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十三、深春の掌
手当てとして気を鎮める術式を受けたあと、薫は一人、自宅へ戻ることになった。
紺野と名乗る若い職員に宮尾邸まで車で送ってもらった薫は、のろのろと車を降りて屋敷の中へ入っていく。
保護者である柚子の部屋は一階だ。彼女を起こさないように、物音に気をつけながら、キッチンとリビングを横切った。ちなみに亜樹は今、仕事の研修の都合で一週間ほど家を空けている。
時刻は午前二時。
当然、中はしんと静まり返っていた。
――頭が痛い……。
ぐったりと疲れた身体をのろのろと動かして、薫は自室へ戻ろうと階段を上った。
ふとその時、深春の部屋のドアが細く開き、中からあかりが漏れていることに気づく。
薫と深春の部屋は隣どうしだ。
深春の部屋の前を通り過ぎる時、なんの気なく中を覗き込んで見る。すると、すっとドアが開いて、中から深春が姿を現した。
「あっ……深春」
「よう、おかえり」
「……うん。帰ってたんだ」
「待ってたんだよ、お前を」
静かに微笑む深春の顔を見ると、どっと感情がこみ上げてきた。無意識のそこから突き上げてくる涙と嗚咽が、薫の顔を歪ませた。
「みはる……っ……うっ……っ……」
「ま、ちょっと入れ。ここに座って」
「うん……」
深春のベッドに座り、薫はぐいと拳で目元を拭った。だが、後から後から溢れ出す涙は、薫の思うようにはなってくれない。
「なんか飲むか? 持ってこようか?」
「……っ……いい……っ……うっ、うっ……」
頭を振り、なおも泣き続ける薫の傍に、深春がそっと腰を下ろす。
そして、ぽんぽんと背中を優しく叩かれた。
久々に力を使ったせいだろうか、やはり半妖の気を持つ深春の感情が、かすかに薫の中に流れ込んでくる。はっとして離れようとしたけれど、そこには、薫を労ろうとする深春のあたたかさだけを感じることができた。
のろのろと顔を上げ、薫は深春の顔を見つめた。深春は気遣わしげに眉根を寄せ、整った目元に憂いを乗せて、薫の視線を受け止めている。
「……久々に力を使ったせいで、気が高ぶってるんだな」
「分かる……んだ」
「ああ、分かるよ。お前よりは修行してるからな」
「……うん……っ……ううっ……」
「よーしよし、ほら、こっち来いよ」
ベッドの上に座り、両手を広げる深春の誘いに、薫は素直に応じることにした。
深春はぎゅっと薫を抱きしめ、自分の肩口に薫の頭を押し付ける。荒っぽい動きだが、深春の優しさに気が緩み、薫はおずおずと深春の背中に腕を回した。
「……何があった」
触れ合った場所から伝わってくる深春の声に、薫は御所での出来事を訥々と語った。深春は相槌をうち、時折頷きながら、静かに薫の声を聞いてくれた。
「それで……さ……佐為さまが、珠生を守れって……。あの妖を、止めてくれって……」
「へぇ……それで、お前、できたの?」
「うん……なんとか、できた。珠生さんが、危なそうで……なんか、やばいっておもって……」
「そっか、すげぇじゃん。薫、やったな」
「うん……でも……」
呪を送り込む瞬間、どうしてもその妖と触れ合わねばならない。
その時流れ込んでくるのは、混沌とした妖の記憶と、命の危機を叫ぶ感情だ。
そう、妖にも記憶や感情があるのだ。妖が大きければ大きいほど、彼らが持つ情報量は膨大となる。低級な妖は、ふわふわと空を漂う植物のようなものだが、力を持った妖になればなるほど、意志を持ち、思考を持ち、感情を持ち始める。
呪を送り込むその刹那、薫はそれらを全て見てしまうのだ。この動揺と頭痛は、そのせいだと自分でも分かっている。
そして何より苦しいのは、そうして一瞬でも記憶を共有してしまった妖が、目の前で殺されてしまうこと――
昔、水無瀬楓真に飲まれてしまう以前の楓が「修行次第で、うまく自分の脳みそに壁を作ることだってできる」と話していたことを、不意に思い出す。今になって、あの時もっと話を聞いていれば……と思わずにはいられない。
これから先、陰陽師衆とともに力を使って、目的を一つとし、ともに戦っていきたいと薫は本気で願っている。だが、こんなにも動揺している自分が、果たしてその任を終えるのだろうかと不安になる。
そして同時に、表情一つ変えずに妖を斬り捨てた珠生にも、彰にも、言い知れぬ恐怖を感じている。
彼らだって、妖の血を持っているというのに、どうしてあそこまで冷徹になれるのだろうと、恐ろしくなったのだ。
この国を守る大義があるということは、理解しているはずなのに。
今の薫には、このまま修羅の道を突き進む覚悟がまるでできていない――それをまざまざと、実感させられる結果となった。
「……なるほどね」
「……うん。……あっ……ごめん、シャツびしょびしょだ」
「いいって、気にすんな」
だが、深春に話をして、少しだけ心は軽くなった。深春が薫を試すようなことを考えていない、ということも救いになった。ひょっとしたら、深春もまた珠生や彰と結託して、薫を試しているのではないかと考えていたから……。
「俺を見ろ、薫」
「……え?」
深春の濡れたシャツを見下ろしていた薫は、深春の顔をそっと見た。
漆黒の瞳が、まっすぐに薫を見つめている。
「これからどうしていきたいかは、お前自身が決めればいいことだ。別に、陰陽師衆の言いなりになる必要もないんだ。俺だって、こうやって好きに生きてて、求められたら力を貸す、そんな生活してるわけだしさ」
「……うん、でも」
「ただ、今のお前は力を持て余してるみたいだ。力をコントロールする修行はしなきゃいけない、分かるな?」
「うん……」
「俺も付き合うし、藤原さんだってお前のことを考えてくれてる。今は怖く見えるかもしれねーけど、珠生くんは優しくて、いい兄貴だよ。先輩も、舜平も、湊くんも、お前のことをちゃんと受け入れてくれてるんだ。大丈夫」
「……うん」
「それに俺だって、お前の味方だ」
「え……?」
そう言って、深春はにっと気持ちのいい笑みを見せた。そして親指でぐいっと薫の頬を拭い、下から掬い上げるように見上げてくる。
「なんでだろうな……生まれが同じ土地だからかな? お前のこと、ほっとけねーんだ」
「深春……」
「そんな顔すんなって。お前も知ってると思うけど……俺、陰陽師衆とは色々あった。すげー迷惑かけたこともあったけど、今は割と、居心地いいぜ?」
「……で、でも、その迷惑をかけるきっかけになったのは、楓だ。祓い人なんだよ? それに僕だって……祓い人だ」
「でもお前は、変わろうとしてるんだろ? 古い因習を断ち切って、陰陽師衆と手を取り合おうって。だから京都へ来たんだろ?」
「うん……」
「だったら、もう何も気にしなくていいよ。薫は薫なんだからさ」
深春のその言葉に、心に絡まっていた重たい鎖が緩んだような気がした。
薫は、薫。
そう言ってもらえるだけで、存在を許されているような気持ちになった。
「わっ」
気づけば、薫はぎゅっと深春を抱きしめていた。さっきよりも強く、強く。
腕の中にある深春の身体は筋肉質で硬いが、ほっそりとしていてしなやかだ。何より、どことなく能登を感じさせるおおらかな気の流れを感じていると、ものすごくホッとする。
雄大な能登の自然を思い出す。
あそこは、誰かにとっては忌まわしい記憶を呼び覚ます呪われた土地かもしれない。でも、薫にとってあそこは故郷だ。それは深春にとっても同じだろう。前世の絆と魂が眠る、故郷 に違いない。
「……ありがとう、深春」
「いや、いいって……てか、苦しいんだけど」
「ごめん、でも、もうちょっとだけ……」
「……なんだよ。俺よりでかいくせに、甘えてんじゃねーぞ」
深春はいたずらっぽくそう言って、そっと薫の頭を撫でてくれた。昼間のやりとりをまだ根に持っているかのような台詞に、薫は思わず笑ってしまった。そして同時に、ずっしりとした眠気と疲れが、薫の全身を緩めていく。
「……甘えてたら、なんか、眠たくなってきた……」
「はぁ? お子様かよ」
「なんか……ごめ……ん。僕……」
「ちょっ……わっ」
身体を支えることも難しいほどの、泥のような疲れ。ぐったりと深春に体重をかけてしまったせいか、深春はそのままベッドに倒れ込んでしまった。
「ま、いっか。しょーがねぇな……。いいよ、寝てろ」
「ごめ……ん……」
ずるずると眠気に沈んでいく意識の淵で、深春のあたたかな手のひらを、とてもとても心地良く感じた。
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