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五、天之尾羽張

   西宝庫の中は、静かだった。  照明のスイッチを探して明かりを灯すと、蛍光灯のライトが廊下を照らす。宝庫の中には窓がないため、太陽の光は届かない。白い床と壁、そして等間隔に並んだ白いドア。ドアプレートには数字と記号が振られていて、一見するところ、そこに何が収められているのかは分からない。  しんと冷えた空気が庫内を満たす中、足元を這い回る不気味な気配。珠生は一直線に、その匂いをたどって奥へと進んだ。瘴気はあらかた薄れているため、霊力を持たぬ者にも影響は出ないだろう。しかし、天之尾羽張の正体が分からない以上、国宝展に出すことに許可は出せない。危険すぎる。  やがて珠生は、最奥にある扉の前で足を止めた。これまで通路脇に並んでいたドアの二倍ほどの大きさがあり、観音開きになるようだ。ドアノブに触れてみるも、当然のごとく施錠されている。珠生は舜平を振り返った。 「これ、開けてもいいかな」 「……それは、このドアをぶっ壊してもいいかっていうことやんな。お前のことやし」 「うん」 「あかんあかん、むやみやたらと物理に頼ってたらあかんで。下がってろ」  舜平はため息をつきつつ珠生の前に進み出ると、頑丈そうな鍵の前に手のひらを翳した。そしてすうっと息を吸い込み目を閉じて、「解!!」と声高に唱える。すると、奥の方でガチャン、と錠が外れる音が聞こえてきた。珠生は目を丸くして、舜平を見上げた。 「う、うわ、便利」 「彰の得意技らしいねん。こないだ教わってな」 「すごいなぁ……俺も、こんなのできたらいいのに」 「ははっ、お前には無理やって。昔から、細かい作業苦手やんか」 「本当のこと言わないでくれる?」  いつの間にこんなことを覚えたのかと驚きつつも、若干悔しい。舜平は入庁からこっち、どんどん新技を会得している様子であるというのに、珠生はあいも変わらず、斬るか殴るかという原始的な技しか持っていない。昔からそうだが、珠生はこういった、細やかな気の操作というものがとても不得手だ。つくづく、陰陽師たちの器用さには頭が下がる。  むくれつつ扉を開くと、暗がりの中、地下へ降りる階段が伸びていた。  迷わずその中へ進もうとしていると、舜平がぐっと珠生の肩を掴んで引き止めた。 「ちょい待て。何焦ってんねん」 「焦って……って。別に、焦ってるつもりはないけど」 「分からへんか、結界が張ってある。嫌な予感しかしぃひんで」 「結界……? あ」  見れば、階段の途中に護符があり、空間を隔てるように結界壁が張ってある。只人にはなんの影響もない結界だが、妖ものの類は、やすやすとここをすり抜ける事はできないだろう。外部からの侵入を防ぐためのものか、または内側の何かを封じるためのものか……。  階段の途中に座り込み、床と壁の境目に貼り付けられた護符を観察していた舜平が、すっと立ち上がる。 「結構古いもんやな。今回が三十年ぶりの調査やいうてたし、天之尾羽張は三十年の間、ここに隠されっぱなしってことか」 「ていうか結界があるってことは、当時も、陰陽師衆が関わってたってことだよね」 「そのようやな。記録がないか、あとで問い合わせてみよう」 「そうだね」 「……この結界に緩みはない。せやのに庫内に瘴気が漏れ出ていたってことは、天之尾羽張っていう刀自体に何か変化があったんかもしれへんな」 「それを早く確認したいんだ。……何だか、落ち着かない気分で」 「……」  ぎゅ、と体側で拳を握りしめる珠生を、舜平がどこか慎重な目つきで見下ろしている。珠生が物言いたげに目線を上げると、舜平ははぁとため息をついて頸を掻き、手印を結んだ。 「外にも結界は張ったし、この三十年モノは、ここで破らせてもらおか」 「そうしてもらえるとありがたい」 「……解!!」  舜平の声とともに、パン! と風船が弾けるような音が響き渡った。一瞬空間が玉虫色に光ったあと、結界が弾けてかき消える。  そして珠生は、すぐさま階段を下へ下へと降りていく。地下二階ほどの深さまで潜ったところで、何かが見えた。歩調を緩めてゆっくり近づいてみると、そこには、背の高い黒いフェンスに取り囲まれた、ガラスケースの姿がある。 「……これ」 「これが、天之尾羽張、か?」  フェンスに手を触れ、中をじっと覗き込む。  美術館や博物館でよく目にする横長のガラスケースの中に、一振りの太刀が収められていた。そこにだけぽつんと小さなライトが灯っており、暗闇に刀が浮かんでいるように見える。  ――どくん……。  珠生の心臓が、静かな高ぶりを呈し始めた。珠生はぎゅっと胸を押さえつつ、太刀の姿をじっと、観察する。  全体的に黒っぽい色をしているが、太刀としての全体像ははっきりしない。何故なら、鈍色の太い鎖が、刀身と鞘を雁字搦めにしているからだ。  かつてこの太刀を手にした誰かが、もう二度とこの太刀を抜くまいと心に決めたかのように。幾重にも巻きつけられた錆びた鎖には、一種以上な恐怖心のようなものさえ感じ取れるような気がする。この太刀が、抜き身になることを恐れているかのように……。  ――どくん……どくん……。 「どうや、珠生」 「……この匂い」  珠生の脳裏に浮かぶのは、五百年前の京の都だ。  雅やかな香の匂い、薄紫色の霧、不穏な空気に満ち満ちていたあの日のこと……。  ――そうだ。陀羅尼……陀羅尼事件のときの……。  目を閉じ、記憶を手繰り寄せるように、過去に意識を集中する。陀羅尼の匂いではない、だが、あの時確かに感じた匂い。地肉が滾り、強く強く、黒々と穿たれた風穴に引き寄せられられた記憶が蘇る。  ――あの……禍々しい、血肉の腐ったあの風の匂いは……。 「……魔境だ」 「え?」 これは、そうだ、この匂い。この気配……。あの時、魔境の風を肌に感じた。あの時の感覚に似てるんだ。  珠生はすっと目を開き、改めてガラスケースの中に横たわる天之尾羽張を見つめた。心なしか、その太刀がうすぼんやりと光り輝いたように見えるのは、気のせいだろうか。 「舜平さん、これは多分、魔境で生まれた太刀だと思う」 「魔境で? なんでそんなもんが人境(こっち)に?」 「……召喚されたか、あるいは、こっちに迷い込んだ妖鬼の類が、持ってたか……」  ――これは人の世にあってはならない刀だ。どうしてこんなものが、よりにもよって正倉院に?  危険だ危険だと思えば思うほど、天之尾羽張から目が離せなくなる。珠生は食い入るように太刀を見つめながら、ふらふらとフェンスに近寄った。まるで、吸い寄せられるかのように。 「すぐ確認してもらおう。湊に連絡するわ」 「うん……」 「どっちみち、こんなところに置いとかれへん代物や。もっと厚い結界を張って、京都事務所に……って、珠生?」  ――抜きたい。あの鎖の下、鞘の中に眠るあの太刀は、一体どんな姿をしているんだろう……。  舜平の声が、遠い。  どく、どく、と心臓の鼓動がさらに高まる。フェンスにかけた両手をぐっと握りしめると、硬い鉄の網がくしゃりと歪んだ。  ――触ってみたい……斬ってみたい…………斬りたい……斬りたい…………。 「おい、珠生!!」 「……っ……」 「どないしてん、お前……!」  ぐいと舜平に肩を引かれて、珠生はハッと我に返った。目を瞬きつつ舜平を見上げると、舜平もまたはっとしたように表情を険しくした。 「目が……」 「……え?」 「お前の目、赤いで。瞳孔も……」 「えっ……嘘だろ」  珠生はぎょっとして、慌てて目をごしごしと擦った。  そういえば、妙に血潮が猛っているような気がする。ぐるぐると珠生の体内で熱を燃やすそれは、霊力ではなく妖力だ。いつになく攻撃的な気分で、太刀に触れたいと右手が騒ぐ。珠生は何度か頭を振って、はぁ、と荒々しいため息をついた。 「……ダメだ。……妖気をものすごく刺激される。あれで何かを、斬ってみたいって思ってた……」 「あかんな、お前はこいつに近づかんほうがええ。ここ圏外やし、お前が地上に上がって、湊に連絡取ってくれ」 「あ、ああ。……くそっ……」 「大丈夫か?」 「大丈夫、ちょっと、油断してただけだ。……大丈夫」  舜平の心配そうな眼差しを振り切って、珠生はややふらつきながら階段を登った。そうして歩いている間も、脳内を占めるのは、あの太刀のことばかり。珠生は必死で考えを振り払いながら、ようやく陽の下に戻ってきた。 「……はっ……はぁっ……はぁ…………」  ようやく現実に戻ってこれたような気がして、思わず深いため息が漏れてしまう。西宝庫の扉にもたれて息を整えていると、少し離れた場所から宮内庁職員の新木が駆け寄ってくる姿が見えた。珠生はぎょっとして、慌ててそれを制止する。 「だめだ!! 何故ここにいる!」 「え? あ、すまない。中へ入っていった君たちのことが気にかかって……」 「俺たちの心配だと!? いいか、霊力を持たないただの人間が、こんなところにいては邪魔なんだ!! とっととここから離れろ!!」 「……えっ? あ、……はい……」 「…………あっ」  言い放ってしまってから、ぎょっとする。慌てて口を押さえるも、外に出てしまった台詞は消えてはくれない。妖気が盛っているせいか、今もまだ、攻撃的な気分が引いていかないのだ。  新木は怪訝な表情を浮かべつつも、じっと探るような目つきで珠生を見つめている。珠生はふぅ、と息を吐いて気持ちを落ち着けながら、小さく頭を下げた。 「すみません……」 「い、いや……何かあったんだね」 「はい。引き続き、特別警戒態勢弐式は継続中です。早くここから離れて」 「……わ、分かった」  立ち去りつつも、ちらちらとこちらの様子を気にしている新木の背中を見送りつつ、珠生はポケットからスマートフォンを取り出した。 「……うう、危険だ。いろんな意味で……。ずっとこんな状態でいたら、俺、社会的に死ぬ……」  ブツブツ独り言を呟きながら、珠生は湊の連絡先をタップした。

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