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二十一、死のひとつ
「あ〜あ、クソっ。おもんないなぁ」
道にタバコを吐き捨て、びっこを引き引き歩くのは、水無瀬文哉である。
ここは奥能登にある寂れた商店街の一角。そこに一軒だけ生き残ったパチンコ屋を振り返り、文哉は小さく鼻をすすった。
日雇いの仕事で稼いだ小銭をつぎ込み、こうしてパチンコに明け暮れる日々を送り始めて、どれくらい経つだろう。勝つ日もあるが、負けることの方が格段に多い。勝ったら勝ったで、それを元手にさらなる大勝負に出て負ける……そんな繰り返しだ。要するに、引き際を見定めるのが下手なのだ。
――あん時だってそうや。……いつまでもいつまでも、楓みたいなガキの言いなりになるんじゃなかった。
水無瀬楓の暴走は、退屈だった日常にスリルを与えてくれた。だが、いつまでもいつまでも楓の駒になって動くべきではなかった。だって、一番損を見たのは自分なのだ。ひどい拷問をされ、妖に憑依されながら命からがら宮内庁の追っ手をかいくぐり、能登まで逃げ延びたはいいが、そんな文哉を歓迎する者など誰もいない。誰もかれもが、心底面倒臭そうに文哉を見ていた。厄介ごとを里にまで持ち帰った文哉の存在は、何よりも疎ましいものとなったのだ。
それは、姉の菊江とて同じだ。
息子ほどにも年の離れた楓の言いなりになり、再起不能の廃人にまで追い詰められたのだから。実の娘にまで手をかけた挙句失敗し、能登制圧のきっかけを作った張本人……。今も、本家の奥座敷に寝かされてはいるものの、もはや、進んで彼女の世話を焼くものは誰もいない。
――ひょっとすると、もう死んでるかもな。
文哉はなんの感傷もなくそんなことを考えつつ、擦り切れたジーパンの尻ポケットに入っていたタバコを取り出す。くしゃくしゃに潰れた箱の中に、一本だけ残っていたタバコを咥えると、パチンコ屋で拾った百円ライターで火を付ける。
「はぁ…………」
監禁されていた病院から逃げ出す時、憑依の術を使った。全身を支配する全能感と、血が滾るような能力の爆発。それは、まるで麻薬のような快楽を文哉にもたらした。宮内庁の連中など、この手で全員八つ裂きにできるのではないかと感じたほどだ。
だが、能登に戻るやその力は消え失せて、後に残ったのは想像を絶する苦痛と疲労感だけだった。逃げる時に負った傷の痛みのせいで、気が狂うかと思ったほどだ。
楓の死後、宮内庁の連中が祓い人の里を制圧し、皆それぞれに違う道を生きるようになって、もう五年以上が経つ。水無瀬拓人のように、そのまま真っ当な道へと人生の舵を切り直せばよかったのかもしれないが、文哉はそうはしなかった。役人どもに恭順し、まともな人間になるべく里を出ていったかつての同胞たちを見下しつつ、文哉は野良犬のように一人で生きることを選んだのだ。
そして、里長である祖母もまた、宮内庁を拒絶し里に残った。自身の痴呆もかなり進行し、身の回りのことなどほとんどできなくなっているにも関わらず、娘である菊江をかくまいながら……。
――いっぺん里に帰ってみるか……? けど、帰ったところでどうしょうもない、か。……ん? けど、なんやちょっとくらいは金目のもんがあるんちゃうやろか。適当にそれくすねて金に変えりゃ、多少楽できるかもしれへんな。
くくっと喉の奥で笑いつつ、文哉は白い煙を吐き出した。
その煙の向こうに、ふと、誰かが佇んでいることに気づく。
「……ん?」
寂れた商店街のアーケードの下、弱々しい光を放つ街灯の下に、一人の少年が立ってこちらを見ている。十七、八歳か、もっと若いか……さらりと揺れる銀色かかった髪の毛や、アルビノを思わせる白い肌のせいで、はっきりとした年齢は分からない。まるで幽霊のようだ……と、文哉は思った。
「……おい、何見てんねん」
周りには誰もいない。その少年は、まっすぐに文哉を見据えている。
まるで作り物のように整った顔立ちが、その少年の存在をよりいっそう不気味に見せていた。まるで、人形のようだ。
「なんやお前、ジロジロこっち見て感じ悪いな。なんか文句あんのか」
腹の奥底からじわじわと湧き上がるのは、明確な恐怖だ。何故だか分からないが、その少年からは、瘴気にも似た不気味な気配が漂っているのである。腕っ節も、霊力も、なにもかもが弱々しいというのに、この禍々しさときたらなんだろう。文哉はごくりと息を飲み、少年と一定の距離を保ちつつ、その場を離れようとした。だが。
「あなたが、水無瀬文哉さんですね」
「……は?」
まるで役人にように、きびきびした声。それがこの少年から発せられたものと気づくまでに、二、三秒かかった。ゆっくりと振り返ると、少年はうっすらと桃色がかった唇に愛想のいい笑みを浮かべて、黒いコートのポケットから両手を出す。
「……なんや、お前……」
「宮内庁の指示に従わず、ホームレスのような生活を送っておられるとは……惨めなものですね」
「……あ?」
慇懃丁寧な口調だが、セリフは全くの侮蔑である。文哉はギロリと視線を鋭くし、その少年に向き直った。
「……なるほど、お前、宮内庁の人間か。俺を見張ってたって?」
「いえいえ。あなたには、見張る価値もありませんよ。時間の無駄だ」
「な、なんやと……」
「それに、正確には、僕は宮内庁の人間ではありません。だた、彼らの願望を叶えてやりたいだけ」
「は、はぁ……? な、なんやねんお前! 意味分からん……ち、近づくな……!!」
一歩、一歩と近づいてくる少年の瞳は、色の薄い灰色だ。だがそこに、ぼぉっと黒い炎のようなものが揺らめいて見え、文哉はゾッとして、思わず後ろに飛び退った。
「水無瀬文哉。僕は、あなたを粛清します」
「……粛清、やと……!? な、なんで今更、そんな……!!」
「祓い人など、もうこの世に必要ありません。天国で、あなたのご家族もお待ちですよ? ……ふふっ、いや、地獄かな」
「え……っ」
――家族? どういうことや、これは、こいつはいったい、何もの……
どんっ……というかすかな衝撃に、文哉の身体がぐらりと揺らめく。少年は一歩も動いてはいない。だが、胸に感じる衝撃と圧迫感、そして、ひりつくようなこの痛みは……。
「あ……? ……え……な、んやこれ……」
黒緑色をした蔓草が、文哉の胸を貫いている。細い蔓草が絡み合い、人間の腕ほどの太さを作り出しているのであった。
視線で辿ると、それは少年の白い手から生えている。文哉が目を見開くと、同時に、ガクッと両足から力が拔けた。その場にふにゃりと膝をつき、文哉はゆっくりと、背後に倒れた。
ゆっくりと歩み寄ってきた少年の足が、すぐそこにある。ごぼっと喉から湧き上がる血を吐きながら、文哉はガタガタと震えながら少年を見上げた。
「え……なん、これ……? おまえ……だ、れ……」
「もうこれから死んでしまう人に名乗っても意味はありませんが。……まぁいいでしょう」
人を殺してる最中だとは思えないような穏やかな顔で、少年はにっこりと微笑む。そして、文哉を貫いていた蔓草をズッと引き抜いた。
内臓を引きずり出される痛みが、灼熱地獄のように文哉の全身を脅かし、苦悶の悲鳴が凄絶に漏れる。あちこちタイルの剥げたアーケードの床をじわじわと赤く染め上げる夥しい出血の上に立ち、少年はきちきちとした口調でこう名乗った。
「僕は駒形司と申します。さようなら、水無瀬文哉さん」
振り上げられた少年の腕を、文哉はただただ見上げることしかできなかった。
そして世界は暗転し、文哉は死んだ。
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