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一、二人の朝

   ピピピッ、ピピピッ……と、アラームの音が鳴り響く。  珠生はうっすらと目を開き、腕を伸ばしてスマートフォンを手に取った。 「起きなきゃ……。ちょ、舜平さん……」  ぬくぬくとあったまった居心地のいいベッドから頑張って起きだそうとしているというのに、隣で眠る舜平の腕が珠生の腹に絡まっている。舜平もアラームの音で目が覚めたのか、「んー……」と呻きつつ身じろぎをした。 「何時……?」 「六時半だよ。起きてよ、朝ご飯食べるだろ」 「あぁ、食べる。……でも」 「わっ」  ぎゅうっと抱き寄せられ、布団の中に引っ張り込まれる。  父の各務健介が東京へ出張中のため、久しぶりに舜平が珠生の家に泊まりに来ているのだ。舜平が伏見で一人暮らしを始めてからは、休前日などはもっぱらそちらで過ごすことが増えている。そのため、松ヶ崎にあるこの家で過ごすのは、半年ぶりになるだろうか。  久しぶりの空間で二人きりというのが妙に新鮮で、昨晩はいつになく激しい睦み合いとなり、珠生は朝から気怠いのである。 「ちょっと、やめろってば……遅刻する……っ」 「こっからなら近いんやし、大丈夫やろ」 「でもっ……んんっ……」  自分の部屋でこうして二人過ごしていると、学生時代にあった色々なことが懐かしくなる。募るのは懐かしさばかりではなく、初々しい関係性の中、ここで何度も身体を重ねた思い出だ。  様々な感情を抱えながら、ここで何度もセックスをした。甘い思い出ばかりではないが、二人にとっての大切な軌跡である。  まだ高校生だった珠生と、大学生だった舜平。  前世にまつわる運命に翻弄されながらも、ふたりはこうして、穏やかな関係を築き上げてきた。 「お前、高校生んときと全然変わらへんなぁ」 「……へ?」  舜平の巧みなキスでへろへろにされてしまった珠生が、気の抜けた返事をした。舜平は珠生の隣で肘枕をすると、愛おしげ胡桃色の髪の毛を指に絡めた。 「ちょっと大人っぽくはなったけど……肌の感じとか、体型とか」 「これでもちょっは背が伸びたんですけど」 「ほんま?」 「伸びたよ! 高一は確か……165で。そこから、170になった」 「ほう、5センチも伸びたんか」 「そうだよ」  珠生が力んでそう言うと、舜平がぶっと吹き出した。珠生はむっとして、舜平の腕からするりと抜け出し上半身を起こす。 「そりゃ舜平さんは185もあるから、俺が5センチ伸びようが縮もうが関係ないだろうけど」 「そんなことないて。よかったな背ぇ高くなって」 「嫌味にしか聞こえないんだけど」  つんとしてそう言いながら、珠生はベッドを降りて顔を洗いに行こうとした。しかしすぐに舜平の逞しい腕に抱き寄せられ、組み伏せられてしまう。  体格のいい舜平が身動きをしたため、珠生の半身を覆っていた布団がめくれ上がってしまった。 「さ……寒い……」  季節は十二月。  さっきまでは舜平とくっつき合ってぬくぬく眠っていたけれど、部屋の空気はしんと冷え切っているため、珠生はふるりと身体を震わせた。  上はパーカー、下はジャージという格好だが、寒がりの珠生にとって、寝起きの冷気は拷問だ。一方舜平は、年がら年中Tシャツを着て眠っている。何年経っても、珠生は底冷えする京都の冬が苦手だが、体温の高い舜平と眠るのはとても心地が良いのである。 「寒いん? ほな、俺があっためたろか?」 「あっためて……は欲しいけど、そういう意味じゃないから! てか、ほら、いい加減にしないと遅刻するよ!」 「ははっ、せやな」  ついには怒り出してしまった珠生を、舜平は愛おしげに見つめている。すくっと立ち上がって清々しく伸びをしている舜平の背中を見つめながら、珠生もそろそろと冷たいフローリングに素足を下ろした。 「そういえば、今日は初の捜査協力やな」 「うん……。何するんだろうね。五條さんが、刑事は何かとめんどくさいから気をつけろってしょっちゅう言ってて……あぁ、なんか緊張してきた」 「お前意外と緊張しいやんな」 「だ、だって、刑事さんとなんか話したこと……なくもないか」 「そうやん。補導されたことあるわけやし」 「あれは補導じゃない」  いつぞや、水無瀬紗夜香の引き起こした事件にまつわる厄介ごとで、珠生は警察のお世話になったことがある。そのときは、藤原修一の大学の同期生である吉岡という女刑事が事件を丸く収めてくれた。  警察署へ連れて行かれるあの恐怖と心細さを思い出すにつけ、珠生の気分は重くなる。しかし今回は、自分たちが警察組織の一部として動くのだ。  顔を洗い、軽く髪を整えて、ワイシャツに腕を通す。洗面所の中に、特別警護担当官としての自分が出来上がっていくのを見つめていると、いくらか気分がしゃきっとしてくるような感じがした。  リビングに戻ると、舜平もまたすでに着替えを済ませていて、ワイシャツとネクタイという格好になっていた。逆三角形の広い背中に、白いワイシャツがよく映える。引き締まった尻や、長い脚を覆う黒いスラックスという舜平の後ろ姿は、いつ見ても格好がいい。  キッチンから舜平の後ろ姿に見ほれていると、くるりと舜平がこちらを振り返った。 「ん?」 「えっ!? ……ぱ、パンでいい? 卵でも焼く?」 「おう、ありがとうな、いつも」 「いいよ。自分ちにいるときくらいは、俺が朝ごはん作るから」  一人暮らしをするようになり、舜平も多少家事をするようになった。伏見の部屋に珠生が泊まるときは、たいてい舜平が朝食の支度をするのである。  そうなったのは、珠生が朝に弱いからと、いう理由もある。また、舜平の部屋に泊まるときはいつも、前の晩の濃厚な愛撫のせいで、珠生がくたびれているから、という理由でもある。  こんなふうに、当たり前のように生活を共にできること。  前世のあの頃と同じように生業をひとつにし、同じものに向かっていけること……珠生にとってそれは、何よりも幸せな毎日であった。  そんなことを考えながら食事をとっていると、舜平がいやに生真面目な顔をしていることに気がついた。何やら考え事をしているようだ。 「どうしたの?」 「いや……そろそろほんまに引越し先決めななと思って」 「あぁ……そっか。でも伏見の家、二年更新じゃなかった? あと一年あるだろ」 「そうやねんけど。職場も御所のそばなんやし、夜中の呼び出しもあるし、もっと近くに引っ越したいなと思っててん。そっちの方が、お前も楽やろ」 「楽?」 「珠生」  舜平はきりっとした凛々しい眼差しで、じっと珠生を見つめた。珠生はどきりとして、口に運びかけていたパンを途中で止める。 「な、何?」 「一緒に暮らせへんかな。俺ら」 「へっ……」  以前から時折、舜平は『一緒に住めたらいいな』ということは口にしていた。だが、こんなふうにきっぱり言葉に出されたのは初めてで、珠生は思わずどきりとしてしまう。  ――舜平さんと一緒に、暮らす……。  これまでは基本的に、珠生が舜平の部屋に泊まりに行くことが多かった。互いに多忙なときは、二、三週間会わないということもざらにあった。  同じ京都府内なのだから、会おうと思えばいつでも会える。だが、会えるものならいつでも会いたい……珠生は常日頃からそう思っていた。だが、舜平の負担になるのは嫌だったし、珠生自身も自分の仕事に慣れるのに必死だった。社会人として働き出したのだから、いつまでも舜平に甘えているわけにはいかない……と、プライドや遠慮という感情のせいで、葛藤することもしばしばだった。  だが、暮らしをひとつにするのならば、帰る場所はいつでも、舜平のいる場所だ。  舜平の申し出は、珠生にとっても、とても素晴らしい提案だった。  ――でも、父さん……どうするのかな。  ふと、父親ののほほんとした笑顔が脳裏に閃き、珠生は舜平から目をそらした。珠生を見つめていた舜平も、ふと、我に返ったように目を瞬く。 「あ、悪い……いきなり」 「い、いやいやいや! 全然……」 「ごめん。珠生とこうやって飯食ってたら……なんか……」 「あ、謝らないでよ! 俺だって、一緒に住みたい! 本当にそうなれたらいいなって思ってたんだ」 「え? ほ、ほんま?」  大慌てでそう訴えると、舜平の表情がふわっと明るくなった。珠生は照れ臭さを嚙み殺しながら微笑みつつ、コーヒーを一口飲む。 「で、でも」 「ん?」 「父さん……には、なんて話せばいいのかなって、思って……」 「あー……うん、そこやんな」 「父さん、一人じゃ何にもできないし、それに、職場だってこっから近いし……だから、なんて言って家を出ればいいのか、分かんなくて」 「うーん」  珠生がせかせかそんなことを言うと、舜平も腕組みをして唸りはじめた。  そして、舜平は意を決したように目線を上げ、珠生にこんなことを言った。 「……先生にちゃんと話、しよ」 「えっ……俺らのこと?」 「そう。俺、まだ先生に転職のこと言うてへんし……。これを機に、きちんと話して、許しをもらえたらええなて思ってんねん」 「……舜平さん」  珠生としても、いつまでも黙っていてはいけないような気がしていた。だが、いざ迎えるそのときが怖くて、ずっと考えないでいたことだ。  しかし、珠生はすでに、舜平と人生を共にしたいと考えている。珠生にとっては父親であり、舜平にとっては恩師である健介に、いつまでもいつまでも隠し続けていることにも、だんだん罪悪感を覚えるようにもなっていた。  いずれは、いずれは……と思っているだけでは、何も事態は動かない。珠生は深く息を吸い、そして深く吐き出した。 「……そうだね、そろそろ……話してみようか」 「ほ、ほんまか!? ええんか?」 「す、すぐにってのは無理だけど……。俺もそろそろ、先延ばしにするのはやめるよ」 「そっか。……ありがとうな、珠生」 「ううん。でも、ちょっとだけ時間くれる? 父さん、どれくらいそういうことに耐性があるのか、全然分かんないし」 「おう、ええよ。俺はいつでもええから」 「うん……」 「タイミングはお前に任せる。話は俺がするから」 「……分かった」  若干声が震えてしまう。珠生はテーブルの上で、ぎゅっと拳を握りしめた。そんな珠生の手を、舜平がふわりと包み込む。 「不安か?」 「んー……まぁ、ちょっとはね。あ、千秋にも相談してみようかな」 「おう。……って俺らのこと、知ってんの?」 「うん、知ってるよ。正也と喧嘩するたび、『あんたは年上の優しい彼氏に甘やかされてていいわよね』ってキレられる」 「あははっ、そうなんや」  双子の姉・千秋の声を真似てそう言うと、舜平が明るく笑った。珠生も少し気持ちが軽くなり、ぎゅっと舜平の手を握り返す。 「大丈夫だよね、きっと」 「あぁ、大丈夫」 「……うん」  二人はしっかりと目線を結び、同時にふわりと微笑み合った。

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