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終話 願い
「……っ……ぐ……う」
暗く、冷えた部屋の中、司の呻きだけが響いている。妖に捧げ、蝕まれ、そうしてようやく生きながらえている肉体が、苦悶に悲鳴をあげている。
――少し、力を使い過ぎたか……。
司は手をついて、倒れ伏していた身体をゆっくりと床から引き剥がす。
ぽた、ぽたと滴る冷や汗と、抗いがたい痛み。吸引した妖たちが、肉体の中で暴れまわっている。再生した肉体や霊力を餌に、妖たちが暴れているのだ。だが、術によって妖らは、司の肉体からは逃れられない。いずれは司の中で淘汰され、吸収され、その肉体を保つ一部となる。
「ふ……っ……ふふ……」
――僕はもう、人でもなく、妖でもなく、屍人でもない……。……無様に生きながらえている僕を見て、藤原くんは何を思っただろう……。
自虐の笑みが溢れれば、堰を切ったように笑いがこみ上げてくる。司はしばらくの間床に転がって腹を押さえながら、涙を流しながら狂ったように笑った。そして、はたと、おし黙る。
人の気配がする。
司は頬を濡らしていた涙を拭い、痛みをこらえて上半身を起こした。
「どこかへ消えたと聞いとったが……戻ってたんか、司」
ぱち、と小さな音がして、天井からぶら下がった裸電球に明かりが灯る。薄ぼんやりとした光の中に浮かび上がるそこは、四枚の畳が敷かれただけの粗末な部屋だ。はめ殺しになった小さな窓に、小さな月が覗いている。
ぬっと姿を現したのは、仕立てのいい和服姿を身に纏う、体格のいい男だ。濃灰色の着物に羽織を重ね、懐手をして司を見下ろしている。やや堀の深い顔立ちに、精力みなぎる鋭い目つき。たっぷりとした黒髪は少し長めで、顔の周りでゆるくウエーブしている。
男は冷え冷えとした眼差しを司に投げ横しながら、吐き捨てるようにこう言った。
「ずいぶんと苦しそうやな。君の悲願とやらは、達成出来たんか?」
「……いえ」
「やれやれ……気ぃの長い話や。いくら祖父の遺言とはいえ、君のような死に損ないに無駄金を使わなかあかん、こっちの身にもなってみろ」
「申し訳ありません……」
司が絞り出すようにそう言うと、男は草履を脱いで畳の上に上がり込んできた。そして立ち上がることもままならない司の前に片膝をつくと、ごつごつとした無骨な手で、白い頬ぐいと掴んで上を向かせた。
「……なんやその目つきは。誰のおかげで、君は今、ここでこうして生き伸びてんねや」
「……憲広 さんの、おかげです……」
「憲広さん、ちゃうやろ。憲広様と呼びなさいと言うたはずや。君だけでなく、俺は本家の大奥様の世話まで焼いてんねんぞ? やれやれ……肉体をほとんど失ったせいで、知性までどこかへ落として来てしまったのかな?」
「……ごめんなさい……」
「ふん、何が霊能力や。そんなもんのせいで、俺は分家に追いやられ、貴様のような化け物が駒形本家を名乗りやがる。……しかも君のせいで本家は没落、俺が戻る場所はなくなったんやぞ? どう落とし前をつけるつもりや」
「……すみませんでした」
「その上二十年も、こんな面倒ごとを背負わされる羽目になろうとはな!」
憲広が、司を畳の上へ突き飛ばす。その衝撃で、傷ついた身体が悲鳴をあげ、司は思わず咳き込んでしまった。その度に吐き出される鮮血を見て、憲広は忌々しげに舌打ちをした。
「また部屋を汚しよって……。まったく、何から何まで忌々しい」
「っ……うっぐ、やめて、やめてください……っ……」
傷んだ身体を踏みつけられ、上からぐりぐりと躪られる。ただでさえ傷つき、痛みに染まっている肉体を蹂躙されて、司もたまらず悲鳴を上げた。そのか細い声を聞き、憲広はさらに興奮の色を露わにした。
「おいおいどないしてん、強いんやろ? 貴様は。ほら、お得意の霊能力で、憎たらしい俺を殺せばええやないか。ん? ほら、どうや!!」
「あっ……ぐぅっ……ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「できるわけない、か。貴様の大事な大事な母親の命を預かってんのは、この俺やもんな!! なぁ!! そうやろ!?」
「あぐっ……ぁっ……!」
憲広は気が狂ったように、司に暴行を加えている。きちんと整えられていた髪の毛はいつしか乱れ、残虐さの滲む禍々しい笑みを浮かべながら、憲広は司の腹、背中、首、顔……ありとあらゆるところを蹴り飛ばし、踏み躙り、痛めつけた。司はただただその痛みに耐え忍ぶしか術がない。目を薄く開くと、ささくれ立った畳のけばが間近にある。
「ふふっ……因果なもんやなぁ? かつては本家の権力を背に俺を上から見下していたくせに、今はこうして、俺に飼われな生きられへん身や。はははっ、ざまぁないわ!! あっはははは!!」
「っ……っう……っ」
「しかもこんな、薄汚いガキの姿に戻るなんてなぁ……ほとほと化け物や、お前ら『本家』の人間たちは!!」
「あうっ……!!」
ガッ、と頬を爪先で蹴り上げられ、司の身体がわずかに浮いた。そのまま上向きにされ、足蹴にされながら見上げる憲広の目には狂気が見える。
本来ならば、この男が駒形家の長子として家を継ぐはずだった。
だが、憲広には霊力が備わっていなかったのだ。
そのため、分家に身を置いていた司が駒形家の嫡子となった。司は幼い頃から豊富な霊力を持ち、妖や陰陽術に関心が強く、知識欲も旺盛だったからであろう。司がまだ、十歳の頃のことだった。
その当時、憲広は十二歳。唐突に現れた司に、いきなり居場所を奪われた。
憲広は分家に追いやられ、そこでごくごく普通の人生を歩むこととなったのだ。分家とはいえ、旧家である駒形家には豊富な財力がある。憲広は何不自由なく育てられたはずだった。だが、祖父母、実の両親をはじめ、周りの者があまりにも大切に司を育てていたため、嫉妬や羨望、または深い憎しみが、幼心に鬱屈した傷を残したのであろう。
司は暴行されながらも、冷えた頭で憲広を見上げていた。
その目つきが気に食わなかったのだろう。憲広はひときわ憎々しげに唇を歪め、ぐいと司の襟首を掴み上げ、拳でその頰を殴り飛ばした。
「ぅっ……!!」
「はぁ……はぁ……その目、その目をやめぇ……!! くそ……おぞましい男や……!!」
「……げほっ……すみませ……」
「やれやれ……」
男は気を取り直したように髪をかきあげ、ゆっくりと立ち上がった。そしてふと、激昂したせいでいきり勃っている己の分身に気づいたらしい。にたりと卑しい笑みを唇に浮かべた。
「久々に興奮してしまったせいで、ほら、このざまや。こんなんで家族んとこに戻ったら、一体何があったんやと疑われてしまうわ」
「……」
「ほら、しゃぶれ。以前のように、しゃぶって俺を宥めてみろ」
「……」
「最近は忙しくて、ご無沙汰だったしなぁ。貴様も栄養が欲しいやう? ほら、早くしなさい」
「……はい」
こうして激昂され、暴行され、その後処理をさせられることも、一度や二度ではなかった。ここ最近は憲広もそういった遊びに飽きていたようだが、久々に戦闘の場に出、傷つき青い顔をして苦悶する司に新鮮味を感じたのか、憲広のそれはいつにも増して隆々とそそり立っていた。
のろのろと膝立ちになった司の前で、憲広が着物の前をはだける。黒々と屹立するそれが、血の気の失せた司の唇に触れようとしたその時、がたん、と立て付けの悪い戸が押し開かれる音が聞こえた。
「誰か、そこにいんの?」
聞き覚えのない若い声に、憲広は明らかに動揺を見せている。
ここは、宝石商を営む駒形憲広の所有する離れの一室。仕事関係の荷を保管する倉庫の奥にある、小さな部屋だ。普段ここには、憲広と、司の世話をするために雇われた、枯れ枝のように痩せた老人しか出入りしないはずなのだ。
憲広はせかせかと居住まいを正し、司の前から早々にいなくなった。古い木扉の向こうから聞こえて来る声に意識を向けていると、憲広と、若い青年とのやりとりが司の耳に入ってきた。
「……孝顕 ! ここには入って来るなと言うたやろ!! 大事なものが山ほど保管されてんねんぞ!」
「ごめん。けどなんか、声が聞こえたような気がして」
「いいから、戻るで!! まったく、お前はすぐに言いつけを破る」
「大事なもんて、何? こんなとこで、何してたん」
「お前には関係ないやろ、仕事や仕事。いいから、とっとと部屋へ戻れ」
――憲広の息子、か。只人の世界では、当たり前のように日常が流れているんだな……。
何はともあれ、あの汚物をしゃぶることは免れた。司はごろりと畳の上に横になり、暗く闇に沈む天井を見上げた。
「……さて、様子見と挨拶は終わった。……次こそは、本丸を攻めたいところですね……」
ろくに力も入らない声で、司は己を鼓舞するかのように、そう呟いた。
唇の端から滴る赤い血を指先で拭い、そっと手を持ち上げて顔の上に掲げてみる。小さな明り取りの窓から差し込む光の中、白い指を濡らす鮮血は、どす黒い毒水のように見えた。
「……血……か」
――妖を屠って、滅びかけた肉体を蘇らせたとしても、この身体に流れる血の色も、この血に溶け込む罪の重さも変わらない。
「僕が、終わらせなければ……」
――この国に仇なすものを排除する、誇り高き陰陽師として。そして……。
「……祓い人の血を持つ僕が、全ての因縁を断ち切らなければならない……」
司は重い溜息をつくと、胸の上で手を組んで、ゆっくりと目を閉じた。
夜に沈む小さな部屋は、まるで屍人が眠る棺のよう。
いつか全てを終えたあと、誰にも邪魔されず、小さな棺で静かに眠れたら……――叶うはずもない願いに自嘲の笑みを浮かべながら、肉体の回復をはかるため、司はしばしの眠りについた。
窓の外に、低く風鳴りが響いている。
『琥珀に眠る記憶ー新章ー』第一幕 ・ 終
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