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二十二、式
『我らは神使としてここにいるが、毘沙門天様にお会いしたことはない』
『誰に仕えているのか、どうしてここにいるのか、よく分からない』
「そうなの?」
寂しげな声に、珠生は二頭の顔を覗き込む。清い水を湛えたかのような透き通る瞳が、珠生の胡桃色の目に映る。
『人々を見守るのが我らのなすべきことなのだろうが、たまに、よく分からなくなる』
『誰の意思で、我らはここにいるのだろうと』
『人々は、一体ここで何を得ていくのだろうかと』
『我らは、何をしてやればいいのだろうかと』
『誰も我らの存在に気付かぬのに』
『ここにいる必要が、あるのかと』
その言葉に、珠生は湊の台詞を思い出した。
鞍馬寺の本尊は『尊天』という概念であり、ここに祀られている三体の仏神は、その象徴の証に過ぎないのだということを。
「なるほどねぇ……この山自体の神気の強さに影響を受けて、この二体は魂を得たんだろうな。鞍馬に棲む妖たちとの交流もなく、ずっとここで、二人きりで」
「交流?」
「妖は自分たちの住処を守るために、縄張り争いなんかをするだろう? そういうやり取りの中で、妖の世界のルールを学んでいくらしい。だがこの二体は、神気を身に纏っているからね、並みの妖は近づけない。だから無垢なままなのさ」
「なるほど……」
彰の説明に、珠生はさもありなんと頷いた。
頼るものは互いだけ。数多もの人々の願いを耳にしつつも、何をするでもなくそこに在るだけ……それは、虎たちにとっては歯がゆいことだったのかもしれない。だからこそ。
『ツカサは、我らに力の使い方を教えてくれると言ってくた』
『我らにそんなことを言うものは珍しく、とても、嬉しかった』
『ソウキの力になれることが、誇らしかった』
『我らを撫で、好いてくれるソウキのことが、愛らしかった』
右水と左炎は身体を寄せ合っておすわりをすると、間に立つ珠生の身体に大きな頭を擦りよせた。両手で虎たちの頭を撫でると、ぐるぐると喉を鳴らす音が聞こえてくる。思わず笑みがこぼれた。
「……寂しかったんだね、二人とも」
口をついて出て来たその言葉が、適切かどうかは分からない。しかし二頭の虎は何も言わず、ただただ珠生に甘えるだけである。
腕組みをして二頭の様子を見つめていた彰が、ふと、こんなことを言い出した。
「珠生、その二頭を式にしたらどうかな」
「え?」
唐突な提案に、珠生は目を瞬いた。ほっそりとした顎を撫でながら、彰がゆっくり歩み寄ってくる。
「こんなにも強い力を待った神使を、ただここに放っておくのは忍びない。それに、彼らの無垢につけ込んで、また悪事を唆そうとする奴らが現れないとも限らないからな」
「……確かになぁ。でも、式って……」
「別に身構えることじゃないよ。僕にとっての蜜雲のようなものだ。決して互いを裏切ることのない、友のような存在さ」
「友、か……」
巨大な狐の妖・蜜雲。人形(ひとがた)になって手助けをしてくれたり、戦闘時に援護してくれたりと、活躍の多い彰の式神だ。まさか自分が式を持つ日がくるとは微塵も考えたことがなかったため、珠生はやや戸惑っていた。
「でも、どうすればいいの? 式を持つって、想像がつかないんだけど」
「難しいことじゃないよ。僕は陰陽師衆に入ったばかりの頃、群れからはぐれ、都で悪さをしていた蜜雲と契約を結んだ。長かった髪の毛を切って蜜雲に与え、契約の証としたのさ」
「髪、か。でも僕に、与えられるものなんて……ていうかその前に、この二人の意思を聞かないと」
「そうだね」
彰はその場にすっとしゃがみこみ、青く揺らめく双眸をじっと見つめた。そして二頭の鼻先を撫でつつ、尋ねた。
「話は聞いていたね? どうだい? 珠生の式になれば、君たちにはいつでも珠生とつながっていられる。あの少年とも、会いやすくなる。それに、君たちが欲している存在意義を得ることができるかもしれない」
『……』
『……』
二頭は顔を見合わせて、じっとしている。眼差しのみで無言の会話を交わしているようだった。珠生は何となくドキドキしながら、そのやりとりを見つめていた。
「珠生に助けが必要な時、君たちの力を貸して欲しい。珠生はかつて、神の眷属として名を馳せた大妖怪の末裔だ。君たちにとっても、添いやすい相手だろう? それに珠生は優しいしね」
そう言って彰が微笑むと、右水と左炎はまた顔を見合わせ、お互いにこくりこくりと頷き合った。そして彰に向き直り、静かながらも威厳のある声でこう言った。
『我らは、それで構わない』
『ここでただ徒らに時をやりすごすことにも、飽いていた』
『その人の子の気は心地がいいし』
『我らを恐れるふうでもないからな』
右水と左炎の言葉を聞き、珠生は何だかホッとした。この二頭に自分の存在を認めてもらえたことが嬉しくもあり、また、ふたりぼっちの心許なさを、少しでも和らげることができるかもしれないと感じたからだ。
しかし、珠生は右水と左炎に与えられるものを持っていない。どうしたらいいのだろうか。
すると彰はうーんと軽く呻いて空を見上げ、あっと何かひらめいた顔をした。
「キスなんてどうかな」
「へっ? どういうこと!?」
「正確に言うと、君の吐息だよ。珠生の気はそれだけで貴重なものだから、対価としては十分だろう」
「吐息……って、そんなんでいいの? 蜜雲は、佐為の髪の毛どれくらいで式になってくれたわけ?」
「えーと、だいたい三十センチくらいかな。昔は長かったから」
「へぇ、そんなに……。ん? じゃあずっと佐為が短髪だったのは……」
「そう。蜜雲にあげちゃったから、あれ以上伸びなかったんだよ。まぁ、切る手間が省けて楽だったけど」
「へぇ……新事実」
緊張感のないやり取りをする二人を、右水と左炎がおとなしく眺めている。
珠生はもう一度二頭の前に膝を折り、顔を覗き込みながらおずおずと尋ねた。
「……それで、いいのかな。俺の式になってくれる?」
『かまわない』
『確かに、そなたの気は美味であるから』
うんうんと頷きながらそんなことを言う二頭を見つめて、珠生はふわりと微笑んだ。手を伸ばして二頭の頭を柔らかく撫でる。
「交渉成立だね。じゃあ、僕が証人になるから、さっそく契約の儀を始めよう」
彰もまた安堵したような笑みを浮かべて、胸の前で印を結んだ。三種類の複雑な印を組んだ彰の指先に、ぽうと金色の光が灯る。
その指先で、彰は右水と左炎の額を突いた。そして珠生の額にも、同様のことをする。
とんと触れられた額に、金色の光が宿っている。ほんのりとしたあたたかみを感じた。
その不思議な現象に見ほれていると、彰がきりりと引き締まった声で、珠生の名を呼んだ。
「一ノ瀬佐為の守りにおいて、式の契り執行(とりおこな)う
沖野珠生。汝、鞍馬の神使、右水・左炎を式と迎え、その魂が尽きるまで、彼らの守護を賜らん
右水・左炎。汝ら、沖野珠生の式として、いついかなる時も是の呼び声に応え、彼(か)のもとに馳せ参じるべし 」
ぽう、ぽう……と額に灯った光が強まり、すうっと身体の中へと吸い込まれていく。自分のものではない誰かの拍動を感じ、珠生はそっと胸元を押さえた。
「珠生、式神に契りの証を」
「はい」
珠生はそっと跪き、まずは右水の鼻先に、そっと唇を触れた。右水は静かに珠生の吐息を受け入れ、じっとおとなしく座っている。
そして左炎にも同様のことをすると、二頭の虎の額に琥珀色の五芒星が浮かび上がり、数秒ののち、消えた。
「これで、君たちの中に新たな絆が作られた。珠生が彼らの名を呼べば、彼らはすぐに君の元にやって来る。どんな時でもね」
「……うん」
珠生は立ち上がり、ぐるぐると喉を鳴らす二頭の虎の頭を抱き寄せた。右水と左炎はすりすりと珠生に身体をすり寄せ、これまでよりも数段穏やかな眼差しで珠生を見上げている。
「よろしくね、二人とも」
そうして、孤独な神使たちは新たな絆を得、珠生は強力な式神を得たのであった。
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