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十九、衝突

   公用車で事務所まで戻った後、舜平に自宅まで送ってもらった。  攻撃を受けてだめになってしまったスーツは、事務所で着替えてきた。  あの蔓草に負わされた傷は治療を受け、すでに目立たなくなっていたけれど、後先考えずに妖力を燃やした反動で、身体の中がじくじくと痛んでいる。加えて、久方ぶりに受けた幻術の影響で、まだ頭がぼんやりしていた。  マンションの駐車スペースに車を入れてサイドブレーキを引く舜平の手を眺めていると、その手がぽんと珠生の膝の上に移動して来た。はっとする。 「おい、ほんまに大丈夫か? ぼうっとして」 「大丈夫……だと思う。ちょっと寝れば……」 「傷の治療だけじゃ足りひんかったんやろ。ちょっとだけでも、気ぃ高めたろか?」 「……う、うん。でも……」  父親は帰っているのだろうか……と、珠生は腕時計に目を落とす。時刻は午後七時過ぎだ。健介が帰宅するまでにはまだ時間があるだろう。  治療を受けながら駒形司との戦闘に関する聞き取りを受けていたため、すっかり日は落ちている。ふと、目に入ったマンションの装飾品に、珠生は今日が何の日かを思い出した。 「そっか。クリスマスなんだ」 「え? あ……せやな。なんかバタバタしとったから、気づかへんかった」 「今年は、年末年始も落ち着かないだろうな……」  藤原は駒形司の存在について、あれ以上のことを口にはしなかった。ただ、職員たちを前に、『詳しいことを調査したのち、皆に報告する』とだけ言い置いて、藤原は現場から去って行ったのである。  珠生と舜平、そして敦の前では僅かながら動揺を見せていた藤原だが、大勢を前にして諸々の指示を飛ばす姿は、普段通りだった。 「とにかく、今は待つしかないやろ。何か複雑な事情がありそうやし」 「そうだね……」 「俺らは俺らで、崎谷宗喜の今後についても色々検討して行かなあかん。それに、岡本刑事への報告もまだやしな」 「あぁ……忘れてた」 「報告書作らなあかんねやろ? 地味に忙しいな」 「ほんとだ……。学生時代、葉山さんて普段何してるんだろうと思ってたけど、こういう地味な作業もたくさんあったんだなぁ。しかも公的な書類だし、何をどう書けばいいのやら……」  と、ぼやきながらシートベルトを外していると、ぐいと舜平に抱き寄せられる。感じ慣れた体温と温もりに気が緩み、一瞬にして全身から力が抜けそうになるのをぐっとこらえて、珠生はぐいと舜平の胸を押し返した。 「だ、だからここじゃだめだって! ご近所さんの目が……」 「せやったな、すまん」 「着替え取って来るから、ちょっと待っててよ」 「え? 家で休まんでええんか?」 「う、うん……もっと、治療して欲しいし」  照れ臭さを押し殺しながら珠生がそう言うと、舜平の頬にもうっすらと赤みがさす。  何となく落ち着かない気分になった珠生は、せかせかと車のドアを押し開けて外に出ようとしたが、また足元がふらついて、その場でへたり込みそうになってしまう。舜平が慌てて降りて来た。 「おい、大丈夫か!?」 「へ、平気……足がもつれただけだし」 「ったくほっとけへんなぁ。家までついてったるわ」 「……別にいいのに」  舜平に腕で支えてもらいながらエレベーターに乗り、自宅の前までやって来た。父親の気配は感じられない。  人気のない室内は凍てつくように冷え切っていて、珠生はふるりと身震いした。替えのスーツやワイシャツなどを手早く紙袋に入れてゆくのだが、手持ちのスーツの数が足りなくなってきていることにふと気づく。  右水と左炎とやりあった時にはスラックスやジャケットの裾がやや焦げていたし、今日はあちこち穴だらけにされてしまった上、血みどろだ。やれやれ衣装代がかさむなぁと内心ぼやきつつ私服に着替えてリビングに出ると、ソファでスマートフォンをいじっていた舜平が顔をあげる。 「なんか、お前がスーツ以外の服着てんの、久々に見るような気がするわ」 「まぁ……そうかもね。最近休みなかったし」 「お前は全然年取らへんなぁ。こうして見てると、まだ高校生でもいけそうやん」  珠生は淡い灰色のパーカーにジーパンという、ラフな格好だ。確かに、着ているものは高校時代と何ら変わらないようなものばかりだが、珠生はもう二十二だ。珠生は少しむくれた。 「うるさいなぁ。俺だってこれでも少しは、」  おもむろに立ち上がった舜平にぎゅっと抱きすくめられ、珠生は言葉を切った。  顔を埋めた舜平のコートからは、冬の空気の匂いがする。その中に、嗅ぎ慣れた舜平の匂いを感じ取り、珠生は目を閉じて深く息を吸った。  舜平の霊力がふんわりと珠生の身体を包み込み、妖気に燃え、ざわめいていた細胞の一つ一つが、静かに落ち着きを取り戻してゆく。 「……珠生が怪我するとこ、久々に見たからかな。なんか……ちょっと、ぞっとしたわ」 「え……?」 「祓い人の事件のときみたいに、お前が大怪我することなんて、もうないと思ってたのに。……なんや妙に不安になるわ。情けないこっちゃ」 「……そんな」  確かに、平和に腑抜けていた。駒形の台詞が、耳の奥にこびりついているような気がする。  今も修行は続けているし、皇宮警察隊に混じって剣道・柔道の腕も磨いている。でもそれは、かつて事件の渦中に巻き込まれていた学生の頃に行っていたものとは、何かが違う。  それは覚悟だ。  まだ、祓い人の事件などで珠生の周辺がざわついていた頃は、実戦に備えるために厳しい修行に勤しんでいた。感情に揺れ動きやすい珠生自身の心を、鍛えるためにも。  あれだけの事件を乗り越えたのだから、もう何が起こっても平気だと、心のどこかで思っていた。陰陽師衆の宿敵・祓い人さえ何とかすれば、あれ以上の危険な出来事が起こるわけがない。あの時のように、誰かが傷つき、苦しむことなど起こりはしない……心のどこかで、そう思い込んでいた。  だが、今回事件を起こした駒形司は、元宮内庁職員である。藤原の言葉を鵜呑みにするならば、二十年以上前に亡くなったはずの死人であるというし……。  一体どういう目的があって、今、動き始めたのか。どうして珠生の前に現れたのか。そもそも、駒形はどういう人物なのか……知りたいことは山のようにあるが、今は藤原の動きを待つしかない。それもまた、もどかしいことだった。  考え事に沈んでいるのは珠生だけではなかったようだ。いつしか舜平の腕の力も強まっていて、抱きすくめられた身体が圧迫される。珠生は呻いて身じろぎをした。 「舜平さん、苦しいよ」 「あ、すまん……」 「俺は大丈夫だよ。今回は、あいつの言うように、確かに油断してたんだと思う」 「……そうか」 「祓い人って言葉を聞いて、俺もちょっと不安になったよ。またあんな事件が起こるのかなって」 「……うん」 「舜平さんだけじゃない。情けなくなんてないよ。俺だって、思い出したくないことたくさんあるけど、でも、俺たちはそれを乗り越えてきたんだ。大丈夫だよ」 「せやな……」  舜平の腕の中で顔を上げると、凛々しく整ったふたつの目と視線が絡む。  舜平に頼ってばかりだったがゆえに、痛い喧嘩をしてしまったこともあった。舜平が水無瀬菊江に霊力を奪われ、大怪我を負わされた時のことだ。  あの時感じた、己の不甲斐なさ、敵への憎しみ、舜平ともう会えないかもしれないという大きな不安……。もう二度と、あんな気持ちを味わいたくはない。  今はこうして、舜平自身の不安を口にしてくれるようになった。珠生にとって、それはとても嬉しいことだ。  舜平は誰にでもオープンな性格ではあるが、その実、自分の感情を押し殺しがちな部分がある。負の感情は口にせず、飲み込んで、一人で苦しむ……舜平にはそういう一面があるが、ここ最近、珠生には少しずつ気持ちを吐露してくれるようになっていると感じていた。  いつまでも守られてばかりでは、男として不甲斐ないのだ。もっともっと、頼って欲しい――それが珠生の願いだった。  少し背伸びをして舜平の顎にキスをすると、舜平はふっと気が抜けたように微笑んだ。愛おしげに細まる舜平の目を見つめていると、珠生の表情も自然と綻ぶ。  いつしか自然と唇が重なって、冷え切ったままの部屋の中に、白い吐息がふわりと漂う。触れ合うだけの軽いキスだが、そこから伝わる舜平の感情や、力強い霊気を受け取るたび、どこか強張っていた全身から、何か重いものがするするとほどけていくような感じがした。  しかしその時、廊下の方で物音がした。  二人はぎょっとして、弾かれたように音のした方向を見た。 「……あ……」  健介が、愕然とした表情を浮かべて、そこに佇んでいた。  手にしていた大きなビニール袋が、どさりと音を立ててその場に落ちる。ふわりと香る、食欲をそそる匂い。硬直したこの場にはそぐわない、ローストチキンの香りだった。  舜平が素早く身体を離し、珠生の一歩前に出た。すると健介は、小さく一歩、後ずさる。 「先生……あの、これは」 「あ、相田くんの車があったから……その、驚かせようと思って、これ、買って来たんだ、けど」  健介はたどたどしい口調でそう言った後、信じられないものを見るような目で、舜平を見つめた。 「どういうこと、かな……これは。君が話したかったことって……これ? 珠生と……」 「……その通りです」 「ちょ、舜平さん……!?」  もはや隠しようのない状況であるとはいえ、今、面と向かって二人の関係を暴露しようというのかと、珠生は仰天して舜平の腕を掴んだ。すると舜平はちらりと珠生を見つめたあと、もう一度健介に向きなおった。 「申し訳ありませんでした。これまでずっと……先生に、隠し事をしていました」 「なっ……何? どう言うことなんだ……?」  温厚を絵に描いたような健介が声を震わせるところを、珠生は生まれて初めて見た。動揺を隠しきれず、嫌悪感を露わにして舜平を見ている健介の姿にも、珠生はひどくショックを受けた。  それは舜平も同じ気持ちだったかもしれない。だが、舜平はまっすぐに健介を見据え、はっきりとした口調でこう言った。 「すみません、先生。俺……先生に黙って、息子さんと交際していました」 「っ……」 「俺は、真剣です。珠生くんと二人で生きていくことを許していただきたく、お願いに上がるつもりでした。この間、先生に話したかったのは、このことです」 「き、きみは……何を言って……」  健介の声が震えている。声だけじゃない。手も、身体も。  表情も、これまでに見たことがないくらい、強張って、険しいものだ。きつく刻まれた眉間の皺や、見開かれた涼やかな目元。『父親』としての顔をしていない健介の表情を目の当たりにして、珠生は何も言えなかった。 「君は……珠生を、僕の息子を、誑かしていたんだな……」 「……父さん?」 「僕の息子を……君はっ……!! 何てことをしてくれたんだ……!!」 「父さん……! やめてよ!!」  怒声で舜平を罵る健介の声を、聞いていることができなかった。珠生は舜平の前に立ち、今にも泣き出しそうな顔をしている父親の顔をじっと見つめた。 「たぶらかすだなんて、一方的に舜平さんを責めないでよ! 俺だって本気なんだ!」 「珠生……! お前、何を言って……。いつからだ、いつからこんなことに!?」 「高校生の頃から、ずっとだよ」 「そ、そんな昔から……? なんてことだ、そんな……」 「父さんだって、舜平さんに俺のこと任せたりしてたじゃないか。舜平さんを信頼してたから、」 「ああそうだよ! 信頼していた! なのに、なのに……その立場を利用して、高校生だったお前に手を出すなんて……!!」 「手を出すなんて言い方やめろよ! 俺たちはそういうんじゃない! もっと真剣に、」 「珠生、落ち着け」  いつしか感情のぶつけ合いになっていた父子を宥めるように、舜平が珠生の肩に手を置いた。  見たことのない父の姿に混乱し、ショックを受け、珠生もまるで冷静ではいられなくなっていた。健介もまた、ひどく正気を失っている。呼吸も荒く、こめかみには汗が伝うほどに。 「……先生、ちゃんと話をさせてください。日を改めて、先生のところに伺いますから」 「……話なんて、聞きたくない。もう、珠生に近づかないでくれ……!!」  血を吐くような健介の台詞に、さっと血の気が引くような思いがした。じわじわと冷えていく拳をぐっと握りしめ、珠生は健介に向かって声を荒げる。 「どうして頭から否定するんだよ!? そりゃ、俺たちの関係が普通じゃないってことくらい分かってる! でも、話くらい聞いてよ! 考えてみてくれたって、」 「ああそうだよ、普通じゃない! 一時の気の迷いで、息子が道理から逸れた道を歩くなんて……そんなの、親として許せないだろう!!」 「道理からって……」 「先生も、落ち着いてください。悪いのは俺です。全部俺のせいなんです。どうか、珠生くんを責めないでください」  すっと間に入った舜平を前にして、健介がうろたえた顔をした。舜平の静かな声に、健介は逆上している自分に気づいたらしい。はっとしたように口元を拳で押さえ、うつむいた。 「……ちょっと頭を冷やすよ。君はもう、帰りなさい」 「……分かりました」 「父さん、俺……」 「ごめん。今は何も聞きたくないんだ。……今夜は研究室に泊まるから」 「父さん……」  健介はそのまま踵を返し、外へ出て行ってしまった。  絶望的な気持ちがわだかまる胸を押さえて、珠生はぐっと奥歯を噛み締めた。

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