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七、薫の暮らし

   大学の入学式を終え、オリエンテーションなどが完了して数日。  まだ本格的に講義が始まっているというわけでもないのに、薫はすっかりくたびれていた。  当たり前のことだが、今年大学生になる同級生たちは、皆すべからく現代人である。これまで、暗く湿っぽい因習に囚われた土地にいた薫とは、まるきり育ち方が違うのだ。  周りにいる学生たちは皆からりと垢抜けていて、きらきらと眩しかった。彼らが楽しげに口にする話題にはまるでついていくことができないし、何より苦痛なのは、関西弁での会話はぽんぽんとスピードが早すぎて、耳から理解することさえ難しいということだ。しかも、前もって段取りでも組んでいたのかと勘ぐりたくなるほどに、彼らは面白おかしく会話を組み立て、大なり小なり周りにいるメンバーから笑いを取る。  高校は富山市まで出て県立高校に通ったけれど、その時感じたギャップ以上の衝撃を、薫はひしひしと感じていた。  薫には、同年代の友人などいないに等しかった。同年代の仲間は何人かいたけれど、会話で盛り上がった記憶もないし、彼らが何を考えながらあの里で暮らしていたのかということも、薫には分からない。皆それぞれに主義主張があるのだろうが、それを口に出すことは憚られる空気の中で育ったからだ。  宮内庁の制圧を受けて以降、その空気はより濃くなったと感じている。  特に、水無瀬楓との関わりが深かった薫には、いつでも監視の目がついていた。自分が悪事を働いたわけでもないのに、いつでもどこでも人の目を気にしながらの生活を強いられてきた。  それを粛々と受け入れつつも、不満を感じずにはいられない日もあった。だが、それを口に出してしまえば、宮内庁から睨まれる。それだけはどうしても避けたくて、薫は日々を真面目に過ごして来た。  不自由を強いてくる宮内庁に恨みが募るというよりも、祓い人として生まれついてしまった自分の宿命に、呪わしいものを感じずにはいられない日々だった。  藤原修一から、『京都に来て修行しないか』と誘いを受けた時は、純粋に嬉しいと感じた。たとえそこに監視という目的があったとしても、華々しい歴史と活躍に彩られた『陰陽師衆』の一員として働ける場が出来るのならば、それに勝る喜びはないと感じていた。ずっと日陰を歩んできた薫にとって、彼らの姿は途方もなく格好いいものに見えていたからだ。  だからこそ、薫は迷うことなく京都へ来ることを決めたのだ。だが、学生としての生活にまず慣れねばならない。それは想像をはるかに超える困難さで、今からげっそり疲れているのである。 「薫〜、おい、まだ寝てんのか?」  軽いノックの後、すぐにドアが開いて深春が顔を出した。  宮尾邸での生活は思いの外居心地がよく、今の薫にはそれだけが心の支えだ。  深春が怖い怖いと脅してきた天道亜樹という女性も、思ったほど恐ろしくはなかった。  亜樹は、きりりとした黒髪のショートボブが印象的な、目力の強い美人だ。富山では出会ったことがないほどに鮮烈なオーラのある女性で、実際ひどく口調はきついし性格も荒っぽいが、薫のことを歓迎してくれている雰囲気は伝わって来る。姉のように頼れる存在だと、薫は感じていた。 「うーん……。起きる。今日は藤原さんから呼ばれてるし……」 「俺も俺も。何でもさ、今京都にやべーもんが来てるらしいぜ。俺らにも何か仕事が振られるかもしれねーな」 「やべーもん……?」  深春は薫のベッドに腰を下ろして、長い脚を組んだ。  見惚れるほどに、深春はかっこいい。  顔立ちの端正さもさることながら、柔らかそうな癖っ毛がおしゃれで、モデルのような体型が素晴らしくきれいだ。深春は薫に『素材はいい』と言ってくれるけれど、はやり都会暮らしの長い深春には、洗練された雰囲気がある。それは、野暮ったい自分には、到底持ちうることの出来ないものだ……と、疲れ気味の薫はげんなりしてしまった。 「どーしたんだよ、気分でも悪いのか?」 「いや別に……」 「ほら、起きろよ。どーしたよ、顔見せろって」 「うわっ」  布団にくるまる薫の上に四つ這いになった深春が、布団をぐいっと引っ張った。意に反して顔を出すことになってしまった薫は、真上にある深春と間近に顔を見合わせる格好になり、思わず目を瞬いた。  深みのある黒い瞳が、探るように自分を見つめている。薫がどぎまぎしながら深春を見上げていると、ひょいと視界が広くなった。深春が上からどいたのだ。 「なんだよ、元気そうじゃん」 「う、うん……眠いだけだから……」 「そっか。ま、それならすぐ顔洗ってこいよ! 遅刻したくねーからな」 「わ、わかったよ」  キビキビと部屋を出ていく深春の背中を見送って、薫は一つため息をついた。  ――ここはすっかり、深春の居場所なんだ……。  初めて深春と出会った日のことを、ふと思う。  あの頃の深春は、この京都に居場所がなかった。そこを楓真につけこまれ、ああして酷い目に遭わされたのだ。  だが、今の深春には、あの頃抱えていた影のようなものが、きれいさっぱり消えて無くなっている。きっとこの五年間で、宮内庁の陰陽師たちとの間に、揺るぎない信頼関係を築き上げたのだろう。 「……いいなぁ。僕にも、そんな日が来るのかなぁ……」  深春はため息交じりにそう呟き、もぞりとベッドから立ち上がった。  + 「魔境の剣?」  今日初めて宮内庁京都事務所にやって来た薫は、藤原から受けた説明に素っ頓狂な声をあげてしまった。そして慌てて、口を押さえる。事務所内にある会議室に集められているのは、深春と薫だけではないからだ。 「……すみません」 「いいや、もっともな反応だよ。なぁ? 相田くん」 「ええ、そうですね」  そう言って藤原の傍で微笑むのは、楓が倒された日に出会ったあの男だった。  黒いスーツ姿ということもあって、当時よりもぐっと落ち着きが増したように見受けられ、初対面ではないものの、何だか緊張してしまう。 「正倉院から出たそれは、今はこの地下施設で二十四時間監視下に置かれている。こんなにも危険なものを人界においておくわけにはいかないから、結局、魔境に送り返すのがいいだろいうという結果になってね。やれやれ、大ごとになるな」 と、藤原は自分の肩を揉みながらそう言った。 「そもそも、誰がこんなもんをこっちに召喚したんでしょうね」 と、黒縁眼鏡の長身の男が、生真面目な口調でそう言った。その男からは霊力は感じられなかったが、何だかものすごく有能な雰囲気を醸している。薫はしげしげと、眼鏡男・柏木湊の姿を観察した。 「過去の文献等を当たらせている最中だが……。まぁ恐らく、平安貴族の誰かが、政敵か恋敵かを呪い殺そうとして召喚したのだろうな。といっても唯人にそんなことはできないから、それを請け負った異能力者がいたのだろうが」 「陰陽師、ってことですか?」 と、舜平が腕組みをしながら藤原に問う。藤原は頷き、さらに続けた。 「あるいは、祓い人か」  その言葉に、薫はひゅっと胸の奥が冷えるような心地がした。藤原が言葉に込めた無言の温度差を、妙に生々しく感じたような気がしたからだ。

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