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六、こだまする声
――斬りたい、斬りたい、斬りたい……
天之尾羽張を目にしてからというもの、おぞましいほどの攻撃衝動が珠生の脳内を占めている。事務所に応援を要請している湊の声を耳にしながら、珠生はぎゅっと目を閉じて、こめかみを押さえた。
「珠生、大丈夫か?」
「……平気だ」
「ほんまかいな。……その目」
湊はきりりとした瞳に心配そうな色を浮かべて、そっと珠生の目元に触れた。黒縁眼鏡の奥にある静かな瞳を、珠生は無言でじっと見上げる。
「妖気が優ってるから、こういうことになんねんろ? 久しぶりやん、こんなこと」
「……仕方ないだろ。魔境の匂いを、あんなにも濃く感じたんだ。……鬼である部分が騒ぐのは、どうしようもない」
「その口調も、まるで千珠さまみたいやで。お前がこんなに影響を受けるってことは、ここいらにおる妖どもかて、平気でいられへんのちゃうか」
「……そうかもしれない」
珠生はふいと顔を背けて、冷静に物事を分析しようとする湊の視線から逃れた。このまま見つめられていては、『あの刀で何かを斬りたい』と欲している己の危険な心まで、見透かされてしまいそうな気がしたからだ。
だが実際、ざわ……ざわ……とあたりの空気が不穏さを増してきていることは事実だ。ついさっき流れ出した瘴気が拡散し、それが撒き餌となって、この周辺に住まう低級妖怪らが騒がしくなっているのだ。
こうして低級らが活発に動き出すと、次に動き出すのは中級の妖だ。中級の中には、低級を喰らい、そこからさらなる力を得るものもいる。
そういった種のものらが中途半端に力を強めると、今度は人間に手を出すようになることもある。妖と人との間に起きる殺傷事件はたいていこういうサイクルで起きることが多く、なおかつ都合の悪いことに、一度人の味を覚えた妖は、以降人間ばかり襲うようになるのでたちが悪い。
あまりにも瘴気が濃いため、急ごしらえの結界では、もって数時間というところだろう。早く結界班を呼び、目の届きやすい京都市内へと搬送したい――珠生の理性はそういったことを考えているものの、本能の内では、ただひたすらに、あの太刀を抜いてみたいという欲求が高まるばかり。それは時間を追うごとに濃く、強くなっているような気がする。
「あかんな、反応が増えてる。……二、三人の応援じゃ足りひんかもな」
「……そうだな」
――それでいい。数が増えれば増えるほど、多くの妖を斬れるんだから……
緊迫した表情で、スマートフォンに搭載した感知システムのモニターを見つめる湊には、口が裂けても言えないことだ。珠生はぎゅっと拳を握りしめ、いつぞや相田将太と修行したことを思い出し、霊力と妖力のバランスを取り戻そうと試みた。
だが、それに相反して、まぶたの裏には血が見える。
――キリタイ、キリタイ……コロシ、タイ……コロシタイ……コロシタイ……
「……はぁっ……はーーー……」
「珠生?」
「何でも、ない。……ふぅ……」
「大丈夫か、お前。しんどいんやったら車に戻、」
その時、天之尾羽張が安置されている地下から、爆発音が響き渡った。
ズォォォォン……と地下を揺るがすくぐもった音とともに、地面がずずず……と震えている。
珠生ははっとした。
地下には、結界を守る舜平がいる。
弾かれたように西倉庫の中へと立ち戻る珠生の背中に、湊の制止が聞こえてくる。だが、珠生はその声に耳を貸すこともなく、振動によってちらちらと蛍光灯の光が揺れる西倉庫の中を一直線に走った。
「舜平さん!!」
倉庫の奥へ奥へと進むにつれ、濃密な瘴気と禍々しい妖気があたりを不気味に包み込む。珠生は走りながら右手に宝刀を掴み、滑るように階段を駆け下りた。
「舜平さん!! ……っ、なんだ、これ……っ!?」
「た、まき……」
ぞわ……と、珠生の全身が粟立った。
舜平の三倍はあろうかという巨大な蜈蚣 が、今まさに舜平を組み敷いているのだ。硬い床に押し付けられた舜平は、かろうじて張った結界壁で鋭い鉤爪を防いでいるが、表情は苦悶に満ちている。
扁平な蜈蚣の口には無数の小さな牙が生え、そこからぼたぼたと滴る涎が、じゅっ……と嫌な音をたてながら床を溶かす。
その溶解音を合図としたかのように、珠生は一瞬にして蜈蚣との距離を詰めた。その場でぐっと踵を踏み込み、駆け寄った勢いを殺すことなく、蜈蚣の頭部に後ろ回し蹴りを炸裂させる。
蜈蚣はギィィィ!! と不快な擦過音のような悲鳴をあげて舜平から剥がれ、壁に激突した。そして長い胴体の先にある尻尾を反らせ、鋭く尖った針で珠生を威嚇し始めている。
珠生は舜平を背に庇い、宝刀を構えた。
「舜平さん、大丈夫?」
「珠生……、助かった。っ……」
立ち上がりかけた舜平が、かすかに足を庇っていることに気づく。黒いスーツがぱっくりと裂け、膝上のあたりに生々しい傷が口を開いているのだ。蜈蚣の足にもまた無数の棘が生えているため、それで斬られてしまったのだろう。
舜平の血を見た瞬間、珠生は妖相手にいいようのない怒りを感じた。
「……血が」
「こんくらいなんでもない。すぐに援護するから、お前は……」
舜平の声が聞こえなくなるほどに、自分の呼吸音が煩く響く。
「……殺す。殺してやる……」
自分の声音が、やけに低く凄みのあるものに聞こえた。
狙いを定め、蜈蚣を見据えた珠生の全身から、青白い妖気が燃え上がる。珠生から生まれた妖気の風が、天之尾羽張を安置する空間を、舐めるように駆け巡った。
蜈蚣が、ピタリと動きを止める。珠生の妖気をもろに浴び、その場で硬直してしまったかのように。
だが、珠生が宝刀を握り直した瞬間、蜈蚣はギシャァァァ!!! と耳をつんざくような咆哮をあげ、珠生のほうへと躍りかかってきた。
ここは狭い空間だ。間合いを詰めることはいとも容易い。
珠生はとんと軽く床を蹴り、涎を撒き散らしながら全身をくねらせ飛びかかってくる蜈蚣に斬り込んだ。
姿勢を低くして素早く懐に入り、珠生は蜈蚣の頭部を、横一文字に薙ぎ払った。
ブシュゥウ……と大量の体液が蜈蚣の身体から迸る。珠生は地面を蹴って、すぐさまそれを避ける。舜平もすでに部屋の隅へ後退していた。
リノリウムを焦がしながら消滅してゆく妖を睥睨しながら、珠生はぶん、と宝刀を振った。ビシャっと湿った音を立てて床に飛び散った体液が、またぞろ床をぶすぶすと溶かしてゆく。
完全に妖の姿と気配が消えたのを確認するや、珠生はすぐさま舜平のもとへ駆け寄った。
「舜平さん、傷を見せて」
「……だ、大丈夫やって。ていうかお前……どないしてんその妖気……」
「今はそんなのどうでもいい。早く見せて」
珠生は舜平を無理やりその場に座らせると、しゃがみこんで傷の具合を確認した。骨や神経までは到達していないようだが、毒気を孕んだ爪で裂かれた舜平の脚は、どす黒い色に腫れ始めている。珠生は舌打ちをした。
「すぐに上がろう。あの蜈蚣は地下から来たのか?」
「お、おう、せやねん。あの刀の下らへんから、急にぼこっと出て来よってな」
「……刀の下、か。やっぱり、天之尾羽張に引き寄せられてるんだな。上も騒がしくなって来てる」
珠生は自分のネクタイをしゅるりと抜き、舜平に応急処置を施しながらそう言った。
蜈蚣が暴れたせいで、天之尾羽張を覆っていたガラスケースやフェンスはボロボロに壊れている。ガラスは割れ、フェンスは飴細工のようにぐにゃりと曲がり、今はたやすく太刀の柄を握れてしまうほど無防備だ。
――キリタイ……モット、モットモット、コロシタイ……コロシタイコロシタイコロシタイ……
「珠生、おい、珠生!」
「…………えっ?」
「どうした、顔色悪いで」
「……い、いや、何でもない。それより、上に湊が一人なんだ。すぐに上がろう」
「でも、この刀ほっとくわけにいかへん。俺はしばらくここで、」
脚をさすりながら立ち上がった舜平のネクタイを、珠生はぐいと乱暴に掴んだ。そして真っ赤に染まったままの瞳で、キッと鋭く舜平を睨みつける。
「こんな脚で何ができるっていうんだ! また危険な目に遭ったらどうする!! この太刀に惹かれて、どんどん妖が集まってるんだぞ!?」
「……そ、そら、そうやけど」
「天之尾羽張は……俺が持つ。……そうすれば、きっと安全だ」
「いや、あかん。お前は触らんほうがええ!」
ぐっと手首を掴まれるも、視線は既に太刀へと吸い寄せられている。否応無しに珠生を誘う魔境の香りが、全身を激しく昂ぶらせ、気が急いて仕方がない。
だからだろう、舜平の制止にひどく苛立ちを覚えてしまう。珠生はじっと天之尾羽張を見つめたまま、舜平の腕を荒々しく振りほどいた。
「でも、俺を呼んでる。俺が持つべきだって、刀が俺を呼ぶんだ。だから俺が……」
「珠生……!! お前、しっかりせぇよ!!」
突然語調を荒げた舜平の声に、珠生はようやくハッと我に返った。目を瞬き、ゆるゆると舜平を見上げると、厳しい表情を浮かべる舜平と目が合った。
「……舜」
「俺は、あの時みたいに、お前を魔境に奪われたくない。鬼の血が誘われるんは分かる。けどな、お前の居場所はここなんや。それを見失うな」
舜平は珠生を引き寄せ、頬を両手で包み込んだ。
頬を撫でる手のひら、耳をくすぐる指先のぬくもりと、力強い舜平の視線に射抜かれて、珠生はやや目を見開く。
「やっと俺ら、こうやって、ずっと一緒におれるようになったんや。そうやろ?」
「あ……」
「ちゃんと俺を見ろ。力に呑まれるな、珠生」
「……舜平さん」
ゆっくりと手を持ち上げ、珠生は舜平の手に触れた。体温と体温が触れ合う感触に、あの日のことを思い出す。
空に穿たれた風穴。
魔境へと続く黒い道。
同族の鬼である陀羅尼に誘 われ、血肉の腐った風に本能を突き動かされたあの日のことを。
――千珠……!! お前の世界は、こっちやろ……!!
肉体を焼かれながらも千珠を人境へ手繰り寄せ、繋ぎ止めた舜海の熱。
そのぬくもりは今もここにあり、珠生を包み込んでいる。
「ご……ごめん。俺……また」
「いや……いいねん。やっとまともに、俺のこと見たな」
「……ごめん」
赤く染まったままの目を閉じて、珠生はぎゅっと舜平にしがみついた。舜平の匂いと、スーツ越しに伝わってくる拍動に耳をすませていると、猛々しく燃え上がっていたものが、ゆっくりと鎮まっていく。
――しっかりしろ。俺は人として、ここで舜平さんと生きてるんだ……。
背中に回った腕の力強さに、無性に切ない気持ちになる。顔をあげると、舜平は愛おしげに珠生のことを見つめていた。
前世 も現世 も変わらぬ黒い瞳を見つめていると、自然と唇同士が吸い寄せられる。
だが唐突に、低い男の声が二人の間に割り込んで来た。
「いちゃいちゃしているところ申し訳ないのですが、そのあやしげな太刀の移送手続きを行いに参りましたよ」
珠生は仰天して、大慌てで身体を離した。
驚きのあまり馬鹿力で胸を押された舜平が、思わずその場に尻餅をつき、「いってぇ!」と悲鳴をあげている。
「あ!! ごめん!! え!? て、てか…………藍沢さんがどうしてここに……!?」
「東京出張からの帰りに京都事務所の皆さんにご挨拶でも、と思って立ち寄ったら、こうしてまんまと現場に駆り出されてしまったんですよ」
「あ、あーー……なるほど……。お疲れ様です」
「相変わらず仲が良いようで何よりだ。お久しぶりですね、ご両人」
宮内庁北陸支部長を務める強者・藍沢要が、腕組みをして無表情に立っていた。
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