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二十五、戸惑い
「織部……深春」
「へえ〜俺の名前覚えててくれたんだ。……えーと、お前、名前なんだっけ? たくや? たくみ、とかだっけ?」
「……」
深春の姿を見て明らかに動揺している拓人を相手に、深春は軽口を叩いて薄く笑った。薫もまた動揺してはいるものの、深春がすぐそばにいるという事実だけで、抜けていた力が漲ってくるような心地がする。
肩に触れる深春の腕の温度、感じ慣れた気、そして頼もしい横顔。触れ合う場所から流れ込んでくる深春の念からは、薫を庇護せんとする心意気が感じ取れた。
こんな時だが、妖気を通じて念を読み取ってしまう薫の特性を知っても、深春が距離感を変えていないことにふと気づく。そして薫も、深春から流れ込んでくる念に対して、妙な気構えや違和感を感じたことがないということにも。深春の性格に裏表がないからという理由もあるだろうが、それは薫にとって、今更ながらに新鮮な驚きだった。
――い、いやいや、今は深春のことを考えてる場合じゃない。とにかく拓人を説得しないと……!
「と、とにかくその……。拓人、今は、一人でいるのはすごく危険だと思うんだ。だから、犯人の動きが分かるまででいいから、宮内庁の保護を受けて欲しい」
「そーそー、あぶねーからそうしとけよ。どうせ式も何も取られちまったんだろ? お前は犯人なんて知らねーだろうけど、丸腰で相手にできるような奴じゃねーらしいぞ」
「ちょ、深春……」
深春はどこまでも軽い口調でそう言いながら、すっと薫の前に立った。そして拓人の方へと一歩二歩と近づいてゆく。
「……っ……よ、寄るな!! どうして僕がお前なんかに指図されなきゃいけないんだ」
「いいから黙って保護されてろよ。お前が殺されたら、こっちの仕事が増えんだろーが。藤原さんに余計な手間取らせんじゃねぇ」
「藤原……ああ、お前らのボスか。……そんなこと、僕が知ったことじゃ、」
「いいから来い。てめぇには聞きたいことがまだまだあんだよ。一応、お前は水無瀬家直系の人間だからな。死んでもらうにはまだ早いぜ」
「は、離せっ……あっ!」
深春は拓人の手首を掴んだかと思うと、ひょいと背中の方へ捻り上げた。それだけで、拓人はその場にあっさり膝をつき、痛みを堪えるように顔をしかめている。だが、深春を睨みつける目には、薫に相対していた時の力はない。どことなく怯えを含み、虚勢を張っているような色が見え隠れしている。
藍沢が回してきた車に拓人を押し込んだ後、深春は薫に向き直った。そして、走り去っていく黒塗りのセダンを見送りながら、深春は淡々とこう言った。
「明日の朝、また北陸支部へ来るようにってさ。俺も一緒に行くよ」
「……え? あ、藍沢さんが言ってたの?」
「ああ、明日は藤原さんも一緒だ。あの人はこっちの警察の人と色々話があったみたいでさ、今日はバタバタしてたらしいぜ」
「……そうなんだ」
里での殺人はともかく、文哉は人目につく死に方をしたのだ。警察への対応についてもややこしい手順があるに違いない――薫はそう理解しつつ、どうしても気にかかっていたことを深春に尋ねた。
「それで……深春は、どうしてここに来たの?」
「そりゃ……」
深春は一瞬言葉をためらうように薫から視線を外すと、羽織っているブルゾンのポケットに手を突っ込んだ。軽い素材でできたカーキ色の上着は、深春の肌に映えてよく似合う。朝方見惚れたばかりの黒いピアスや、端正な横顔を見つめていると、やはりどうにもどきどきと胸が高鳴ってしまう。
「お前のことが気になってたっつーか……ちゃんとやれんのかよって、心配もあったし」
「……う。まぁ、確かに、深春に助けられたけど……」
「それと……」
少し低くなる声とともに、深春の頬にやや赤みが差す。
「朝のこと、なんか悪かったなと思って」
「え……」
深春は横顔のまま、ちらりと薫の方へ視線を向けると、ばつが悪そうに眉を下げた。
「まぁとりあえず……ホテル行くぞ」
「…………え? えっ? ほ、ホテルって!!??」
「? 何だよ大声出して。藍沢が俺たちのために部屋取ってくれてんだよ。ここじゃなくて、もっと駅の方に近いビジネスホテルだけど」
「あ、あ、ああ……ああ、なるほど、そうだよね!! 明日も北陸支部に行かなきゃなんだったね!!」
「そーだよ。行くぞ」
「う、うん……」
――一体何を考えてんだ僕は……。はぁ、しっかりしなきゃ。
深春が現れて浮き足立っているのが、自分でも分かる。だが、心は浮ついているものの、ついさっき拓人に投げつけられた言葉によって胸に淀んだ不安は、拭い去ることができないままだった。
+
ホテルの部屋は、当然のごとくツインであった。
狭い部屋に並んだ二台のベッドと、薄暗く照明の落としてある部屋に足を踏み入れた途端、薫の緊張感はさらに高まる。別にやましいことを考えているわけではないと思おうとすればするほど、今朝のことを思い出して気まずさが募るのだ。
だが、深春はそんなことに頓着している様子もなく、壁際のベッドに腰を下ろしてスニーカーを脱ぎ捨てると、ゴロンと横になってため息をついている。
「はぁ〜遠かったわ、さすがに」
「そ……そういえば、どうやってここまで来たの」
「車。俺、今日早出だっただろ。仕事終わって……何となく落ち着かなくて、気づいたらこっち向かってた」
「えっ、そ、そうなの?」
「京都出る前に、藤原さんに一応連絡入れてたんだ。帰れって言われるかなって思ったんだけど、薫も不慣れだろうから、ついててやってくれると安心だってメールくれてさ」
「……そうなんだ」
深春はベッドの上で肘枕をすると、窓際に佇んだままの薫をじっと見上げた。深春がベッドに寝そべっているだけだというのに、薫の全身はざわざわと落ち着かず、ぷいと目をそらして窓から外を眺めてみる。控えめな夜景が、眼下にひっそりと沈んでいる。
「あの眼鏡が言ってたこと、気にしてんの?」
「……え?」
「お前は利用されてるんだってこととか……そうだな、穢れている、とかさ」
「ああ……」
拓人にああ言われて、自分自身の立ち位置のようなものを思い出してしまったのは事実である。これまでずっと、ごく普通の高校に通い、大学受験をし、京都での出会いと再会を経て、自分はなにか『祓い人』ではないものに生まれ変わったような気がしていたのに。
「……まぁ、でも、拓人の言ってることは本当だしね。それに、藤原さんにだって、色々と思惑があるんだろうなってことくらい、さすがの僕も分かってるよ」
「そっか……」
「でも、それをひっくるめて僕を世話してやろうって言ってくれてること、純粋に嬉しかったし。初めは宮内庁の人たちに嫌われても、一緒に戦っていれば、いつか……正義っていうか、正しいものっていうか……そういうものに、なれるかもしれないって思ったりして」
「薫」
すぐそばで声がするものだから、薫は仰天してしまった。振り向くと、すぐそばに深春の顔があった。黒曜石のような黒い瞳が、じっと薫を見つめている。
「正しいとか、正しくないとか、そんなもん誰が決めんだよ」
「え……でも、僕らはずっとずっと間違ったことをし続けてきたじゃないか。祓い人は、そういう集団だもの」
「その過去と今のお前は、何も関係ねーよ。薫が悪事を働いてきたわけじゃねぇだろ」
「そ……それはそうだけど。でも」
「水無瀬拓人も、楓も、五年前の一件に関わった連中は、過去に囚われて道を誤ったんだ。でもお前はまだ、道を踏み外してない」
「……そう、だとは思うけど……」
「薫は、祓い人だった自分から逃げるために京都に来たわけじゃないんだろ? これからは、宮内庁のために力を使うんだっていう覚悟があるから、こっちに来たんだろ?」
「……うん」
「だったらさ、拓人の言うことになんて耳貸さなくていいんだよ。裏切りでもなんでもねーよ。お前は、自分の未来のことだけ考えて生きりゃいいんだ」
深春の手が、薫の後頭部をそっと撫でる。
襟足に触れる深春の手のひらは、とろけるようにあたたかい。
無意識のうちに、薫はその腕を掴んでいた。そしてもう片方の手で、ぐっと深春の腰を抱き寄せる。
「えっ……おい」
ふらついた深春を腕の中に閉じ込めて、きつくきつく抱きしめる。もっと抵抗されるかと思ったけれど、深春は身じろぎもせず薫に抱かれて、ふう……と小さく息を吐いた。
「薫……どうしたんだよ」
「……ちょっとだけ、こうしてたい」
「……。しょーがねーな」
深春の腕が、背中に回った。きゅっと優しく抱き返されて、涙が出るほどに嬉しかった。頬に触れる柔らかな黒髪に頬を寄せて目を閉じれば、全身を通じて、深春の安堵とかすかな高ぶりが伝わってくる。
それをどう解釈すればいいのか分からなくて、もどかしい。いっそ心の声でも聞こえたならば、どんなにか楽だろうと、薫は深春を抱く腕に力を込めた。
「……ねぇ、深春」
「ん……?」
「……したかったら、してもいいの?」
「え?」
朝方の会話を思い出しながら、薫は掠れた声でそう尋ねた。
「朝さ、き……キス、したくなったから、したんだよね」
「ああ……うん、まぁ、そうだな」
「なら僕も、してもいい? 深春と……キス、したい」
「……」
かすかに深春が息を呑む気配が伝わってきた。ばくばくと忙しなく暴れまわる心臓を宥めすかしながら反応を待っていると、深春はそっと、薫の肩口に預けていた顔を起こした。そして、ひたと薫を間近に見つめてくる。
身震いするほどに、艶っぽい目つきだった。こんな眼差しを向けられてしまっては、身体の方まで落ち着かなくなってしまう。普段の深春からは、想像もできないほどに色っぽい表情だ。
「……いいよ」
「っ……いいの?」
「いいよ。……薫とするの、気持ちいいし」
深春はそっと目を細めて、軽く顔を傾けた。ゆっくりと近づいてくる唇と、かすかな吐息。薫は緊張と興奮のあまり震え出しそうになっていた。
「んっ……」
柔らかいものが、薫のそれに重なった。薄く開いた深春の唇が、薫の唇を啄ばんでいる。
重なるたびに感じる弾力はリアルなのに、深春と口づけを交わしているという事実は、何故か遠い夢の中の出来事のようだった。
「は……はぁっ……」
「……息止めんなって。口、開いて」
「へっ……あの、」
「もうやめたい?」
「や……っ、やめたくない……」
「ふふっ……俺も」
深春の笑みが、ふきかかる吐息から伝わってくる。いつの間にか固く閉じていた目をゆっくりと開くと、うっとりと微笑む深春と目が合った。
――ああ……好きだな……。僕は深春のことが、好きなんだ。
改めて実感する感情に、薫は妙に切なくなった。
深春の気持ちを知りたい、深春の全てを自分のものにしたいと切望する気持ちと、現実を見たくない、知りたくない、落胆したくない……という気持ち。その葛藤ゆえに、心が悲鳴をあげている。
心がぐちゃぐちゃに乱れているせいか、深春とこんなにも深く触れ合っているというのに、今は何も伝わって来なかった。もどかしさに突かれて、ぎこちないながらも深春の口内に舌を挿入してみても、己の興奮が浮き彫りになるばかりで、深春の真意など何も分からなかった。
深春は欲求不満の延長で薫とこんなことをしているのかもしれないが、自分は違う。深春が好きだから触れたいのだ。もっともっと、深春の色んな表情を見てみたいから。
――好き、好き……好きだよ、深春。
不意に深春が腕を伸ばしたかと思うと、キスを交わす二人の姿を隠すように、背後のカーテンを引いた。部屋の中は薄暗い上に上層階とはいえ、ここは窓辺だ。薫はハッとした。
「あっ……ご、ごめん! 深春、疲れてるのに、こんなとこでこんなこと、いきなり……!」
大慌てで深春の両肩を掴んで、身体を引き剥がす。すると、深春はどことなく寂しげな色を瞳に浮かべて、数秒、薫をじっと見つめていた。
だが、すぐさま顔を伏せたかと思うと、「いや……まぁ、気にすんなって」と言い、そっと薫から離れていく。
「俺、風呂入ってくるわ。明日もはえーし、とっとと寝ようぜ」
「う、うん……そうだね」
すたすたとバスルームへ入っていく深春を見送った後、薫ははぁ…………と派手にため息をつき、ベッドに腰を落とした。じんじんと脈打つペニスを恥じるように目を閉じて、ぎゅっと唇を嚙む。
「……はぁ……もう、どうしたらいいんだ」
シャワーの水音が、部屋の中に響き始めた。
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