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『珠生、社会人一年目の夏』〈7〉

   全てが終わったことを感じ取り、舜平はすっと結界を解いた。  すると、真っ暗闇だった能舞台のほうが再びふっと明るくなった。このたびの舞台となった広場の周囲を取り囲む木々の枝に、優しい色合いの提灯がぶら下がっているのである。  ついさっきまであたりを煌々と照らしていた篝火ではなく、ほんわりとした穏やかな明るさだ。急にあたりの雰囲気がまろやかなものになり、舜平はほっと息を吐いた。  そしてふと、フェルディナンド王子のことが気にかかり、舜平は後ろを振り返った。露草宮に付き添われ、王子はやや青い顔で微笑みを浮かべている。「大丈夫だった?」「すごかったな!」などと英語で盛り上がっている露草宮に若干圧されているようだが、王子はさきほどよりも幾分かはリラックスした表情である。  王子の問いかけを思い出し、舜平は小さく唇を引き結ぶ。しかし、陣を組んでいた陰陽師衆が能舞台の周りに集まってきたことで、舜平はふと我に返った。  提灯の明かりに照らされた黒装束の集団を割って、すっと藤原修一が姿を見せると、和んでいた雰囲気が、ぴりりと引き締まったものへと変化してゆく。  黒い貴族装束に身を包んだ藤原の姿は、さすがのように貫禄があった。  かつて棟梁であった頃を彷彿とさせる、包容力に溢れる余裕の微笑み。今も陰陽師衆を束ねる存在であることを示すように、皆が一歩身を引いて、藤原の背後に綺麗に並び立つ様は、今も昔も変わらない眺めである。  藤原のすぐ背後に立つのは、彰である。ついさっきまで激闘を繰り広げていたとは思えないほどに悠々とした微笑みを浮かべ、藤原の背後に控えているのだ。  露草宮とフェルディナンド王子のそばでかつての仲間たちを眺めていると、遠く離れた対岸に佇んでいるような気分になる。ずらりと居並ぶ陰陽師衆を目にして、王子の問いかけが再び胸の中でくすぶった。 「いかがでしたか? この度の演出は」  藤原が、露草宮に向かってにこやかにそう問いかけた。露草宮は大仰に両手を広げると、感極まったようなため息を吐きながら、「実に、素晴らしかったです……!!」と言った。 「一ノ瀬佐為様の生まれ変わりの君……! 君は、実に強いですね!! 今もその力を持ち続けておられるとが、本当に素晴らしい……!! 古文書の通りだ!!」 「ありがとうございます」  彰はにっこりと笑みを浮かべ、あっさりとした口調でそう応じた。藤原は誇らしげに彰を見つめた後、さっと右腕を広げ、露草宮にこう言った。 「ここにいる全員が皆、日々修行に励んでおります。この国では今も、妖による怪異は後を絶ちませんが、我々が護りとなってこの国を裏から支えて行きますので、どうぞご安心ください」 「頼りにしています……!! あぁ、実に素晴らしい……!! そう思うだろう? フェル!」 「あ、ああ。……本当に、すごいものを見せてもらったよ」  そう言って曖昧に微笑む王子の表情が、舜平はどうしても気にかかっていた。しかし、王子は国賓としての礼儀を慮ってか、陰陽師衆への謝辞を述べることに終始していて、本当に思うところを語る余裕はないように見える。のちのち藤原と面談などを予定しているのかどうかは分からないが、あんな顔をされたまま帰国するのかと思うと、なんとなく後味が悪かった。  その時、焼け焦げた狩衣を新しいものに替えた珠生が、すっと能舞台の裏から現れた。そして、その背後にワイシャツと黒いスラックス姿の柏木湊がいるのを見て、舜平は目をまん丸にして仰天する。 「……湊!?」 「よう、舜平」 「お、お前。なんでこんなとこに!?」 「ああ、俺、裏方で色々協力しててん。ナレーションも俺がやっててんで? 気づかへんかった?」 「えっ!? ……いや、どっかで聞いた声やなとは思ったけど」 「マイク乗りがええからって言われてさ。最初は藤原さんがしはる予定やってんけど、ここは若者にってことでな」 「……へぇ」  湊と舜平のやりとりをにこにこしながら眺めていた藤原は、珠生と湊、そして舜平、亜樹と深春のほうへ順番に視線を移しながら、こう言った。 「彼らも皆、古文書に生きていた登場人物たちの生まれ変わりです。今を生きる道は違えど、こうして今も私たちは繋がっている。これまでも、有事の際には何度も力を借してもらっていたのですよ」 「民間人から、力を借りるのですか」 と、王子が藤原に日本語で問いかけた。日本語も話せるらしい。 「ええ。珠生くん……千珠さまの生まれ変わりの彼も、初めはただの民間人でした。能力の目覚めを感じ取り、彼を迎えに行った日のことは、今でもよく覚えていますよ」  藤原の言葉に、珠生がどことなく照れ臭そうに笑みを浮かべた。今はもう銀髪を外し、いつもの通りの珠生の姿だ。それでも、白い狩衣に身を包んでいる珠生の姿は美しく華があり、千珠の影を見出さずにはいられない。 「色々とお聞きになりたいことがあるそうですね。宴席を設けましたので、そちらでゆっくりお話ししましょう」  そう言って、藤原が手を差し伸べた方向に、再び黒塗りのリムジンが現れた。露草宮たちをここへ送り届けてきた車だが、催事の間はこの場を離れていたらしい。  静かに停車したリムジンのドアが開き、ぱっと人工の明かりが灯る。明るく無機質な電気の光だが、ようやく現実に戻ってきたような心地になり、妙にほっとするような思いであった。 「君達も皆、行こう。久しぶりに、ゆっくり話もしたいしね」  藤原は舜平の方を見て、にっこりと微笑む。  何かを見透かしているような藤原の目つきに、舜平はちょっと苦笑した。  +  案内された場所は、比叡山山麓に佇むオーベルジュである。  てっきり、ホテルの宴会場の一室でも借り切って宴会をするのであろうと思っていたが、そこは眩いばかりのリゾートホテルであった。  そんな場所に平安装束で乗り込むわけにもいかず、宮内庁の皆は黒いスーツに戻っていた。舜平と深春、そして亜樹も、こざっぱりと私服に戻っている。  今回はフェルディナンド王子という重要な客人がいるということで、このホテルは例によって貸切である。一般の宿泊客が一切おらず、きらびやかな高級リゾートを独り占めという贅沢だ。これもまた税金の無駄遣いなのではないかと、宮内庁の予算について、舜平は疑問を抱かずにはいられない。  さて、宴席として設けられたのは、高級フレンチレストランだ。  そこから見下ろせるのは、きらきらと煌めく大津の夜景と、壮大な琵琶湖の風景である。品良く整えられたレストランの中はゆるやかなクラシックが流れていて、そこはかとなくいい匂いがした。  露草宮とフェルディナンド王子らは、窓際の席に通されている。ともにテーブルを囲むのは、藤原と莉央、そして高遠だ。あとの者は、めいめい好きな席に腰を落ち着けることになっているらしい。舜平は珠生、湊、深春、亜樹、そして彰とともに円卓に腰を下ろし、ようやくほっと一息ついた。 「いやぁ〜〜疲れたなぁ。珠生ったら、思ってた以上に本気で来るんだから」  と、ついさっきまでの緊迫感は何処へやらといった調子で、彰が間延びした声を出す。隣にいる珠生はちょっと肩をすくめて、「自分だって手加減なしだったくせに」と言った。 「あれ、どこまで打ち合わせしてあるもんやったん? 見てるこっちがひやひやしたわ」 と舜平が尋ねると、彰はテーブルに身を乗り出して頬杖をつき、珠生の向こうにいる舜平の方を見た。 「繰り出す技の順番くらいは決めてたよ。敦たちが一瞬混じってくることとかね」 「そんだけ? 剣のほうはアドリブか?」 「うん、そうだよ。とりあえず、宝刀で斬りかかってくるときだけは手加減してねって言っておいたくらいかな」 「へぇ……」  となると、太刀でやりあっていた時は相当本気だったのか……と舜平は思った。 「ここんとこ、僕も色々と病院のほうで忙しかったからさ、いいストレス発散になったよ」 「ああ、研修医にならはったんですっけ?」 と、彰の反対隣にいた湊が静かな口調でそう言った。舜平は、湊と会うのも久しぶりである。 「そうそう。時間問わず呼び出されるし、当直も多いからね。でもこの一週間は宮内庁の用事を優先できるように、色々と話を通してもらっているから」 と、彰は藤原の方を見遣りながらそう言った。 「病院になんて説明したんですか? まさか今回のことは言えませんよね」 と、亜樹が尋ねると彰は円卓を挟んだ向かいに座る亜樹の方を見て、思わせぶりに微笑んだ。 「特別警戒態勢参式というのがあって、有事の際は民間人の協力を得ることができるんだよ。今後、君達にも昔のように協力を仰ぐことがあった場合、職場にそういう連絡がいくのさ」 「えええ、そうなんですか?」 と、亜樹が目を丸くしている。 「特警参式は、それぞれの組織のトップに周知してある。『理由を聞かず、行政の処置に従うべし』ってね。きっとみんな怪しんでるだろうけど」 「へぇ〜相変わらずすげぇんだなぁ」 と、深春がのんびりした声を出した。腹が減っているのだろう、そわそわと落ち着かない様子だ。  その時、ギャルソンが各テーブルにシャンパンを注ぎに回ってきた。  藤原から乾杯の挨拶に立ったものの、皆疲れているだろうからということで、あっさりとした労いの言葉のみであった。  そして運ばれてくる、目にも鮮やかなオードブル。まるで芸術品のように美しく飾られた皿に、亜樹や深春が歓声をあげている。  透き通る金色の液体が注がれたフルートグラスを傾けながら、舜平はちらりと隣に座る珠生を見つめた。  珠生は疲れているのか、やや眠たげである。きりりとした黒いスーツ姿でシャンパンを口にする珠生の姿は、どこまでも麗しい。艶めいた唇がグラスの縁に触れるさまを見ているだけで、舜平の胸はどきりと甘くときめいた。 「お疲れやな、珠生」 「え……? あぁ、うん。昼間は通常業務で、夜は先輩と打ち合わせしてたから、ちょっとね。俺たちには特別警戒態勢とか、あんまり関係ないから」 「そうか」 「でも、このシャンパンめちゃくちゃ美味しいからまぁいいやって感じだな。こんな高級レストラン、初めてだし」 「せやな。ていうか、あんま飲みすぎんなよ。こんなとこで沖縄の二の舞はいややで」 「ははっ、今日は大丈夫だよ。てか、あの頃は俺たち未成年だったんだよなぁ。なのに俺に飲酒させてた敦さんとか、やばい大人だね」 「あいつは今でもスケベでヤバそうなやつやからな。気ぃつけろよ」 「分かってるって」  シャンパンを飲みながら舜平と話をしているうち、珠生はどことなく甘えたような雰囲気を醸しだすようになっていた。  その隣にいる彰も、すでにくいくいと白ワインを飲み始めていて、舜平はやや嫌な予感を感じ始めた。しかしさすがの彰もう大人だ。国賓を前にしてへべれけになるということはないだろう……と舜平は気を取り直す。  周りのテーブルも、皆いい感じに会話が弾んでいるし、王子たちのテーブルでも、何やら議論が盛り上がっているようだ。  心地よく活気に満ちた夜のフレンチレストランに、和やかな時間が流れている。

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