503 / 530

二十六、術式の支度

   比叡山の中腹にある茫洋とした空き地に、巨大な陣が描かれている。  ここは、一般の人間は近づくことのできない、宮内庁管轄の演習場である。珠生も、舜平も、幾度となくここで藤原に修行をつけてもらったものであった。  特殊な墨で描かれた複雑な陣は、五角形の中に五芒星が収められたような形をしている。その中心にはまた円陣が描かれ、天之尾羽張を安置するための小さな櫓が組まれていた。  ここが、天之尾羽張の墓だ。  あの魔剣はもうすぐ、ここで陰陽師衆によって破壊される。  陣の外で腕組みをして、珠生は地面を見つめていた。春の夜風が時折突風のように吹きすさび、珠生の胡桃色の髪を乱して駆け抜けてゆく。 「珠生、何してんねん。帰んで」 「あ……うん」  不意に背後に立った舜平を振り返り、珠生は気の無い返事をした。舜平は肩をすくめて、数歩進んで珠生の横に立つ。 「どうしたん」 「いや……別に。陀羅尼を魔境へ追い返した時とは、また違う形だなって……」 「ああ、せやな。この陣形は、俺たちの攻撃力を爆発的に高めるんやて。そうでもしぃひんかったら、あの剣は砕けへんらしい」 「ふうん……」 「俺も初めての術式やから、ちょっと緊張すんねんけどな」  と言いつつも、見上げた舜平の横顔にはどことなく高揚感が滲んでいるように見える。はじめての大技を使うことに、純粋な興味があるのだろう。真新しいおもちゃを前にした子どものような目だなと思い、珠生はふっと微笑んだ。 「ん? 何?」 「いや。楽しそうだなと思って」 「そうかぁ?」 「ま、あの剣が消えてくれれば、俺の気も落ち着くし、世間は平和になるし、いいことだらけだけど」 「その割には、なんとなく不服げやな」 「そんなことないよ。……妖気が騒いで仕方がないから、毎日落ち着かない。それにはそろそろ疲れたかな」 「そうか」  珠生はすっと手を持ち上げて、ぐっと拳を握りしめた。ざわ……ざわ……と比叡山の上空で妖たちがざわめいている気配を、はっきりと感じ取ることができた。  ついさっきも、延暦寺のそばに大物が出たのだ。それで珠生が、ここまで出張ってきたところだったのである。  自我を持たず、破壊欲求だけで暴れる妖を、宝刀で斬り伏せた。その時の感触や妖力の高ぶりを思い出すだけで、ぞくぞくと全身が身震いする。  天之尾羽張がここにあるせいで、普段よりもずっと、妖らの力は高まっている。手応えのある相手との戦闘は、珠生の中に眠る鬼の本能を揺さぶった。相手を斬り殺す瞬間に感じていたのは、荒ぶる興奮と、純粋な快感だった。  あの時、自分がどんな顔をして笑っていたか……それを舜平に見られなかったことに、珠生は密かに安堵していた。  忙しい陰陽師衆の面々の代わりに、今は、妖狩りの仕事を全て珠生が引き受けている。まさに天職だと、珠生は自嘲気味に薄く笑った。 「そういえば、深春も北陸支部に行ったらしいで。薫を追いかけて」 「……え? そうなんだ」 「深春がそんな世話好きとは思わへんかったわ。初めてできた弟分やからかな」 「どうだろうね。薫一人じゃ心配だったけど……。……うーん、深春がいても心配っちゃ心配だな」 「ははっ、お前はもっと深春を信用してやれよ」 「してるけどさ。深春が能登にいるのって、なんとなく落ち着かない。向こうが深春のふるさとだってのは分かるんだけど……」 「まぁ……向こうでは色々あったもんな。お前がナーバスになるのは分かるけど」  ぽん、と舜平の掌が頭の上に乗る。子どものような扱いに不服を感じつつ舜平を見上げると、思いの外優しい笑顔を浮かべているのでどきりとする。 「深春も成長してる。大丈夫やと思うで、俺は」 「……そ、そりゃ、俺だってそうは思うけど」 「ほんっまにお前は、悩みグセが治らへんなぁ」 「うるさいなぁ、どうせ俺は成長してないよ。ていうか、手ぇ離せよ」 「へいへい」  むっとしながら手を払いのけると、舜平はひょいと両手を挙げて降参のポーズをとった。 「成長してないとか言うてへんやん。妖気のコントロールが上手くなったな、お前も」 「うっさいなぁ。ほっといてよ」 「何カリカリしてんねん。腹減ってんのか? 久々にラーメンでも食って帰る?」 「ラーメン? ……それはいいかも」 「ほんまに腹減っててんな」 「あそこ行かない? 北白川の……」 「東龍か? ええなぁ、最近行ってへんし。湊も誘うか」 「そうだね」 と、いつしか気の抜けたやりとりになっていることに、珠生は気づいた。  こうしていつも、過去や力へ引きずられそうになる珠生の心を、舜平は自然に現実へ引き戻してくれる。意識してそうしているのか、無意識にやっているのかは解らないが、舜平の器用なバランス感覚には感心するばかりである。 「おい!! 珠生!! 舜平!!」  その時、当の湊が息急き切って駆けてくる。湊も、延暦寺の社務所で術式の準備に携わっているのだ。  社務所まで呼び出しに行く手間が省けたな……などとお気楽なことを考えていた珠生だが、湊の鬼気迫る表情から明らかな異変を感じ取り、にわかに緊張が走り始めた。 「異能感知システムにすごい反応が出てんねん」 「え、どこに? 俺、さっきここで一匹やったばっかりなのに」 「京都やない、能登や」 「えっ……」  湊は珠生と舜平の前で、手にしたタブレット端末を起動させた。  黒い画面の中に浮かび上がる日本地図。北陸方面に、真っ赤な点滅がいくつも見えた。妖の力の強さに応じて色相が変わるシステムだが、これは明らかに、人間に害を及ぼすレベルの妖が多数出現しているということを示しているということだ。 「……どうして、京都(ここ)じゃなくて能登やねん」 と、舜平の声も硬くなる。湊は眼鏡を押し上げて、二人をじっと見比べた。 「薫がいるから、かもしれへんな」 「……ってことは、駒形が、何か仕掛けてるってこと?」 と、珠生の表情が一瞬にして険しくなった。湊は慎重に頷いて、さらに続けた。 「宮内庁(おれら)は次に水無瀬拓人が狙われると踏んでたわけやけど、薫もれっきとした祓い人や。駒形が祓い人を狙う理由ははっきりせぇへんけど、無差別に祓い人を排除していくつもりなんやったら、薫だってその対象になると思わへんか」 「……そんな」  ちら、と藤原の顔を思い出す。向こうには今、藤原もいるはずだ。  いつもの笑顔で、『水無瀬拓人の保護を手伝ってもらう』と話していた藤原であるが、その裏には、もっと他の目的があったかもしれない、と珠生は思った。駒形をより確実に誘い出すために、藤原は薫を能登へ送ったのではないかと……。  ――あの人ならやりかねないな。駒形のことに関しては、藤原さんも色々と気を揉んでいたみたいだし……。  珠生が顎に指をかけて考え込んでいると、舜平がスマートフォンを取り出して、何処かへ電話をかけ始めた。珠生が小首を傾げて見上げると、舜平は「深春に連絡取ってみる」と言った。 「そうか、深春もいるんや。あいつがいれば、戦力としては申し分ないやろうけど……」 と、湊。 「ああ、普通の妖相手なら、深春がいれば問題ないだろう。でも、駒形が相手となると……どうだろうな」 と、珠生は苦い顔をする。  駒形は摩訶不思議な陰陽術を使う上に、幻術まで使うことのできる手練れだ。しかも、妖を吸収して力を高めることもできるため、その底力はレベルが知れない。  しかし、北陸には今、藤原と藍沢がいる。薫はまだ実戦に慣れてはいないだろうが、力はある。上手く駒形を抑え、確保することができたなら……。 「深春、電話出ぇへんな。……もう異変に気づいて動いてんねやろか」 「そら、そうなんちゃうか。深春は鼻が利くし」 と、舜平と湊が話す中、珠生は二人を交互に見上げてこう言った。 「……とにかく、俺たちも皆のところに戻ろう。今は動きようがないしな」 「ああ、せやな。ラーメンはお預けや」 と、舜平。 「ラーメン? 何やそれ。どこ行くつもりやってん」 と、ラーメンにうるさい湊が眼鏡を光らせる。 「珠生が腹減らして機嫌悪かったから、東龍行こかて言っててん」 「お、ええなぁ。なんや俺も腹減ってきたわ。これから缶詰になるかもしれへんし、出前頼もか」 「せやな。腹が減っては戦は出来ぬ、や」 「ちょっと、俺別に不機嫌じゃないし。ていうかラーメンの話から離れろよ!」 と、緊張感のない会話に珠生がいきり立つと、舜平と湊は同時に「おお、すまんな」と言った。  だが、そんな話をしていると腹が減ってくるのもまた事実だ。  三人は出前を頼む店を検索しつつ、延暦寺の社務所へと急ぎ足で戻った。

ともだちにシェアしよう!