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三十二、食事を共に
舜平は何度も何度も、手に持ったスマートフォンを確認していた。京都大学の中庭で、珠生からの連絡を待っているのである。
珠生が心配だった。本当なら、すぐにでもあの研究室へ飛び込んで行きたい気分である。だが珠生から『俺が話すから、舜平さんはここで待ってて』と言われている。父と子の話し合いを邪魔してはいけないような気がして、舜平はじっと寒空の下ベンチに座って、珠生からの連絡を待っているのである。
あの日以来、健介とはまるで連絡が取れていないため、健介がどういう心持ちでいるのかということも未知数である。いったい、今二人はどういう話し合いをしているのだろう。その内容は、想像さえできなかった。
「……はぁ……まだかな。大丈夫なんやろか……」
溜息を吐くと、白い吐息が空へと立ち上る。舜平は手にした缶コーヒーをぎゅっと握りしめ、もう一度スマートフォンの画面を見下ろした。
「舜平さん」
その時、少し離れた場所から、珠生の声がした。弾かれたように顔を上げると、珠生と健介が並んでこちらに歩いて来る姿が見えた。二人の表情は穏やかで、健介の口元には微かな笑みさえ見て取れた。話し合いはいい方向に進んだと言うことなのだろうか……と考えながら、舜平は即座に立ち上がった。
「珠生。……先生」
「相田くん、寒い中待たせてしまったみたいで、悪かったね」
「えっ……いえ、あの……」
これまでと変わらぬ穏やかな口調で、健介が舜平に笑いかけた。健介のその笑みに、舜平は心の底から安堵した。クリスマスの日に見た険しい表情が、ずっとまぶたにこびりついていた。あの時感じた冷え冷えとした気持ちがようやくほどけ、危うくその場にへたり込みそうになってしまう。
舜平は己を叱咤して、背筋を伸ばし、礼儀正しく一礼した。
「先生。……これまでずっと、すみませんでした」
「いや……僕のほうこそ、ごめんね。色々と、整理できてない気持ちがあって……。でも君たちのおかげで、過去にきちんと向き合えた気がするよ」
「……過去、ですか?」
健介はそう言って、珠生の方を見下ろした。珠生もまた健介を見上げて、唇に小さく笑みを浮かべた。目線だけで、親子にしか分からないやり取りをしている二人の姿を見ていると、なんだか涙が出てきそうになってしまう。やはり珠生と健介には、たおやかな関係がよく似合う。あらためて、ホッとした。
「ま、詳しい話は珠生に聞いてくれ。お腹空いたね、何か食べに行こうか」
「あ……はい! 是非!」
「どこにしようか。いつもの定食屋じゃ味気ないかなぁ? 一杯飲みたい気分なんだよね」
「いいんちゃいますか。あそこ美味いし、酒も飲めるし」
「そうだね。じゃ、行こっか」
健介はくいっと前方を指差し、通い慣れた定食屋へと歩き始めた。
珠生を挟んで道を歩きながら、舜平はそっと、珠生の横顔を見つめた。すると珠生は舜平を見上げ、小さく頷く。
そんな珠生の目元はほんのりと赤く、泣いた跡が見て取れた。
その涙の意味について色々と考えを巡らせながら、三人で肩を並べて、冬の夜道をゆっくりと歩く。
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「それで……いつから二人は、交際してたの?」
グラスに注がれたビールを一気飲みした後、健介がおずおずと舜平にそう尋ねた。舜平は口に入れたばかりの熱々エビフライを思わずそのまま飲み下してしまい、熱さと苦しさにげほげほと咳き込む。すると隣にいる珠生が、「何やってんの……」と水を差し出した。
「……すまん、ありがとう」
「ちゃんと付き合い出したのは、高二くらいだったかな。ずっと、いい人だなとは思ってたけど」
と、珠生がさらりとそんなことを答えている。
「えっ!? そうなんだ……じゃあかれこれ……えっ、七年も付き合ってるのか!?」
「うん……ごめん、黙ってて」
「いや……それはいいんだけど。すごいな、七年も……」
と、健介が溜息をつきながら呟く。
出会って一ヶ月と経たないうちに性的な関係になっていたとは、口が裂けても言えるわけがなく、舜平は曖昧に笑うしかない。治療のためとはいえ、比叡山で、いたいけな高校一年生の珠生を抱いた。あの日のことを何となく思い出し、舜平はごほんと咳払いをする。
「あの……ほんまに、ありがとうございます。俺らのこと……」
「ううん、そりゃ最初はびっくりしたけどね。相田くんなら、ちゃんと珠生のことを支えてくれそうだなと思って」
「は、はい!! もちろんです!!」
「ははっ、まぁ飲んで。僕のせいで、君にも気を揉ませたみたいだし」
「いえそんな! ……おっと」
なみなみとビールを注がれ、グラスから溢れそうになっている。舜平は慌ててそれを唇で受け、喉を鳴らした。
「ところで、父さんは正月休みの間、どこ行ってたの?」
と、珠生が不意にそんなことを尋ねた。健介は苦笑しつつ、息子の方を見つめている。
「ちょっと、岐阜の方へ……ね」
「えっ!? そうなの? まさか……会ったり、とか」
「いや……名古屋で新幹線を降りて、特急に乗り換えたんだ。その車内でふと、目が覚めてね。とりあえず高山まで行って、ちょっと街をぶらついて、そのまま帰って来たんだよ」
「……そうなんだ」
穏やかなやりとりをする健介と珠生を見ていると、ようやく、本当に健介の許しを得ることができたのだと実感が湧いて来た。舜平は人知れず目頭を熱くしながら、学生時代から食べ慣れた、小ぶりなエビフライを一口食べる。
「しかしなぁ……そうか……息子と愛弟子がねぇ……なんだか不思議な縁だなぁ」
と、珠生との話が一段落したところで、健介は舜平をしげしげと見つめながら、ちびりとビールを口にした。そろそろ焼酎などを飲みたそうな雰囲気だなと舜平は思ったが、あいにくここはビールと酎ハイくらいしか置いていない店である。
「はい……すみません」
「いや、もう謝らなくていいよ。……そういえば、僕は事あるごとに珠生の世話を君に頼んでいたもんなぁ。あ、そうだ。珠生がこっちに来たばかりの頃、寂しくなって研究室に駆け込んで来た珠生のこと、家まで送ってって頼んだなぁ……」
「あ、あー……そういうこともありましたね」
「あっ……それがきっかけ? あっ、そうか、僕が色々と君たちの間を取り持つようなことをしていたってことなのか……?」
「え、ええ……まぁ。あははは〜」
過去に思いを巡らせ始めた健介を前に、舜平はただただ曖昧に笑うことしかできない。まさか、珠生とは前世からの付き合いで、研究室で出会う前に運命の再会を果たしていた……などと、説明することなどできるわけがないのだから。
「なるほどなぁ……なるほど。……そうだね、風邪のときにお世話頼んだり、留守番頼んだり、酔いつぶれた僕を家まで送ってくれたり、研究の手伝いたくさんしてくれたり……相田くんには親子揃って世話になりっぱなしだなぁ。……なるほどなぁ……」
疲れているのか、今日の健介は酔うのが早い。舜平は店員に熱い茶を頼んだ。そしてテーブルに肘をついて両頬を支え、ぽわぽわとひとり語りをしている健介に茶を差し出す。
「先生、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫大丈夫。大丈夫だよ……そうかぁ……七年か。じゃあいずれは……珠生と相田くんは、二人で暮らしたりとか……」
「あっ……はい。できれば、そうしたいと思ってるんですけど」
「だよね……。そうか、珠生もついに、僕のところから巣立っていく日が来るってことなんだね……ぐす……」
「せ、先生!? 泣いてはるんですか!?」
「いや……めでたいことだよ。こうして人生の伴侶を見つけてさ……自分たちの人生をさ、歩んでいくんだもん。分かってるけど……」
「……父さん、泣かないでよ」
と、黙って舜平と健介のやり取りを聞いていた珠生が、健介の隣の席へ移動した。そして顔を両手で覆ってしくしく泣き始めてしまった父の背中を、さすさすとさすり始める。
「俺たち、職場が京都御所らへんだろ? だからなるべくその近くで探そうと思ってるから、遠くに行ったりしないって」
「……うん、うん、でも……さみしいなぁ……」
「家賃とか駐車場のことを考えたら、北区らへんがいいかなと思ってるし、今の家からも近いから。会おうと思えばすぐに会えるって」
「うん……そっか。いや、そんな気を遣ってもらわなくてもいいだ……!! 僕は、一度はお前たちを捨てて出て行ったんだから、そんな父親なんて、」
「はいはいはい、その話はもういいって」
明らかに情緒不安定になっている健介に苦笑しつつ、舜平はややぬるくなったビールを飲み干した。今日はそろそろお開きにした方がよさそうだ。
しかしふと、健介は何かに気づいたように目を瞬き、舜平の方をまっすぐに見た。
「俺たち、職場……? 前からちょっと気になってたんだけど、相田くん、ライラスのほうはどうなったの? 製薬会社の」
「あ、あ……それも、早くお伝えしなと思ってたんですけど」
「ひょっとして……君も宮内庁に……? あんなに頑張って就活してたのに……?!」
「あ、はい……。ほんまにすみません……!! これまでの研究成果を生かせる職場やって、先生がイチオシしてくれとった会社なのに……すみません!!」
これもまたずっと舜平の心に引っかかっていた問題だ。このタイミングで全てを洗いざらい話し切り、ひれ伏して謝罪しよう……と、舜平はその場で深々と頭を下げ、「すみませんでした」ともう一度訴えた。
健介は眉間にしわを寄せて目を瞑り、腕を組んで「うーん」と唸っている。流石の健介も、仕事に関しては厳しいことを言うかもしれないと、舜平は身構えた。
「……ていうかさぁ、相田くんさぁ」
「はい……」
「転職しちゃうほど好きなの? 珠生のこと」
「……えっ?」
思いもよらぬ方向性の質問が投げかけられたことで、舜平は一瞬きょとんとしてしまった。しかし健介の眼差しは至極真剣である。なので舜平は、正直に答えることにした。
「はい……好きです」
「仕事中も離れていられないほど好きなの? 就活も大変だったと思うけど、国家公務員試験も相当大変だろ?」
「はい……大変でした」
「そこまでして、珠生のそばにいたいの? しかも一緒に暮らすんでしょ? そんなにうちの子といたいわけ?」
「……はい、二十四時間でも一緒にいたいです」
「……ふうん……」
舜平が大真面目な顔でそう言うと、大真面目な顔をした健介の横で、珠生が気まずげに頬を赤らめた。照れているのか怒っているのか、複雑な表情をしている珠生だが、ちらりとこちらを見た胡桃色の瞳は、きらきらと嬉しそうに潤んでいる。
「ま、そんなに好きならしょうがないか〜。うん、一度きりの人生だもんな。悔いのないように生きたほうがいい! ……ってこれは珠生に言われたことなんだけど〜、あはは」
と、健介はへらっと笑ってそう言った。やや呂律があやしくなってきている。
「あっ……ありがとうございます」
「そりゃ珠生は可愛いし、賢いし、料理はうまいし可愛いから、相田くんがメロメロになるのもしょうがないか〜。そんなに珠生のことが好きなら、僕も安心だし〜」
「も、もちろんです。一生、絶対大事にします!」
「一生……か……。僕は妻にもそんなこと言ったことないのに、相田くんは立派だなぁ……ぐす……」
「もう、なんで泣くの」
笑っていたかと思ったらまためそめそ泣き始めた健介に、珠生も呆れ顔である。しかし眼差しはとても優しく、労わりに満ちている。見ているだけでほっこりする眺めだ。
「よかったね、珠生……。誠実なパートナーができて」
「うん……ありがとう」
「よかったよかった。……はぁ……なんだか、ほっとしたなぁ……」
健介はふわりと微笑むと、珠生の頭をわしわしと撫でまわし、そのままバタンとテーブルの上に突っ伏してしまった。そしてその直後、ぐうぐうと寝息を立て始めている。
そんな父親の姿に、珠生がなにか苦言を呈するかと思ったけれど、珠生は自分のコートをハンガーから外し、そっと父の背中に羽織らせている。そして小さくんため息をつきつつ、舜平を見て微笑んだ。
「……父さん、ずっと眠れてなかったみたいなんだ。重いけど、連れて帰んなきゃ」
「せやな。……めっちゃ酔うてはったな」
「気が抜けたんだろうね。……はぁ、俺もそうだけど」
「うん……はぁ……よかった。ほんまに」
「うん」
舜平が微笑むと、珠生は照れたように頬を赤らめる。こんなふうに、心の底から気の抜けた笑顔を見るのは、なんだかとても久しぶりだ。いつになく無防備で幼い珠生の表情に、どきどきと胸が高鳴ってしまう。とにかくかわいい。抱きしめたい。
しかし、今はそういう場面ではないと自分に言い聞かせ、舜平は生真面目な声でこう言った。
「これで俺らの関係も、また一歩前に進めそうやな」
「うん。……家探しもできるし」
「せやな。……はぁ、ほんまによかった。先生と話してくれて、ありがとうな、珠生」
「ううん。よかったよ、父さんのことも、いろいろ知れたし」
「そっか」
グラスに残っていたビールを飲み干し、舜平は珠生のグラスにビールを注いだ。そして手酌で自分のグラスにも酒を満たし、目線の高さにグラスを掲げる。
「おつかれさん」
「ありがとう。なんかまたお腹空いてきたよ。なんか頼んでもいい?」
「おう、ええよ。先生、このままで平気やろか」
「大丈夫大丈夫。すぐ食べ終わるからさ」
珠生は軽い口調でそう言って、アルバイトの若い男性店員にだし巻き卵とお茶漬けを頼んでいる。アルバイトの男が心底嬉しそうに注文に応じている姿を眺めつつ、舜平はグラスのビールを飲み干した。
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