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三、事件

  「集団恐慌状態、ですか」  珠生の問いかけに、岡本はこくりと頷いた。そして手元に資料を広げつつ、話を先に進めていく。 「ええ。二日前、下京区にある小学校で映画上映会が行われました。その日は二学期最後のお楽しみ会で、映画はレクリエーション目的のアニメ映画でした」 「上映会の場所は?」 と、舜平。 「体育館です。暗幕を引いて真っ暗にして、六年生一三四名がパイプ椅子で鑑賞していました」  岡本は一呼吸置き、さらに続けた。 「暗闇ではしゃぐ児童もいたそうですが、映画の中盤まで何事もなくプログラムは進行しました。しかし突然、一人の女子児童が突如悲鳴をあげ、その場に倒れ込んでしまったらしいのです」 「悲鳴? 何か怖い場面だったのですか?」 「いいえ、ごくごく穏やかな日常的場面だったと聞いています。最初に悲鳴を上げた女子児童は、クラスでも中心的な立ち位置にいて、大人びた言動をするタイプ。映画の最中に騒ぎ立てるような児童ではない、と」 「へぇ……」 「その直後、その女児の周囲の児童達が次々に昏倒し始めました。さらに突然電力が落ち、体育館は真っ暗闇になってしまった。突然の悲鳴と停電で、あちこちで大きな悲鳴があがりました。その場から逃げ出そうとする児童で騒然となり、教師たちの制止の声も届かなかったとか」 「……」  珠生は舜平と顔を見合わせた。 「教師たちはすぐに暗幕を開けて、子どもたちを落ち着けようとしました。しかし結局、体育館の外へ飛び出していく子ども達があとを絶たなかった。その場に取り残されていたのは、パイプ椅子に足を取られて転倒した子どもや、最初に悲鳴をあげて気絶した女児、そしてその女児の周辺で同じように気絶していた、六年一組の児童十二名、そして」  岡本は資料をめくり、一人の少年の写真を指差した。 「この子は崎谷宗喜(さきたにそうき)くん。この子が、今回あなた方に調べていただきたい児童です」 「……どんな子なんですか?」 と、珠生。  見た所、その児童は少年らしい快活さと爽やかさを併せ持った、愛らしい小学生にしか見えない。くりっとした大きな目、無造作にあちこち跳ね上がった黒髪、健康的な肌の色などは、とても健康そうで、好ましい印象を受ける。 「崎谷くんは二ヶ月前の十月十四日、鞍馬山で失踪しています」 「失踪?」 と、舜平。 「はい、遠足で訪れた鞍馬山で、彼は突然姿を消してしまったのです。その日のうちに捜索願が出され、すぐに警察が動きましたが、一ヶ月の間手がかりさえ見つかりませんでした。何かしらの事件に巻き込まれたとしか思えず、我々は事件捜査へと方針を切り替え、付近に不審人物や車輌がなかったか調べ始めていました。しかし、このひと月、なんの進展も見られませんでした」 「……一ヶ月か」 と呟きつつ、珠生は資料に目を落とす。 「ご家族の方もかなり疲弊されていて、学校を訴えると言い始めた頃のことです。失踪から約一ヶ月後の十一月十日、崎谷くんは貴船神社・奥の院付近で保護されました。貴船を訪れていた観光客が、山中を彷徨っている崎谷くんをたまたま発見したんです」 「発見時の様子は?」 と、舜平。岡本はまた一枚資料をめくり、説明を続けた。 「それが不思議なことに、着衣には何の乱れもなく、健康状態にも問題があるようには見えなかったと」 「……そうなんですか?」 「崎谷くんはすぐに病院で精密検査を受ける予定でしたが……。実は、その検査を親御さんが拒否されまして、戻ってきた後の健康状態については把握できてないんです」 「え? ご両親が拒否を?」 「ええ、迎えに来られたお母様が頑なで。本来なら、どこかおかしいところがないかどうか調べて欲しいと言われるのが普通です。けど母親は『早く家に連れ帰りたい』の一点張りで。『怖い思いをしたのだから、早く家に連れて帰りたい』と」 「まぁ……気持ちは分からないではないですが。ちょっと妙ですね」 と、舜平が腕組みをした。 「でしょう? しかし、ここからが問題なのです」  岡本はそう言って、さらに一ページ資料をめくった。 「失踪するまでの崎谷くんは、とても活発で元気な児童だったそうです。成績も優秀で、スポーツも得意で、顔もこの通りかっこいいですからね、女子にすごくモテて、クラスのムードメーカーだったと」 「そんな感じですね」 と、珠生は改めて、写真の少年を見下ろした。 「しかし失踪後、彼は全く言葉を発しなくなったそうです。登校班の仲間たちと学校には来るけれど、一日中座ったままぼうっとしていて、友達の呼びかけにも応じません。皆が教室移動をしたり、体育をしたり、と言うときは、周りの行動に倣って同じ行動を取るのですが、終始上の空といった状態で」 「……それは、気になりますね」 「あと、これまではがっつくように給食を食べていたそうなのですが、今はまるで手をつけなくなったそうです。何も口にせず、トイレにもいかず、誰ともコミュニケーションを取らない状態の崎谷くんのことを、周囲は流石に心配して……というか、児童たちは気味悪がっていて、クラス中が妙な雰囲気なんだそうです」 「でしょうね……」 「保護者は、『ちょっと調子が出ないだけだ』と言って、絶対に学校を休ませようとはしません。学校医が崎谷くんの様子を見つつ、スクールカウンセラーがクラスメイトたちのケアにあたっていましたが……しかし、そうこうしているうちにあの体育館のパニックだ。周りがパニックに陥っている中、崎谷くんは微動だにせず椅子に腰掛けて俯いていたそうです。彼だけはまるで何事もなかったかのように静止したまま……先生方も、すっかり途方に暮れてしまって」  岡本は資料から目を上げて、珠生と舜平の顔を順番に見つめた。  そしてここが本題と言わんばかりの低い声で、こんなことを言った。 「そんな彼のことを、六年生の児童たちは『鞍馬の鬼が魂を喰ってしまったのだ』と囁き合っているそうですよ」 「鞍馬の鬼……?」 「ええ。遠足に行ったとき、地元の人から伝承を聞く時間というのがあったらしいんです。そこで、鞍馬山のお世話をし続けて六十年というご老人が、子どもたちにそんな話をしたらしいんですよ」 「どんな話です?」 「ええと……確か」  珠生がそう尋ねると、岡本は捜査資料を数枚めくり、「あ、あった」と呟いた。 「『鞍馬山には鬼が出る。夕暮れ時、山の中を一人で歩いていてごらん。足元から生えた濃ぉい影から、ぬっと二本の腕が伸びてくる。けむくじゃらの、太ぉい腕だ。長い指には鋭い鉤爪が生えていて、そこにはこれまで食ってきた子どもたちの血垢が、べったりとこびりついているんだよ。いいかい、子どもたち。日が沈む間際、夕日が最も朱く光り輝くあの時間。絶対にお山に入ってはいけないよ。さもないと、鬼の国へ連れられて、二度と帰ってはこられないからね』……とまぁ、こんな内容で。それが下級生の子どもたちにも広まってしまっていて、今あの学校は、ちょっとした緊張状態なんですよね」 「……」  珠生と舜平は、改めて顔を見合わせた。  鞍馬山は霊威の高い土地であり、遥か昔より山岳信仰の対象となっている。その霊威は今もなお保たれており、京都屈指のパワースポットとして、世界各国の人々が訪れるようになった。  鞍馬といえば、有名なのは天狗である。  鞍馬の天狗が幼き源義経に武芸を仕込んだ――という伝承は、少しでも歴史に触れたことのある人間ならば、誰しもが耳にしたことのあるエピソードだろう。  しかしその人物は本物の天狗ではなく、陰ながら義経を守護していた人物の一人であるという説もある。  天狗というのは山の精霊の一種であり、架空の生き物なのだ。鞍馬は密教文化が深く根付いた土地であり、天狗はその信仰の対象の一つとして、人々に親しまれてきた存在といえるだろう。珠生らの目に見えて存在する妖たちとは、存在する次元が違うのだ。  総じて、地の力が強い場所には強い妖が生まれやすいものであるが、『鞍馬に鬼が出る』などという話は聞いたことがない。  宮内庁が把握している限りでは、現在の鞍馬山に『(ヌシ)』はいない。三百年ほど前まで、鞍馬山には高名な妖が存在していて、京都の山々を広く治めていた。だが鞍馬山の霊威に呑まれ、自然消滅してしまったものと聞いている。  この三百年、ヌシがなくとも鞍馬山は平穏だった。  古より修験者たちの鍛錬の場として崇められ、現在もパワースポットとして人々に親しまれる鞍馬の山々。今も昔も変わらずに、人々は畏敬の念を持って山へ入り、その地の霊威を感じ取る。それゆえ鞍馬に棲まう妖たちは、人々の清い念を感じ取り、人間たちを脅かさない。  そうして、人と妖との均衡が保たれているため、鞍馬山は霊山としての威厳を保ち続けているのだ。  その鞍馬山に、鬼が出るという話。  それは、宮内庁としても放っておくことのできない事態だ。  珠生は資料をパタンと閉じて、すっと椅子から立ち上がった。 「すぐに調査を始めます。まずは、事件のあった小学校へ案内していただけますか」 「わ、分かりました! ありがとうございます!」 「まずは崎谷くんに会ってみたいのですが、アポなしで大丈夫でしょうか」 「今から学校の方へ連絡を入れます。多分すぐOK出ますよ」 「分かりました」  岡本は若干頬を上気させ、ぱたぱたと会議室を出て行った。 「鬼……か」 「鞍馬山のばあさんにも話を聞かなあかんな。そんな伝承、聞いたことないし。それに悲鳴あげた女の子にも話を聞いてみなあかん。この子が何を見たんか、まだ明らかになってへんみたいやし」 「そうだね。……これはちょっと時間がかかりそうだなぁ」 「高遠さんに連絡して、聞き取りの方へ人を回してもらえるか聞いてみるわ」 「うん、頼む。崎谷くんに何が起こってるのかはまだ分からないけど、霊魂への悪影響が進む前に何とかしなきゃ」 「おう。ちょお待っとけ」  スマートフォンを取り出し、すぐに電話をかけ始めた舜平の背中を眺めたあと、珠生はふと窓に切り取られた空を見上げた。十二月の冴えた青空が、どこまでも青く澄み渡っている。  ――初めて担当する事件が、鬼にまつわるものだなんて、なんか因縁を感じるなぁ。おおごとにならなきゃいいけど……。  珠生の願いを跳ね除けるように、強い北風がガタガタと窓ガラスを揺らした。

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