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二十、ストレス発散

 翌日、珠生は目の下にクマを作った状態で出勤した。  結局、舜平にはそのまま帰ってもらい、珠生は自宅で過ごした。できることなら、健介ときちんと話がしたかったからだ。  でも、健介は帰ってこなかった。  言葉通り、研究室に泊まったようである。  健介が持ち帰ったローストチキンの数は、親子二人で食べきれる数ではなかった。舜平もいるなら、と、たくさんのチキンを買って帰って来たのだろう。  動作が大雑把な健介は、帰宅すると何かとバタバタ音を立てる。なのに、昨日は何の物音もしなかった。きっと、珠生と舜平をびっくりさせてやろうと、こっそり家に入って来たに違いない。だから、舜平と抱きしめあっているところを目撃されてしまった……。  チキンをひとつひとつラップに包んで冷凍しながら、珠生は何度も泣きそうになった。  父親に恋人のことをああまで否定されてしまったことにも傷ついたし、普段は温厚な父親が激昂する顔を見て、ショックだったということもある。そして、どうしてあそこまで頑なに否定するのか……父の持ちが見えないということにも、珠生はひどく落ち込んでいた。 「はぁ……」 と、深い溜息をつきながら、更衣室のロッカーにスーツのジャケットを引っ掛ける。気持ちの冴えない日は、無性に身体を動かしたくなるというものだ。京都府警察本部の道場では、毎朝のように誰かが体術の稽古をしている。特別警護担当課の人間だけではなく、一般の警察官や皇宮警察官、婦人警察官らも自由に出入りできる鍛錬の場だ。 「おう、珠生くん。珍しいな」  とそこへ、佐久間と敦が連れ立ってやって来た。ちょうど道着を着込んだところだったため、着替えを見られずに済んだ。 「おはようございます」  淡々と挨拶をする珠生の両隣を陣取って、二人は着替えを始めた。 「おいおい、どうしたんじゃ。目の下のクマ、珍しいな」 と、敦がムキムキに鍛え上げた肉体を惜しげも無く晒しながら、ワイシャツとスラックスを脱いだ。パンツ一枚という格好でジロジロと顔を覗き込まれる不快感に、珠生は露骨に嫌な顔をする。 「別に、何でもないです。ちょっと眠れなかったんで」 「ほほうほほう、昨日の怪我、すっかり治ってるところを見ると? あのあと舜平と盛り上がりすぎたって感じじゃな?」 と、敦がニヤニヤしながらそんなことを言い、馴れ馴れしく珠生の肩を抱こうとする。何となく苛立ちを感じた珠生は、肩に回った敦の腕をぐいと捻じ上げ、片手で敦の巨体をねじ伏せた。 「いたたたたたたたたたたた!!!!! やめ、やめてぇや!! ごめん!! ごめんって!!」 「……ふん。堂々と後輩にセクハラ発言とか。マジでやめてくださいよ。訴えますよ」 「ごめんなさい!! ごめん、痛い痛い痛い!! 珠生くん、やめて!! やめてマジで!!」  敦が大仰に騒ぐものだから、珠生らのいるロッカーの裏手で着替えをしていた警察官たちが何事かと覗きにきた。そして、細身な珠生が大柄な敦を足蹴にしている様を見た警察官らは、目を瞬きながら顔を見合わせている。 「どうどうどう、珠生くん。落ち着きって。どないしたん、いらいらして」 と、佐久間が止めに入って来た。珠生はじろりと佐久間を見て、ようやく敦の手を離す。 「何か辛いことがあったんなら、この優しくて頼れる先輩・佐久間さんが受け止めたんで? ほら、墨田に比べたらうっすい胸やけど、遠慮なく飛び込んでおいで!  珠生くんなら大歓迎やで♡」 「……」 と、そこそこに引き締まった肉体を晒し、半裸の佐久間が両腕を広げてにっこり笑う。爽やかげな黒髪の短髪やそれなりに整った顔立ちは、真面目にしていればまぁまぁ誠実そうな男に見えるが、こうして後輩をからかって遊ぶ姿は完全なるチャラ男である。  珠生は道着の襟を正して溜息をつくと、佐久間の方へ向き直り、ゆっくりと歩み寄った。珠生が抱きついて来るのではと期待しているのか、鼻の穴を膨らませて目をキラキラさせている佐久間に向かって、珠生はにっこりと営業スマイルを見せた。 「じゃあ遠慮なく、先輩の胸を借りちゃおうかな」  +    その三十分後。  足腰が立たないほどに珠生に打ちのめされ、道場に倒れ臥す佐久間と敦の姿があった。  初めは佐久間を相手に自由組手を行なっていたのだが、結界班にいる佐久間はやはり動きが緩慢で、珠生のモヤモヤを忘れさせてくれるほどの相手ではなかった。聞けば、ここ最近敦に鍛えてもらっているのだというのだが、それでもまだまだ動きが甘く、ものの数秒で勝負がついてしまう。  そんな佐久間に比べると、敦はかなりやれる男だ。一手一手に重みがあり、動きも速い。技から技へ流れるように攻撃が移り変わり、流石の珠生も、守備にのみ集中せねばならない瞬間があるほどであった。  だが、動きの素早さにおいて、珠生の右に出るものはいない。敦の一瞬の隙をついて懐に入り込み、鋭い掌底を食らわせたり、足払いをかけて巨体を引き倒してマウントを取ったり、珠生に振り回されてへばったところで上段回し蹴り……など、とにかく珠生は派手に暴れた。特に敦に対しては遠慮がいらないということもあり、いつも以上にこてんぱんにのしてしまったのである。  それでもなお、「まだまだぁ!! 俺が勝ったら一回チューじゃけんな!!」と訳のわからない勝負を持ちかけてきたりする。そんな敦の強靭さには素直に感服するが、言っていることは完全にセクハラだ。それゆえ、珠生も手加減することなく、自由に敦を倒せるというものなのである。  大して息も乱さずに敦を()してしまった珠生の姿に、側で稽古をしていた筋骨隆々な警察官たちも、ただただ沈黙するばかりであった。 「はぁ〜。ちょっとすっきりしました。ありがとうございました」 「くっそ……どんだけ強いんじゃ……くっそ……チューしたかったのに……」 「はいはい、いつかできるといいですね。それより、昨夜の貴船の探索、どうだったんですか?」 「……この状況でその話させるか……?」 と、畳の上に這いつくばったまま、敦がくぐもった声を上げた。  藤原の指示のもと、無傷または軽症だった職員たちで駒形司の探索が行われたのだが、それはことごとく空振りだったらしい。  これまでずっと気配を隠していたのだから、これ以上探してもしょうがないだろうということもあり、完全に日が落ちる頃には、探索は切り上げられた。 「赤松さんに聞いてんけど、あの駒形っていうやつが使ってた術な、今は絶対に使ったらあかん禁忌の術らしいねん」 と、佐久間が小さな声でそう言った。今は道場の隅で話をしているのである。敦は壁にもたれて虫の息だ。 「禁忌の術?」 「そう、あのほら、妖を吸い込んでたあれな。あの術、祓い人とのゴタゴタがまだ多かった頃、宮内庁の中でもちょっと流行ってたらししいで。なんでも、一時的にでもかなり力が強うなるから、戦闘時にはええんちゃうかって」 「そうなんですか?」 「でもな、すぐに禁止令が出たらしい。逆に妖に取り殺されそうになったり、妖によってパワーアップすることに快感を見出して、戦闘でもないのに妖を体内に入れてまうみたいなやつがあとを断たんかったらしいねん」 「なんか……麻薬中毒みたいですね」 「そうそう、そんな感じ。そんなアブなっかしい術使い続けるわけには行かへんて、禁止になったらしいで」 「ふうん……。それっていつ頃の話なんですか?」 「ええとな、赤松さんがハタチになる前て言うてはったし、もう二十五年くらい前なんちゃうかな。赤松さんはまだ入庁する前やったけど、民間協力者として宮内庁とは付き合いがあったから、聞いたことあんねんて」 「へぇ、そうなんですか」 二十年以上前に流行った、禁忌の術。確かに、あの術は見るからに危険だった。  そんなものが一時的にでも流行ってしまうなんて、藤原が組織を率いている現在(いま)ではあり得ないことだろう。昔は、特別警護担当課の雰囲気も、今とはがらりと違ったものだったのかもしれない。その当時は誰が先頭を切っていたのだろう……と、珠生はこの組織の過去を思った。 「藤原さん、昨日の晩から東京に出張行かはったわ。調べることがあるから、て」 「東京?」 「そ、宮内庁 書陵部(しょりょうぶ)に用があんねんて」 「書陵部って……過去の記録とか、全部保管してあるところですよね」 「そうそう。君らの過去を納めた古文書なんかも保存してある場所やで。裏日本に関わる文書は、あそこの地下に全て置いてあるって噂や。俺も中まで入ったことはないから、ほんまかどうかは分かれへんけど」 「へぇ……」  何にせよ、藤原から諸々の話を聞くことができるまでには、日数が要りそうだ。珠生は昨日やりあったばかりの駒形の姿を思い出しつつ、腕組みをして俯いた。  するとその時、さっきからちらちらと珠生らのほうを気にしていた警察官の男たちが数人、ゆっくりとこちらに歩み寄って来る。どの男もいかつい顔と迫力のある体つきをしていて、佐久間が明らかに怯んでいる様子が伝わってきた。  壁際でだらだらと話し込んでいるのがよくなかったかと思い、その場から退出しようかと思いかけた時、その中の一人が、おずおずと珠生に声をかけてきた。 「あ、あのう……自分、機動隊に所属する権藤(ごんどう)というものなんですが」 「えっ? き、機動隊ですか? お疲れ様です……」  機動隊といえば、警察組織きっての武闘派集団だ。一体何を言われるのやらと身構えていると、権藤は鬼瓦のようないかつい顔を真っ赤に染め上げながら、震える声でこう言った。 「よ、よかったら、お、名前教えていただけませんか!?」 「え?」 「あ、あの……! あ、あなたの強さに、あの、目を奪われたと言うか!! 惚れ惚れしたと言うか……ッ!!」 「はぁ……」 「よ、よかったら、じっ、じじ、自分たちともぜひ手合わせをお願いしたく……!!」  権藤はそう言って、がばりと直角に腰を折った。後ろに並んでいた二人の大男も、それに倣って大仰にお辞儀をしている。珠生は目を丸くして、大男たちを呆然と見上げた。 「あ……でも俺、そういうの、苦手って言うか……」 「まぁええやん。墨田で満足できひんかったんやろ? お相手して差し上げたらどうや?」 と、佐久間が珠生の背中を叩く。珠生は困惑顔を浮かべたが、「いずれこの人らに協力を要請することもあるかもやし、交流しとくほうが得やで」と耳打ちされ、珠生はしぶしぶ立ち上がった。   「……分かりました。ちょっとだけですよ」 「あ、あ、ありがとうございます!! よろしくお願いします!!」  威勢のいい野太い声が、道場に響き渡った。

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