした空間が姿を現す。そして彰はまっすぐに、その中心部へと進み入った。  露草宮とフェルディナンド王太子は「おお……!」と声をあげ、摩訶不思議な光景に仰天しているようであった。そして舜平と深春も「おお〜」とのんびりした歓声を送った。あれが時限式の術であることはすぐに分かったが、こうして舞台装置的に使うと、かなり印象深い雰囲気になるもんや……と、舜平は感心していた。  耳をつんざくほどの高らかな笛の音が閃いたかと思うと、どどどん、どどどどど……と大太鼓が激しく拍子を刻む。バックに流れる不穏めいた雅楽の音色の不気味さもあいまって、比叡山全体がざわざわとざわめきだす。 『数多の陰陽師が居並ぶその場所へ、あやしき姿の鬼、突如舞い降りん』  その時、音もなく、白い狩衣姿の誰かが、彰の前にふわりと舞い降りた。  いつ、どこからやって来たのか。突如としてその場に現れた白い姿に、露草宮とフェルディナンド王子が息を飲んでいる。  薄衣の被布(かつぎ)で顔を隠し、うつむきがちにその場に佇んでいるのは珠生だろう。   篝火の灯りに照らされて、白い衣がゆらゆらと赤くゆらめいている。  ゆっくりと顔を上げ、こちらを向いたその顔に、舜平は思わず息を飲んだ。  鬼の顔が見えたのだ。  よく見ると、それは面だということがすぐに分かった。珠生は、般若面で顔を隠している。  銀色の長い髪を高い場所に結い上げ、夜闇に浮かび上がる真っ白な狩衣を身に纏い、珠生は鬼の姿で彰の前に佇んでいた。闇に浮かび上がる般若面に、炎の揺らめきがゆらゆらと陰影を揺らす。その様は、ひどく不気味であった。  気づけば雅楽が止み、あたりはしんとした静けさに包まれている。  しかしその数秒後、彰は素早く難しい手印を結び、声高らかに詠唱した。 「陰陽閻矢百万遍(おんみょうえんしひゃくまんべん)!! 急急如律令!!」  彰の背後に、金色に輝く数千の破魔矢が浮かび上がる。それは形を成すやいなや、珠生に向かって鋭く飛んだ。空を切る音が生々しく響き、篝火の炎がぐらりと揺れる。そして一瞬ののちには、破魔矢は珠生がいたあたりの砂利を大きく抉り、轟音を立てた。 「うわ……っ……!!」  観覧席の方にまで届くつむじ風に、露草宮とフェルディナンド王子が腰を浮かせた。パイプ椅子など造作もなく吹き飛ばす衝撃波に危機を感じ、舜平はとっさに二人の前に回り込むと、すぐに印を結んで防御結界を作り出す。そんな舜平の背中を見上げながら、莉央がのんびりとした口調で「あら、ご苦労様」と言った。 「危ないやろ! お前もちょっとは仕事せぇよ!」 「あら、だって宮様はリアルな臨場感をお望みだもの。もっと危険な状況になったらお守りしようと思っていたわ」 「今かて十分危険やろうが! 外国の王子様もいてはんねんのに!!」  莉央に向かってそう怒鳴り散らしながら背後を振り返ると、目をキラキラと輝かせて拳を握りしめている露草宮と、茫然自失といった表情のフェルディナンド王子が見えた。莉央に支えられ、フェルディナンド王子はゆっくりとその場に立ち上がった。 「……これは……」 「防御結界といって、物理的な攻撃や衝撃は、または禍々しい瘴気から身を守るためのものですわ。この男も転生者で、過去の名を舜海と申します」 「転生者……彼も」  流暢な英語での会話が聞こえてくる。莉央とフェルディナンド王子の会話を耳に挟みつつ、舜平は目線を前に向けて珠生らのやり合いに意識を集中させた。  もくもくと土煙が沸き起こる中、彰はあいも変わらず唇に薄笑みを浮かべたまま、隙のない目つきで辺りを窺っているようだった。  その時、きら……っと土煙の中で閃光がきらめく。  そして次の瞬間、篝火の赫に染まった土煙を切り裂いて、珠生が彰の方へと躍りかかってきた。  ゆうに三メートルは跳躍しながら、利き手に握った太刀を振りかざし、まっすぐに彰の脳天めがけて斬りかかってきたのだ。  その拍子に、薄衣の被布がはらはらと空を舞う。そこだけがスローモーションで切り取られたかのような、不思議な光景であった。  珠生の動きは俊敏だったが、それをのんびり待っている彰ではない。腰に帯びていた太刀の柄を下げて握り締めると、珠生が斬りつけて来るタイミングで素早く抜刀した。ガキィッ……!! と刃と刃が激しくせめぎ合う音がその場に響く中、再び雅楽の音色が始まった。これまでの緩やかな曲調ではなく、戦いを鼓舞するかのような猛々しい旋律である。  彰との鍔競り合いに見切りをつけたのか、珠生は後ろにひらりと一回転して着地した。白い足袋と黒塗りの下駄という動きにくそうな足元だが、珠生はそんなことに頓着する様子もなく、軽やかに地面を蹴って再び彰に斬りかかってきた。  珠生の刃を受ける彰の顔には好戦的な笑みが浮かび、篝火を映す瞳が赤くきらめいている。ひとたびも珠生から目を逸らすことなく刃を受けつつ、彰はひらりと身をかわして珠生の手首を突然掴んだ。あわやそのまま引き倒されるかという場面であるが、そうやすやすと思い通りになる珠生ではない。掴まれたほうの腕をねじり上げ、一瞬生まれた隙を狙って、彰のわき腹に膝蹴りを食らわせたのだ。 「……っぐ……!」  一瞬、苦悶に顔を歪ませる彰から距離を取り、珠生は人間離れした身体能力を遺憾無く発揮して、ひらりと能舞台の屋根の上へを跳び上がった。  彰とのやり合いで、結わえていた髪が解けたらしい。  炎の赤に照らされた長い銀髪を風になびかせ、手には大ぶりの太刀を握りしめる鬼の姿は、ひどく恐ろしく不気味なものでありながらも、凄絶な美しさを湛えているようにも見えた。露草宮もフェルディナンド王子もただただ呆然と珠生の姿を見上げているらしく、さっきから何一つ声を発してはいない。  その時、彰のものではない声がふたつ、珠生の方へと放たれた。   「黒城牢!! 急急如律令!!」 「白雷刃!! 急急如律令!!」

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