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三十二、明るい知らせ
「……ひどい」
片袖を抜き、葉山彩音の手当てを受ける舜平の傍らで、珠生は悔しげに眉を顰めた。だが舜平は気丈に微笑んで、膝の上で握りしめられた珠生の拳に手のひらを重ねた。
「俺は大丈夫やって。お前に怪我がなくて良かった」
「……でも、あと少し早く、俺が天之尾羽張を砕いていたら」
「何言うてんねん、じゅうぶん早かったやん。高遠さんも、最初からお前にやってもろたら良かったなぁて言うてはったで」
「……いや。もし何もない状況だったら、俺はもっとあの剣に影響受けまくってただろうし……」
と言いかけて、珠生はハッとして手を引っ込めた。舜平の肩の傷に手をかざしている葉山の鋭い目線が気になったのである。
「あら、私のことは気にしないでいいわよ? さあさあ、ほら、どうぞ?」
「いや……どうぞって何ですか。俺は別に……」
珠生がもごもごとお茶を濁していると、舜平も照れ臭そうに目を伏せる。葉山は鼻を膨らませながら咳払いをすると、舜平の傷に注いでいた気を一旦収め、ぐるぐると肩を回した。
「ちょっと休憩。ごめんなさいね」
「いいえ、ありがとうございます。ちょっと顔色悪いんちゃいます? 大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。それにしても……ひどい目に遭ったわね」
「……」
今、陰陽師衆の皆は、御所にある宮内庁京都事務所に戻っている。少なからず怪我人が出ているため、数名が病院へ搬送されたところだ。
舜平も重症なのだが、駒形が残した蔓草の一部が絡みついていたため、まずは霊力による治療を受けることになったのだ。その蔓草は、霊力で焼かなければ枯れないのだ。
体力があり、回復力に優れた舜平だが、ここまで大きな怪我は久方ぶりだ。痛みに顔をしかめる様を見つめるたび、珠生は鉛を飲んだような重たい気分になった。
去り際に駒形が言い残した台詞のことも、気になっていた。
――あれは一体、どう言う意味なんだろう……。
藤原に尋ねてみようかと思ったけれど、何となく聞きづらいような気がしていた。
あの時、ヘリで現れた藤原たちもまた、今は京都事務所の道場にて休息を取っている。富山へ行っていた深春と薫も軽傷を負っていたが、今は別室で富山の出来事について事情を聞かれている状況だ。
その時、医務室のドアが騒がしく開いた。
血相を変えて駆け込んできたのは、彰である。
「珠生、舜平、無事か!?」
「あ……先輩」
「舜平……? なんてことだ」
剥き出しになった肩にタオルを掛けているだけの状態だが、そこにはまだ少し血が滲んでいる。いつになく沈痛な面持ちで、彰はそっと舜平の肩に触れた。
「すまない。今日はオペに入っていたから、こっちに来れなかったんだ。胸騒ぎはしていたんだけど……」
「はぁ? なんで謝んねん。お前が神妙にしとると薄気味悪いわ」
「……む、失礼なやつだ」
「今のお前は医者なんや。患者さんの方が大事に決まってるやろ」
舜平がこともなげにそう言うと、彰は眉間のしわをふっと緩めて、唇で笑った。
「……まぁ、そうだね。あ、天之尾羽張の処分、珠生がやったんだってね、大丈夫だったの?」
「うん、大丈夫。でも、思った以上に力を取られて……間に合わなくて」
と、珠生がまた沈痛な面持ちをするものだから舜平は「あーーーもーーー」と呆れ声を出した。そして、右手で珠生の髪をわしゃわしゃと搔きまわす。
「うわ、何すんだよ!」
「だから、こんな怪我大したことないって言うてるやん! 辛気臭い顔すんな!」
「う、うん……」
「それより、途中までは追えたんやろ? 駒形の足取り」
舜平の言葉に、彰が顔を上げて葉山を見た。葉山は頷き、傍らに置いてあったタブレットを手にする。
「湊くんのおかげで、異能感知システムの精度が上がってるのよ。といっても、ターゲットを絞ると、それ以外の反応を捉えにくくなるという弱点もあるんだけど」
と、葉山はサバサバとそんなことを言いつつ、飾り気のない指先でタブレットを操作してゆく。黒い画面に写っているのは関西圏の地図だった。
「駒形が移動した方向はこっち、滋賀方面よ。比叡山を超えて、滋賀県大津坂本のあたりね。掴めたのはそこまで。人間の足では考えられない速度だわ」
「ほう、亜空間を移動できるタイプの妖を飼っている可能性があるな」
と、難しげな顔で顎を撫でる彰を見て、珠生は小首を傾げた。
「亜空間って本当にあるの? しかも、人間が移動できるもん?」
「亜空間はどこにでも存在するさ。だがそこへたやすく出入りできる者は限られている」
「じゃあ……駒形はそれほど強い、ってこと?」
「いいや、力の強弱ではないんだ。その力の性質によるのさ。空間移動が得意なタイプ、って言えばわかりやすいかな?」
彰の説明を聞き、珠生は分かったような分からないような顔で頷いた。そして一言、「なるほどなぁ……便利だね」と言った。
「うん、便利だ」
と、彰が頷けば、「そういう問題ちゃうやろ」と、舜平がツッコむ。
「それで珠生の毛玉が探索に出てるってわけか」
と、舜平。
「そうなんだよ。匂いが掴めるところまでは追ってみるって……まだ帰ってきてないんだけど」
「なるほどね」
その時、治療を再開しようとした葉山を見て、彰が「あ、ダメだよ」と言った。
「え、何でよ」
「まだ調子悪いでしょ? 今朝だってもずく酢しか食べてないんだ。これ以上力を使っちゃいけない」
「昼はちゃんと食べたわよ」
「何を?」
「もずく酢よ」
「ほら……やっぱり早く帰って寝た方が」
二人のやり取りを聞いていた舜平が、ハッとしたように葉山と彰を見比べた。
「え? まさか、葉山さん……」
「え? 何?」
何も分かっていない珠生が、また小首を傾げている。
すると彰はにっこりと微笑んで、葉山の肩をそっと抱いた。が、すぐに葉山はその腕から抜け出して、ため息をついた。
「……そうなの、ごめんなさいね、こんな非常時に」
「何言うてはるんですか!! おめでとうございます! すごい、すごいやん、彰!!」
「あはは、ありがとう。体調が落ち着くまでは仕事を休んでもらおうと思ってたんだけど。ま、彼女の性格じゃ無理だよね」
と、彰が肩をすくめている。そんな彰の肩をバシバシと叩き、舜平はほんのりと潤んだ瞳で彰の手を握りしめた。
「すごい……ほんま、おめでとう! お前が……そうか、お前がな……」
「ふふ、君がこんなに喜んでくれるなんて、驚きだな」
「あ、あの……どういうこと……?」
相変わらず事情を飲み込めていない珠生が、おずおずしながら彰の腕に触れる。すると彰は改めてにっこりと笑い、珠生の肩を抱き寄せる。
「葉山さん、妊娠してるんだ」
「………………え?」
「子どもができたんだ。僕らの」
「えっ……え? ええええええ!?」
珠生の素っ頓狂な声が、医務室に響き渡る。奥のベッドで眠っていた墨田敦のいびきが、一瞬やんだ。
「う、うそ、すごい!! すごいじゃん先輩!! おめでとう! うわぁ……!!」
「ありがとう珠生。すごく幸せだよ」
「葉山さんも、おめでとうございます!! すごい、嬉しいです俺! 先輩のこと、先輩のこと……これからも……う、うっ……」
「もう……何泣いてんのよ、珠生くんたら」
これまでの佐為の人生を知るが故に、そのニュースは珠生の胸を熱く震わせた。
幼き頃の悲惨な出来事のせいで、感情を失っていた佐為。汚れ仕事を進んで引き受け、その手を血で汚しながらも、都の陰陽師衆を誰よりも尊び、守り、率いてきた。前世では誰かと番うこともなく、生涯独身を通したのだった。
だが、今は葉山というかけがえのない伴侶を得て、その腹には新しい命が宿っている――珠生は彰の両手をぎゅっと握って、何度も何度も「おめでとう、良かったね、良かった」と言った。
「珠生……嬉しいよ、そんなに喜んでくれるなんて」
珠生をそっと抱き寄せる彰の瞳も、あたたかな色を湛えている。そんな二人を見守る葉山と舜平は、視線を交わしてちょっと笑った。
「でも、まだみんなには内緒だよ? 駒形の一件が片付いてから、皆にはきちんと報告する予定だから」
と、彰。
「あ……そっか。じゃあ、とっとと片付けないとだね」
と、珠生がぐっと拳を握る。
「そう簡単にいくかどうか分からへんけど、葉山さんがのんびり産休に入れるように、頑張らなあかんな」
と、珠生の言葉を受けて頷いた舜平は、肩の痛みに「ううっ」と呻いた。
「そ……そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫よ。照れくさいわ」
皆の意気込みを見て、葉山がやや気まずげにそう言った。だが、すぐに表情を綻ばせ、「でも……みんな、ありがとうね」と言った。
「そういうわけだから、舜平の傷は僕が診るよ。あ、現代医学の方でね」
「え……怖」
「怖くない怖くない。さ、病院においでよ、僕、今夜夜勤だから」
「お、おう……」
若干不安げな舜平と、いやに楽しげに目を細めている彰を見比べ、珠生は笑った。
ここ最近、ずっと不穏な出来事が続いている中、唯一明るいニュースである。
四人はしばし、産まれてくる子どもの話に花を咲かせた。
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