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二十四、裏切り者
魚津市の中心部にあるホテル・ルートイン魚津に到着した頃、時刻は二十二時を超えていた。
祓い人の里へ立ち寄った後、北陸支部に立ち寄り、水無瀬拓人の監視状況などの説明を細かく受けたりしているうち、すっかり時間が過ぎていたのだ。
朝早くに京都を出発して、すでに十二時間以上を藍沢と過ごしていることになるが、薫は一向に藍沢の纏う冷徹な空気には慣れることができない。常に緊張している状態での一日仕事で、心身ともにへとへとに疲れていた。
こんな状態で拓人と顔を合わせてしまうことに、若干の不安もある。様々な感情が渦巻く中、自分は冷静でいられるのかどうかと。
曇った夜空にそびえ立つホテルを見上げ、薫は深いため息をついた。
藍沢が調べ上げていた拓人の退勤時間はとっくに過ぎているというのに、拓人がホテルから出てこないのだ。「どうせなら不意打ちもいいでしょう。彼の働く姿を見ておくといい」と藍沢に言われ、薫は一人、ホテルのエントランスに佇んでいるところだった。
――きれいなホテル。普通の職場で、普通の人間みたいに、拓人も働いているんだ……。
足を踏み入れたロビーは広々としていて、ほどほどに人気があった。キャリーケースを引くスーツ姿の客や家族連れ、またはカップルなど、自由に人々が行き来している。きらびやかな雰囲気ではないものの、清潔感にあふれた過ごしやすい雰囲気は好ましい。だが、薫の緊張感は増していく一方である。
濃い茶色の壁紙、落ち着いたダウンライトの照明、灰褐色の磨かれたフロア。その奥にあるフロントカウンターの中に、すらりと背の高い眼鏡の男がいた。
――拓人……。
チェックインの客がひと段落しているのか、フロントにいるのは拓人一人だった。
その姿を見るのは、五年ぶりだ。だが、拓人の外見は、あの頃とほとんど変わってはいない。仕事柄、髪の毛を綺麗に撫でつけて、かっちりとした制服に身を包んでいるせいか、多少大人びたようにも感じられる。
――良かったね。普通の人間になれて。……涼しい顔をして、只人の中に溶け込めて……。
久しぶりに拓人の顔を見て、複雑な感情が、胸の中をぐるぐると蠢き始めた。薫は一人、拓人の元へ歩いてゆく。
すると拓人は操作していたモニターからすっと目線を外し、愛想のいい笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。本日のご宿泊……」
流麗に口から滑り出す言葉が、不自然に途切れた。眼鏡の奥の怜悧な瞳に、歪な表情が浮かび上がる。
「拓人……久しぶり」
「……薫……?」
拓人はしばし言葉を無くしたように、じっと薫を見つめている。
最後に会ったのは、楓が死ぬ少し前だったはずだ。あの頃、薫は非力な十四歳で、身体もか細く幼かった。だが今は、拓人の身長に追いついている。体躯も、薫の方がやや逞しいのではないだろうか。ラフな黒い長袖Tシャツにベージュのチノパンツという砕けた格好だからこそ、薫の肉体的な成長は目立つに違いない。拓人は薫の全身をくまなく観察するように視線を巡らせた後、どことなく苦々しい表情でこう口を開いた。
「……何しに来た。僕はまだ仕事中だ」
「退勤時間過ぎてるみたいだけど、どうしたのかなと思って、見に来たんだ」
「は……?」
「話があるんだ。外で待ってる」
「っ……」
淡々とした口調を心がけつつ、薫は一気にそう言った。何か言い返したそうに口を開きかけた拓人だったが、薫の背後に宿泊客が現れたらしく、ハッと我に帰った後、引きつった笑みを浮かべて接客を始めた。
ぎこちない口調でビジネスマンに対応している拓人に視線を送ったあと、薫は足早にロビーを横切り、自動ドアを抜けて外に出た。
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「……用って何?」
職員通用口の前で三十分ほど待ち構えていると、私服に着替えた拓人が姿を現した。念の為、フロント側から出てきても捕まるようにと藍沢が待ち構えているのだが、それは無用であったらしい。
春なかばとはいえ、北陸の地を吹き抜ける夜風は冷たい。拓人は白いシャツの上に、織り柄の入った淡いグレーのカーディガンを羽織っている。仕事中とは眼鏡も変えていて、さっきよりもフレームが太めでカジュアルな印象だ。外見に気を遣う拓人らしさは以前と変わらない。
コンクリート製のビルの隙間で、びゅうびゅうと風が鳴る。無機質な薄暗い空間の中で、二人は向かい合った。
「元気そうだね、拓人。ホテルマン、似合ってたよ」
「……つまらない世間話をしにきたわけじゃないだろ。何の用かって聞いてるんだ」
「……」
拓人はポケットに手を突っ込んで、剣呑な目つきで薫を見据えた。幼馴染を相手にしているとは思えないような酷薄な態度である。だが確かに、今はのんびり世間話をしている場合ではない。
「おばあさまとお母さんのこと、残念だったね」
「……」
「菊江さんのこと、聞いてるんでしょ? 文哉さんのことも」
「聞いてるけど、別に残念とも思わないさ。僕には関係ないことだ」
「……そう。でも次は、拓人が狙われるかもしれないっていうじゃないか。大丈夫なの? こんなとこで普通に仕事してて……」
「ああ、なるほどね」
薫の言葉を遮って、拓人が大きく頷いた。
「僕らを裏切って宮内庁に寝返ったってのは、本当だったみたいだな」
「……裏切った、だって?」
「噂で聞いた。薫が京都へ行ったのは、進学のためだけじゃなく、陰陽師衆に加わるためなんだってな」
「……」
「『祓い人と陰陽師衆の架け橋』になるんだろ? ご立派なことだな」
裏切りという言葉を聞き、拓人の中に『仲間意識』という概念が存在していたのかと驚いてしまう。薫が言葉を返せず口をつぐむと、拓人はふっと冷笑を浮かべてこう続けた。
「数百年来の敵対関係の中で、祓い人から陰陽師衆に寝返った奴なんて初めてだろうな。ははっ……よくもまぁそんなことができたもんだ」
「……でも拓人だって、他の人たちだって、あの人たちのおかげで今普通の生活が送れてるんだろ? 拓人がずっと憧れてた生活をさせてもらえてるってことじゃないか」
「……」
「僕だってそうだ。あの人たちのおかげで、今大学に通えてる。住む場所だって与えてくれた。僕は恩を感じてるよ。それに報いるためにも、あの人たちのために働くのは当然だと思ってる」
「……そういうとこだよ」
「え?」
「そういうところが、気に喰わないって言ってるんだ!!」
拓人はぎゅっと目を閉じて、苦いものを吐き捨てるようにそう言った。
「向こうは国がバックについてて、こっちは薄汚れた因習の染み付いた野蛮人だ。どこからどう見ても、最初(はな)から敵うはずなんてなかったんだ。圧倒的な力の差だ。上から餌を与えられて、歯牙を抜かれて、抵抗の意思を奪われて、飼い殺されておしまいだ!! きつい修行を重ねたことも全部無駄。霊力を持っていたって何の意味もありゃしない。むしろ邪魔なだけ……こんな、無様な終わり方を突きつけられて、はいそうですかって納得できるわけないだろ!!」
「……拓人」
こんなにも感情を露わにする拓人を見るのは、後にも先にも初めてだった。溢れんばかりの敗北感を破裂させ、白い頬を紅潮させて、憎々しげに無念を叫ぶ拓人のことが、不思議と妙に人間らしく思えた。
そして、拓人自身が『祓い人』としての力にそうまでプライドを感じていたらしいことにも、薫は驚いていた。飄々と風にそよぐ柳のように、大きな力に従い流れてゆくことを享受するタイプの男だと思っていたのに。想像以上の激昂に、目を見張るばかりである。
「なら、僕と一緒に宮内庁に入る? そうすれば、拓人だってその力を奮うことができるじゃないか」
「……なんだと」
「拓人だって強かった。式もたくさん持ってたじゃないか。その力を、国のために使うって言えば……」
「……相変わらず、呆れ果てた馬鹿だな、お前は」
「えっ……」
地を這うような低い声に、薫は息を飲む。拓人は喉の奥からくくく……と嫌な笑いを響かせながら、じろりと薫を睨めつけた。
「本気でそんなことができるとでも思ってんのか? 出来るわけがないだろ。僕は、楓と結託して織部深春を拐い、陰陽師衆を直接攻撃した過去があるんだぞ」
「……で、でも、今はもう、楓はいない。もう陰陽師衆に楯突こうなんて思ってないんでしょ……?」
「そんな保証がどこにある。この五年、真面目に静かに過ごしていたから? 何から何まで身辺整理してもらって、感謝しているはずだから? 現代人らしい生活を捨てたくないから?」
「……それは」
「ははっ!! 感謝してるさ!! 有り余るほどにな!! 存分に見せつけてもらったよ、力の差をな!! あはははっ! 数百年続いた祓い人の血を誇れ誇れと刷り込まれてきたけど、それがいかにくだらなくて穢れたものかってことを思いっきり理解したよ!! この世界に必要とされない血と、力と、存在なんだってことをな!!」
ビルの谷間に、拓人の声がこだまする。
何故だろうか。足元から冷えていくような感覚が、薫の全身を縛り付けている。
忘れかけていた。この数年の間、『祓い人』という異能者がどういう存在であったのかということを。
それをまざまざと突きつけられ、立っている場所がぐらぐらと歪んで、奈落の底へ沈んでゆきそうなほどに不安になった。
「お前も同類だよ、薫。お前だって僕と同じだ。陰陽師衆とは違って、祓い人の血は薄汚く穢れたものだ。霊力なんて、元を正せば全て同じものなのに、あいつらは清くて僕たちは汚い。お前も、その薄汚い血を全身に巡らせた祓い人の一人なんだからな」
「……違う、僕は」
「あいつらに何を言われたのかは知らないが、所詮お前は利用されてるだけなんだよ。お前は馬鹿で扱いやすいから、ほいほいあいつらの口車に乗せられただけさ。何が『祓い人と陰陽師衆の架け橋』だ。そんなのただの綺麗事だろうが。今だってほら、見てみろ。お前を利用して、僕から情報を引き抜こうとしてる。ていのいいスパイとして使われてるだけだ」
「違う……違うよ!! あの人たちは、本当に……」
「不要になったら、お前はどうせ殺される。ははっ……何にも分かっちゃいないんだな。図体はでかくなっても、考えの甘っちょろいお子様のままだな、お前は!」
「……っ」
――違う、違う、違う……!! 藤原さんは、珠生さんは、深春は……、本当に僕のことを認めてくれようとしているんだ。僕を、必要としてくれているはずなんだ……!! 拓人の言ってることは、全部違う……!!
そう思いたいのに、意識の片隅からはこんな声も聞こえてくる。
――本当にそうか? 拓人の言っていることは、全て正しいとは思わないか? 祓い人と陰陽師衆は、何百年と敵対してきた間柄だ。そうやすやすと相入れることができると、お前は本当に思っているのか……?
身体が冷たいのに、変な汗をかいている。指先の感覚が、まるで痺れているかのように失われてゆく。
瞬きすることも忘れて拓人の顔を見つめていると、拓人は唇を歪めて邪悪に笑った。心の底から薫を嘲る、厭な笑い方だった。
だがその時、急に肩に重みを感じ、薫はハッと我に返った。そして、反射的にそちらへ視線をやった薫は、大きく目を見開いた。
「おいおい、そんなひでーこと言ってやんなよ。幼馴染だろ? お前ら」
「みっ……深春……!?」
親しげに薫の肩に腕を乗せ、唇の片端を吊り上げて微笑む深春の横顔が、すぐそこにあった。
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