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三十一、父の体温

「……僕も昔、男性を愛したことがあったんだ」  健介のその台詞に、珠生は小さくうなずいた。それは、健介の反応を見てからずっと、かすかに抱いていた予想のひとつだったからだ。  過去に何らかの、男同士でのやりとりがあり、それで健介が嫌悪感を抱く何かが起こった……そう、考えていたのである。 「……そうなんだ。どんな人……?」 「驚かないんだね」 「うん……なんとなく、そういうことがあったのかなって、思ってたから」 「そっか。勘がいいなぁ、珠生は」  そう言って、健介は笑った。それは、やや乾いた笑い声だった。 「その人は同じ大学の同級生で、とても有能な人だったよ。知り合ったのは、初めてのゼミの時だった。彼は岐阜県出身で、一人暮らしをしていた。優しげな高山弁を話す割に、言っていることは結構辛辣で、議論の時も、鋭い角度から反論をぶつけて来る。そういう人でね」  過去を話す健介の瞳には、今は郷愁のようなものが漂っているように見える。口元にはかすかな笑みが浮かび、口調はいたって穏やかだ。珠生はふと、つい最近にもこういう表情を見たような気がして、その既視感の理由を考えた。  ――そうだ、藤原さんだ。駒形司のことを話す時の藤原さんの表情と、似てるんだ。  今話されている相手の存在は、健介に嫌悪感を植え付けた相手に違いない。だがきっと、二人の間には悲しい出来事ばかりがあったわけではないのだろう。楽しい時間もあっただろうし、大切な思い出もあったのかもしれない。  健介が大学生だった頃といえば、今からおおよそ三十年前の出来事になる。三十年間、胸に抱え続けた健介の想い。それをしかと受け止めようと、珠生はぐっと背筋を伸ばす。 「僕は彼のことを一目も二目も置いていた。彼もまた、僕のことをライバルだと言ってくれていた。僕も、今よりはもうちょっと血気盛んなところがあったから、彼と意見をぶつけ合うのが、すごく楽しかった。友人としては、当然のように好きだったよ。彼の知的なところにも、皮肉屋なところにも、怒らせると饒舌になって、むきになるところも……全部」  夕日を背にしているせいで、健介の表情は影になり、見えづらい。そのせいだろうか。今の父の容貌は、いつにも増して若く見えるような気がする。まるで、学生の頃に立ち戻っているかのように。 「顔立ちはさほど華やかというわけではなかったけど、妙な色気のある男で。最初は、方言のせいでそう見えるだけなのかなと思ってたんだけど。だんだん……僕は彼から、目が離せなくなっていた」  健介の声が、だんだん重くなり始める。苦い思いを噛み殺すように唇を引き締めて、健介はさらに続けた。 「彼が他の学生と並んで歩いているのを見ると、胸がざわついて、苦しくなった。彼の周りにはいつもたくさんの人がいて、話題の中心で……そういうところもすごく、眩しくて。いつだって僕は彼の姿を目で追っていた。  その感情が、どういうものなのかってことを、当時の僕はよく分かっていなかった。あまり女性と言葉を交わしたこともなかったから。……本当に、愚かしいほどにその感情に振り回された。ただ、彼の視線を独り占めしたい、彼に微笑みかけてもらいたい、そんなことを理由に勉強して勉強して……いつしか僕は、彼を抜いて主席に立っていた」  コーヒーを口にする健介の動きに倣い、珠生もカップに口をつけた。コーヒーはとっくに冷たくなっていて、苦味だけが口の中に広がっていく。 「大学二年生に進級する少し前、僕は彼に、二人で飲まないかと誘われた。議論したいことが山のようにあるから、と。僕は内心、舞い上がった。彼と二人きりになれることが嬉しかった。認められたんだ、と思ったんだ。勉学の上ではライバルだと言ってはくれていたけど、彼は、遊び慣れていない僕のことを、つまらないやつだと思っているようだったから、すごく嬉しかったんだ」  そこで健介は立ち上がり、珠生に背向けて窓の外を眺めた。外はすっかり夜色に染まり、研究室の風景が窓に映っている。健介の表情は窺い知れないが、ほっそりとした背中は、どことなく強張っているように感じた。 「彼の家で飲みながら、いろんな話をした。……楽しかった、すごく。でもだんだん……彼は僕に甘えるような仕草を見せるようになっていた。妖艶な目つきで僕を見つめて、身体を密着させて、『君は女を抱いたことはあるのか』『僕も、女性とそういうことをしたことはない』『ちょっと、真似事をしてみないか』……耳元でそんなことを囁かれながら、肌に触れられて……僕は、自分を抑えることができなくなった」  健介は珠生に背中を向けたまま、数秒の間沈黙していた。珠生もまた何も言えず、ただ話の続きを待つことしかできない。  すると健介は、ふうと息を吐き、胸の内に滞ったものを押し出すように話し始めた。 「僕は彼を抱いた。何度もなんども。……そして溺れたんだ。彼はものすごく巧みで、色っぽくて……『ずっと好きだった』『愛している』となんども言われながら、きつく抱きしめられて。うぶだった僕は、逆らえなかった。今思うと、彼はものすごく、男の扱いに慣れていたんだろうと思う。言葉で煽られて、白い肌を見せつけられて……僕はおかしくなった。彼の言いなりになって、欲しがられれば欲しがられるだけ、彼を抱いた。大事な大学の授業をサボって、アルバイトをクビになって……成績もガタ落ちで、周りの友人たちに心配された」  珠生は息を飲んだ。硬い口調で語られる父の経験が、妙に生々しく感じられ、珠生の顔まで強張ってきてしまう。 「でも、彼は天才肌で、僕とあんなことをしているというのに、成績はこれまで通りのトップクラスだった。頭のネジが飛んでいた僕は、彼のそういうずば抜けたところにも魅力を感じていて、それを悔しいと思う余裕さえ持ち合わせていなかった。……でもね、見てしまったんだよ。……その年の夏頃かな、たまたま友人と入った飲み屋で、彼が、他の男と親しげに寄り添いながら酒を飲んでるところを」 「えっ……」  思わず声が漏れてしまう。しかし健介は、珠生の声など聞こえていないかのように、無反応だ。ただ過去に沈むように、淡々と話を続けた。 「気が狂うかと思った。嫉妬と、怒りと、絶望で、一瞬我を忘れていた。僕はすぐにその場に駆け寄って、彼の肩を抱いていた男を引き剥がしたんだ。でも、相手の男は僕を見て鼻で嗤った。『ああ、こいつが例の秀才くんね』と。……何を言われているのか分からなくて、僕はただ呆然とするしかなかったよ。すると彼はこう言った。『そうだよ、かわいいだろ』って」 「そんな……なんだよ、それ」 「そう……僕はただ遊ばれていただけ。聞けば単に、彼は僕が目障りだっただけらしい。彼はね、何事においても一番にならないと気が済まないたちなんだそうだ。だから僕を堕落させてやろうって……退屈しのぎにはいい相手だった、って、楽しげに笑いながら、彼はそう言い捨てたんだ」 「……っ……」  その時の健介の気持ちを推し量ろうと試みたけれど、珠生にはうまくそれができなかった。感情移入をするには、父親の存在はあまりに近すぎた。しかし、健介を狂わせるだけ狂わせておいて残酷なことを言い放ったその男には、激しい怒りを感じずにはいられない。  言葉も出ないまま珠生がぐっと拳を握りしめていると、健介は力なく溜息をついた。そして、ぽつりと、小さな声でこう呟く。 「僕はあんな感情、知りたくなかった。……自分の中に、あんなにも醜い感情があったなんて、気づきたくもなかった」 「……父さん」 「愛してると言ったのに、何度も何度も。僕なしでは生きていけないと、ずっとそばにいてほしいと。……その言葉は、全部嘘だった。全部全部、僕を貶めるための軽口だった。……僕は愚かで、浅はかで、本当にくだらない人間だと、自分が情けなくて、情けなくて……もうこのまま大学を去ろうかとも思っていたんだ。でも……」  ゆっくりとこちらを振り返った健介は、窓を背にして珠生のほうへと向き直った。そして目線を落としたまま、続きを語る。 「しかしのあとすぐ、彼は突然退学して、故郷へ帰ってしまった。なんでも彼の実家は、高山市のほうで古くから続く旧家だそうでね、お父上が急逝されてしまったので、すぐに家を継がなくてはならなくなったのだと、噂で聞いた。……それきり、会ってない」 「……そう、なんだ」 「その二年後……大学四年生の頃に、お前の母さんと知り合った。彼女は元気で、明るくて、強引なところはあるけど、すごく可愛らしい人だった。……あぁ、すごく僕のことが好きなんだなぁってことがね、つんけんしててもはっきりと伝わって来るんだ。そういうわかりやすい人で、彼女といると安心できた」  珠生の母・すみれのことを語り始めると、蒼白だった健介の顔に、少し生気が戻って来たように見えた。珠生は少しホッとして、初めて聞く両親の馴れ初めについて耳を傾ける。 「しばらくして、僕は彼女と交際を始めた。気に入らないこと、気に入ったことにが分かりやすくて、なんでも言葉で伝えなければ気が済まないところとか、美人で聡明なところとか、実はけっこう優しいところを、すごく好きになっていたからだ。人間不信に陥っていた僕にとって、母さんの存在はすごく救いだったんだ。卒業してすぐ結婚して、喧嘩をしつつも一緒に暮らして、毎日がすごく賑やかで慌ただしくて、楽しかったんだよ」  健介は目線を上げ、微笑みを浮かべた。その笑顔は、紛れもなく、珠生の父である健介の微笑みだった。  その笑顔を見て、ようやく珠生はほっとした。安堵のあまり、涙が溢れそうになる。鼻の奥がつんと痛むが、珠生はじっと健介を見つめて、小さく何度か頷いた。 「お互い、どうしても曲げられないところがぶつかって……結局、離婚という形になってしまったけど。あれは僕が全て悪かったんだ。お前たちには、本当にすまないことをしたと思ってる。……今更だけど、本当に、ごめん」 「……そ、んなの……いいよ。父さんは、こっちに来た俺を、ちゃんと受け入れて育ててくれた」  つい涙声になってしまう珠生を、健介が愛おしげに見つめている。父の愛情が伝わってくる。珠生はぎゅっと唇を噛み締め、涙をこらえた。 「……嬉しかったんだよ。珠生が僕のところに来たいと言ってくれた時、本当に本当に、嬉しかった。僕みたいな父親、絶対に恨まれて、嫌われていると思ってたしさ。……珠生が僕のところに来てくれて、千秋がこっちに遊びに来て、すみれまでこっちに来たことがあったよね。……もう諦めていた家族ってやつを、お前がもう一度引き寄せてくれた。すごく……嬉しかった。ありがとう、珠生」 「う……ううん……そんなの、俺は、何も……」 「しかももう一人、また家族が増えるっていうんだ。こんな素晴らしいこと、他にはないよ」 「……え?」  健介の言葉に、珠生は目を見開いた。健介は変わらぬ笑みを浮かべたまま、ひとつ、頷いた。 「しかも相手は、僕の可愛い一番弟子だ。……相田くんは誠実で、優しくて、とてもいい青年だ。それは僕もよく知ってる」 「……父さん」 「珠生は、僕の自慢の息子だ。可愛くて、賢くて、冷静で、優しい……こんなにも素晴らしい子なんだ、相田くんが惹かれるのもよく分かる。相田くんと珠生なら、この先どんなことがあったとしても、二人でちゃんと歩いていける」 「……じゃ、じゃあ……俺たちのこと、許してくれるの……?」  震える声でそう尋ねてみれば、健介は満面の笑を珠生に見せ、深く、しっかりと頷いた。  父からの許しを得て、とうとう珠生の両目からは涙が溢れる。頬を伝う涙を拭うことも忘れ、珠生は椅子から立ち上がり、健介の元へと歩み寄る。そして、ぎゅっと父の身体にすがりついた。 「父さん、ありがと……。ありがと……っ」 「ううん。……ごめんね、不安にさせて」 「とうさん……っう、うっ……父さんっ……おれ……っ」 「ははっ、こんなに泣いてる珠生を見るの、初めてかもしれないなぁ」    こうして父親に飛びつくのは、生まれて初めての経験かもしれない。父の身体はあたたかく、珠生の衣服と同じ匂いがする。柔らかく抱き返され、頭をゆっくりと撫でられて、珠生は嗚咽をこらえることもせず、子どものように泣いていた。  父の白衣を濡らす涙は、とてもとても、熱かった。

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