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三十、知りたいこと
父の研究室を訪れるのは、いつぶりだろう。
初めてここを訪れた時、珠生はまだ千珠の記憶を取り戻してはいなかった。
暗い窓に写った自分自身の記憶に怯え果て、父親を頼ってここまで駆けてきたことを思い出す。
父・健介の優しい笑顔が恋しくて、怯えた心を温めて欲しくて。脇目も振らず、スニーカーで、この廊下を駆け抜けた。
京都に越してきたばかりで、何も頼るものがなかった十五歳の珠生。当時は父親だけが珠生を庇護するものであり、信じられる存在だった。
日が翳り、レトロな建物を照らす蛍光灯の明かりが、珠生の足元に影を落とす。コツコツと革靴の音を響かせながら、珠生はゆっくりと父の研究室へと向かっていた。
黒いコートを腕に引っ掛け、ゆっくりとドアの方へと進んでゆく。舜平には、少し後から来て欲しいと頼んでいた。これはもちろん珠生と舜平、そして健介の問題ではあるが、それ以前に、珠生はもっと、きちんと健介自身と向き合いたいと思っていたからだ。
温厚な父親が見せた激情。その意味を、ちゃんと知りたい。健介が何を思ってここまで生きてきたのか、健介の人生に、何があったのか……それを、きちんと父の口から聞きたかった。
親子としてだけではなく、人間として。健介のことをもっと知りたいと思った。
話してくれるとは限らない。また拒絶されるかもしれない……でも、ここで終わりにしたくはない。
舜平を愛したことも、健介を父と慕う気持ちも、珠生にとってはどちらも掛けがえのない絆である。
伝えられていないこともたくさんある。健介との生活に幸せを感じていること、父子のぬくもりに愛情を感じたこと。
一度は途絶えた親子の縁がふたたび結んだ喜び、ここまで築き上げてきたあたたかな関係を失いたくないということ――
――ちゃんと、伝えなきゃ。
ドアの前に立ち、意を決してノックをする。
すると、しばしの沈黙の後、「……どうぞ」という父の声が聞こえてきた。
ぐっとドアノブを掴んでドアを押しあけると、いつぞやのように、雑多に散らかったままの研究室が目の前に広がる。部屋の一番奥、窓を背にしたデスクに腰を下ろした健介の姿を見て、珠生の心臓はドクンと跳ねた。緊張からくる高揚のせいで、手足はひどく冷たい。だが、身体の芯には、決意とともに燃える熱がある。
ゆっくりと部屋の奥に進み、珠生は父親の前に立った。健介はそんな息子をじっと見つめたまま、淡く微笑み、立ち上がる。
「……なんとなく、珠生は今日ここへ来るような気がしてたんだ」
「そっか……そうだよね」
「ごめんね、ずっと連絡できなくて。……コーヒー飲むかい?」
「うん……ありがと」
「まぁ、座って」
健介は珠生にパイプ椅子を進めると、ちょっと困ったような笑みを浮かべて、部屋の隅にある給湯スペースに立った。そして珠生に背を向けたまま、「相田くんは?」と尋ねてきた。
「連絡するまで、こっちには来ないでくれって言ってある。俺……父さんと、きちんと話しがしたかったんだ」
「……そうか」
プラカップに注がれたコーヒーから、白い湯気が立ち上っている。ふうと軽く息を吹きかけ、コーヒーで唇を潤しつつ、珠生は窓辺に立つ白衣姿の健介を見つめた。ここにあるのはインスタントの粉と、小さなコーヒーフレッシュだけ。自宅で飲むものとは比べ物にならないほどシンプルな味がしたけれど、父親が作ってくれたコーヒーはいつもと変わらず、あたたかかった。
「実家、帰らなかったんだって? 千秋が文句言ってたよ」
会話の糸口を探るように、珠生はそう言葉をかけた。すると健介は静かな目線を珠生の方へ向け、ふっと微笑む。
「……そうだよね。帰るって言ってたのに、悪いことしちゃったなぁ」
「どこ……行ってたの?」
「……うん……」
おずおずとそう尋ねた珠生の問いに、健介は歯切れの悪い返事をしたあと、深い溜息をついた。珠生はややビクッとしたが、健介の横顔には拒絶の雰囲気を感じない。珠生は重ねて、こう言った。
「俺、父さんのことをもっと知りたい。あの日、喧嘩してからずっと、そんなことばっかり考えてた。俺は父さんのこと、何にも知らないんだなって」
「……珠生」
「いきなりあんな場面見せちゃったことも、死ぬほど後悔してるんだ。俺がもっと慎重になってれば、父さんだって舜平さんに、あんなこと言わずに済んだのにって。父さんと舜平さん、あんなに仲が良かったんだ。きっと……父さんもつらい思いをしたんじゃないかなって……」
痛ましげな表情でそう語る息子の姿を見つめる健介の口元に、ふっと柔らかな笑みが浮かんだ。珠生は言葉を切り、その微笑みの意味を窺うように健介を見上げた。
「……あぁ、恥ずかしいなぁ、あんなに動揺したところを、息子に見られちゃうんだから」
「そんなの、恥ずかしくなんてないよ。父さんは、そりゃ、父親だけど。それ以前にひとりの人間だもん」
「……そうだねぇ」
「びっくりはしたけど、だからこそ知りたくなったんだ。もう七年も一緒に暮らしてるのに、俺は父さんのこと、何も知らない」
「それもそうだね……。いや……珠生がそんなことを言い出すなんて、父さんびっくりだな。僕に似て、他人のことには関心を持たないタイプだったからなぁ、お前は」
「だって、他人じゃない! 父さんは俺の家族だ! 家族だからこそ、言いにくいことだっていっぱいあると思う。でも……俺は、これからも、これまでみたいに、父さんと、……父さんと……」
伝えたいことは山のようにあるのに、何から話せばいいのか分からなくなってしまう。珠生はもどかしげに、ぎゅっと唇を噛み締めた。やや潤んだ瞳で珠生を見ている健介のほうをじっと見つめ、珠生は、感情の高ぶりを抑えつつ、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「俺……父さんが笑ってるとホッとするんだ。外でどんなことがあったって、父さんがそこにいてくれると、現実に戻ってこれたって感じがして、いつも、安心してた。……だから」
「……珠生」
「あの時は、俺たちの関係を許してくれって、一方的に求めるばかりだった。でも、父さんがあんな反応するなんてよっぽどのことがあったに決まってる。それをちゃんと知らなきゃ、このまま前に進んじゃいけないような気がするんだ。だから、父さんの話を聞きたくて……」
そう語った珠生のことを、健介がじっと見つめている。そしてゆるゆると首を振り、どことなく疲れた声で、こう言った。
「もし僕が話したくないと言ったら、どうするつもりなんだい?」
「えっ? ……そ、それは……どうしただろ……」
突然の問いかけに、珠生は思わず息を飲んだ。
確かに、健介の話を聞かせて欲しいという願望もまた、珠生の一方的な願いと捉えられなくもない。なんだか全身がすうっと冷えていくような感覚を味わいつつも、珠生はここでどう答えるべきかを、一生懸命考えた。
「そ、そりゃ無理強いはしたくないから、一旦は退いてたと思うけど、でも、俺……このまま父さんと縁が切れちゃうなんて……そんなの、いやだ! だから、何度でも説得に……!」
「あ……ごめん。意地悪な質問をしちゃって、ごめんね」
「え……?」
健介は困ったような笑みを浮かべつつ、両手で珠生を宥めるようなジェスチャーをした。珠生は目を瞬いて、健介のことを見つめることしかできないでいた。すると健介は椅子の背もたれにぐっと凭れて、顎を仰く。そして、こんなことを言った。
「話すべきか、話さないでおくべきか、実はちょっと迷ってたんだ。……でも、やっぱり話すべきなのかもね」
「……ほ、ほんと?」
「大人げない聴き方をしたな、ごめんね」
「……う、ううん」
いつもの穏やかな笑みを浮かべ、健介は机の上に両手を置いた。そして自分の指先を見つめつつ、少し遠い目をしながら、こう言った。
「あの時……珠生も相田くんも本気なんだってことは、よく分かった。二人の表情を見ていれば、自然とね」
「……うん」
「珠生の必死な顔を見ていたら、なんだか急に、昔の自分を想い出しちゃったんだよね。だから……感情をコントロールできなくなっちゃったのかなぁ」
「昔の自分……?」
「うん。醜い過去を思い出してしまって、なんだか……急に……苦しくなってね」
「……醜い?」
健介は自分の椅子に腰を下ろし、また一つ溜息をついた。こんなにも物憂げな表情を浮かべる健介を、珠生は生まれて始めて見た。
「何があったの。父さん」
「……誰にも、話したことがなかったんだ。それを、息子に話すことになるなんてなぁ……」
そう言って、健介は寂しげに微笑む。その笑みを見ているだけで、珠生の胸はぎゅっと詰まった。手にしたコーヒーのカップを握りしめ、珠生はしっかりと健介を見つめた。
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