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『珠生、社会人一年目の夏』〈8〉

  「珠生の突き、すごく強くて死んじゃうかと思ったよ……全く、僕が相手だからって、甘えちゃって」 「ごめん先輩……だって、久しぶりに全力で動けたから……気持ちよくて……」 「ふふっ、しょうがないなぁ珠生は。いいよ、いくらでも受け止めてあげるから」 「先輩……」  そして一時間後。  これからメインディッシュが運ばれてこようかという頃合いに、彰と珠生がいちゃつきはじめた。  先に酔っ払ったのは、ワインをがぶ飲みしていた彰である。高級感のある椅子をぐいっと珠生の椅子に寄せてぴったりとくっつくと、馴れ馴れしく珠生の肩を抱いて口説き始め(舜平にはそう聞こえる)たのだ。 「すごかった。珠生は強いね」とか、「それに、すごく綺麗だったよ。ぞくぞくしたなぁ」とか、「またすぐにでもやりたいなぁ。ねぇ、今度二人きりでどう?」など……。彰の言いたいことが先ほどの手合わせについての内容であるとは分かるものの、酔って目元をほんのりと朱色に染め、うっとりとした口調で珠生に迫る様子は、どこからどう見てもいやらしい。  現に、向かいに座る亜樹がそわそわし始めているし、隣のテーブルに座る、葉山をはじめとした女性陣の目つきもとても鋭い。舜平は呆れたようにため息をつき、珠生の肩を抱く彰の腕をぎりりとつねった。 「いてっ! 何するんだよ」 「ええ加減にせぇよお前。皇太子様とスウェーデンの王子がすぐそこにいてはんのに、ベロベロになりよって」 「だって向こうは向こうで盛り上がってんだから、関係ないじゃん。ほら、王子様なんて莉央さんに口説かれてるよ」 と、彰が指差す先には、完全に前のめりになってフェルディナンド王子に熱弁をふるう莉央の姿が見えた。藤原に窘められようが関係なく、赤ワイン片手に妖艶な笑みを浮かべて、何やら王子に迫っているのだ。  王子はかなり引いている様子だ。今後、国交断然などされなければいいのだが、と舜平は思った。  そうして舜平が目を離しているすきに、彰は珠生のネクタイを緩めて耳元で何やら囁いている。 「ねぇ、今夜はここに泊まって行こうか? 部屋で飲み直さないかい? 最近全然珠生と会えてなくて、僕は寂しいんだ」 「俺だって寂しいよ。学生の頃は、毎日のように先輩に会えてたのに……」 「だよね〜〜〜。高校時代の珠生、かわいかったなぁ。制服が似合ってて、こんなに強いのに、ちょっと自信なさそうなところが愛おしくてたまらなかったよ」 「先輩は初めて会った時からかっこよかったよ……? 自信たっぷりで、強くて、頭も良くて……しかも生徒会長とか、すごかった……」 「ふふっ、うそ。初めて会った時は完全に僕にビビってたくせに♡」 「そうだっけ〜〜」 「……おい舜平、なんとかせぇよ」  見かねた湊が、果てしなく渋い顔で舜平の方を見ている。ここで邪魔をするとひどい荒れっぷりになることをすでに身をもって理解している舜平は、ただただふたりの甘い会話を聞き流していたのだが、湊はそろそろ周囲への悪影響について懸念しているようだ。現に、敦と佐久間の目つきが相当危険なものになっている。 「しゃーないなぁ……なんか、向こうにテラス席のあるカフェあったやろ。そこに連れて行くか」 「ええー? 別にいいんじゃね? まだ肉食ってねーしさ」 と、深春がニヤニヤしながらそんなことを言う。完全に面白がっているのが丸わかりだ。 「そ、そうやん。お肉食べてからカフェ連れて行ったったらええんちゃう? 近江牛やで近江牛」 と、亜樹まで鼻息を荒くしてそんなことを言うものだから、舜平と湊は同時にため息をついた。  ところが、珠生と彰は、そうのんびりともしていられない状態になっている。 「……ちょっ……せんぱい、くすぐったいよ……っ」 「ふふっ……ネクタイなんか取っちゃいなよ。黒いスーツも良く似合うけど、僕はもっと開放感に溢れた珠生が見てみたいなぁ」 「だ、だめだよ……っ……そこに皇太子様と王子様がいるんだから……っ」 「関係ないよ。僕らがどんなに深い仲かってこと、見せつけてやればいいんだ」 「あっ……だめ、」 「はいアウトーーーー!! はいはい、先輩!! ちょっと夜風に当たりに行きましょうね!!」  湊の堪忍袋の尾が切れたらしい。  突然すっくと立ち上がり、彰と珠生の二の腕をぐいっと掴むと、有無を言わさぬ力で店の出口へと歩き始めたのだ。 「あれっ、肉は!?」という深春に向かって「お前が食っとけ!!」と言い捨てて、湊はさっさと店を出て行く。  その決断力と行動力に感服しつつ、舜平もすっと椅子を引いた。そして藤原のテーブルにそっと近づき、「ちょっとカフェテラスの方で、酔っ払いの頭を冷やしておきます」と告げた。  藤原はどことなくくたびれた表情で頷き、「分かった。私も常盤をなんとかしなくては……」と呟いている。そして付け加えて、こう言った。 「君ともちょっと話をしたいと思っていたところなんだ。王子を部屋まで送ったら、また連絡するよ」 「……分かりました」  そう言って微笑む藤原の瞳は、あの頃と変わらずとても頼もしい。  舜平は小さく会釈をして、早足に珠生らの後を追った。  +  このホテルには開放感溢れる広々としたカフェがある。名前を『山床カフェ』といい、板張りの床が京都の川床を彷彿とさせるような、小洒落たカフェであった。  ここからはあまり夜景は見えないものの、夜空を彩る満天の星空の下で清涼な空気を吸っていると、とてもくつろいだ気分になる。壮大な山々の景色に目を奪われると同時に、比叡山が抱く強大な霊威に背筋が伸びる。この山々に抱かれた数多の妖たちが、平穏に暮らす穏やかな大地の気が、舜平の鬱屈とした気分を洗い流して行くように感じた。  そして湊たちを探してみると、三人はすぐに目についた。  カラフルな座布団が置かれたテラス席に、三人が座っているように見えたのだが……。 「おう、舜平」 「さすがやなお前……って、寝てる!?」  座っているのかと思いきや彰はテーブルに突っ伏して眠っているし、珠生は座布団を枕にしてすうすうと深い寝息を立てている。舜平はほっとするやら呆れるやらで脱力しつつ、珠生の隣にそっと腰を下ろした。さらりとした胡桃色の髪の毛を撫でてみると、珠生は「んー……」と呻いて、もぞもぞと舜平の膝に頭を乗せにやって来た。  その仕草が可愛くてたまらず、思わず顔が緩んでしまう。  しかし、今は湊の手前だ。舜平は慌てて咳払いをした。 「よっぽど疲れてたんちゃう? あんだけ力解放すんのも久々やったろうし、しかもワインをあんなに」 「……なるほどね。さすがの彰も、研修医生活でストレスたまってたんやろうな」 「そらそうやろ。今までは、先輩は命を奪う側の人間だった。でも今は、人の命を繋ぐ側の人間にならはったんやからな」 「……そうやな」  そういえば、こんなところで無防備に眠りこむ彰を見るのは初めてかもしれない。彰が医師への道に賭ける真摯な思い感じ、舜平は唇に笑みを浮かべた。 「ほんまにすごいな、こいつは……」 「せやな」  誇るべき力を持ちながらも、医師としての職務に全力を注ぐ彰の背中が眩しく見えた。それにひきかえ、自分は迷ってばかりいるからだ。運ばれて来たコーヒーで唇を潤しつつ、舜平は広大な夜空にため息を吐いた。 「湊は……仕事、どうなんや」 「俺? あぁ、言うてへんかったな。俺今、宮内庁の技術部におんねん」 「そうなんや。…………はぁ!? 何でやねん!? いつの間に!?」  突然大声を出した舜平に、湊は迷惑そうな目線を向けた。そして黒縁眼鏡をくいと押し上げ、話し始める。 「けっこういいとこに内定もろててんけど……なんとなくな。この世界に何万人とおるただのSEになるより、こっちの世界の力になれることないかなて思て、藤原さんに相談してん」 「そ、そうやったんや」 「前に中岳さんから聞いて知ってたことやけど、技術部は万年人材不足や。時代に合わせて、管理システムを組み直していかなあかん部分も多いって聞いてた。そういう部分でなら、俺は自分の能力を活かすことができる。霊力はなくとも、珠生たちの力になれるやろ?」 「……」  そう言って、湊は珍しく微笑んで見せた。  これまで、霊力を持たないことで周りに引け目を感じていたこともあった湊だが、今の湊の表情には迷いがなく、とても清々しい。舜平はただただ無言で湊の言葉を反芻しつつ、珠生の寝顔を見下ろした。柔らかく指に絡みつく髪の毛を、弄びながら。 「舜平も、ほんまはそうしたい思ってんちゃうん?」 「……ばれたか。さすが」 「そらな。お前のすっきりせぇへん顔見てたらすぐ分かるわ」 「せやんなぁ……」 「分からんではないけどな。お前は京大の院卒やし、留学経験もある。学びたくて学んできた学問を仕事に生かしたいと思うのは当然や。そのぶん、金もかかってるしな」 「まぁ、それもあんねんけど。……珠生にな、『舜平さんは舜平さんの行きたい道を進んで欲しい』ってよう言われんねん。慣れへん生活で疲れてるから、愚痴の一つも言いたいやろうに、なんか色々我慢してるような感じでな」 「なるほど。弱音を吐いて、舜平に心配かけたくないんやな」 「そうみたいや。……たまに『舜平さんがいてくれたらいいのに』ってことも言うんやけど、すぐに全力で否定すんねん。そういう反応されると、俺がいいひんほうがええんかなと思ったりもしてな」 「……やれやれ、相変わらず面倒なやつらやな」 「ん? 面倒ってなんやねんこら」  湊はゆっくりと首を振り、じっと舜平の目を見据えて来た。黒縁眼鏡の奥から、聡明な光を湛えた湊の黒い瞳に見つめられ、舜平は何を言われるのかとややたじろいでしまう。 「珠生は、お前にそばにいて欲しいと思ってるに決まってるやん。でも、そうして甘えることで、舜平の生きる道を自分が限定してしまうことに、抵抗があるんやろう」 「限定……か」 「それに、珠生は前世でお前にしてしまったことを後悔してる節があるしな」 「え?」 「お前への気持ちを抱えながら、宇月を娶ったこととか」 「……まさか、そんな大昔のことを?」 「珠緒が忍寮に入った後あたりかな、千珠さまはよく言うてはった。『舜に対する感情を、未だにうまく整理できない』って。『俺ももういい歳なのに、馬鹿みたいだろ』『自分から、あいつを裏切ったくせにな』って」 「……」  初めて聞く、千珠の話だった。  舜平は呆然として、ただただ湊を見つめることしかできなかった。  最後に千珠を抱いた時のことを、ふと思い出す。 『生まれ変わったら、只人になりたい』……千珠はそう言って、舜海の背中で涙を流した。  あの日触れた最後のぬくもりと涙の味が、舜平の身体に切なく蘇る。 「裏切り……やなんて、思ったことないのに」 「お前はそうかもしれへんけど。……でも、千珠さまはずっと気にしてはった。だから今でも珠生は、現世でこそ、舜平には舜平の生きたいように生きて欲しいって思ってるんちゃうかな。今ここでお前に甘えて、自分のために『相田舜平』としての人生を捨てて欲しくない……って、思ってるんやろ」 「……珠生」  平和な寝息をたてる珠生の横顔を見つめていると、愛おしさに涙が溢れそうになった。珠生もまた、様々な葛藤や迷いを抱えていたのかと思うと、どうしてそれに気づいてやれなかったのかと悔いる気持ちすら湧いてくる。 「あほやな……俺」 「……そうかもな」 「自分がほんまはどうしたいかなんて、とっくに分かってたことやのにな」  舜平は手のひらで珠生の頭を撫でながら、深く息を吐いた。  胸中に滞っていた澱のようなものが、ふわりと空気に消えていく。

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