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三十三、『近い』存在

   薫と深春が宮尾邸に帰宅した頃には、すっかり日を跨いでいた。  珠生の手によって天之尾羽張は消失し、駒形の手に渡ることはなかった。それは不幸中の幸いであったが、陰陽師衆は多くの怪我人を出してしまい、態勢を整えるまでにしばらく時間がかかりそうだ……という旨を藤原から聞かされた。  そして、そう語る藤原自身も、空から妖を一掃するあの術で、ひどく力を削がれてしまったらしい。  別れ際の藤原には覇気がなく、目の下には隈が浮かんでいた。「年には勝てないな、ははは」と笑ってはいたけれど、肉体的にもかなり疲労が溜まっている様子だった。  そんな藤原の姿を、深春が心配そうに見つめていた。気の利いたセリフを何も思いつかなかった自分を、薫は心底情けないと思った。  しかも、薫もまた怪我を負った身だ。駒形の傀儡とやり合った時に右肩を脱臼し、落下時にひねった右手首は腫れ上がっている。大した活躍もしていないのにボロボロだ。そんな状況も、薫をひどく情けない気分にしている。  薫がシャワーを浴びている間に、深春が起きて二人の帰りを待っていた亜樹と柚子に状況を説明していたようだ。薫がリビングに戻ると、そこにいるのは深春ひとりきりだった。 「あ……亜樹さんたちは?」 「もう寝たよ。亜樹ちゃんも柚子さんも、朝はえーからな。」 「そっか……」 「俺もシャワってくるわ。あ、それ、柚子さんが作ってくれたレモネード。美味いよ」 「わ……美味しそう」  リビングのテーブルの上には、ガラスポットに満たされたレモネードが置いてある。淡い濁りのあるレモネードから、仄かに爽やかな香りが漂っていた。  片手でグラスに注ぎ、一気に飲み干す。喉を洗うように流れてゆく爽やかな甘みは、心身ともにくたびれている薫を癒した。薫はソファに仰け反り、はぁ……とため息をつく。すると、不意に駒形の顔が蘇った。  ――忘れないでください。僕は、君のことも必ず殺す。  軽やかな口調の割に、その言葉には確固たる殺意が込められていた。細められた灰褐色の瞳は針のように鋭い視線を放ち、本当にあのまま殺されてしまうのではと……。 「はぁ……ほんっとに、情けない……」  自由のきく左手を持ち上げて、天井に翳してみた。形ばかり大きくなった自分の手のひらだが、まるで力が伴っていないように感じてしまう。それがひどく歯がゆくて、薫は奥歯を噛み締めた。 「何してんだ? まだ起きてたのかよ」 「え? あ……深春」  いつの間にか、深春がシャワーから出てきていたようだ。時計を見ると、もう三十分近くぼうっとしていたことになる。薫は軽く頭を振って、ため息をついた。すると、深春が隣に腰を下ろして、濡れた髪を拭いながら薫を見つめた。 「すっきりしねー顔だな。気持ちは分かる気がするけど」 「う、うん……まあね」 「手、痛ぇの?」 「ううん、動かさなければ大丈夫。すぐ治りそうだよ」 「そっか……」  深春はそう言って、ふう、と息をついた。そして薫と同じようにソファにもたれ、天井を見上げている。 「……あいつ、お前に何の恨みがあんだろうな」 「うん。……でも僕らは、恨まれて当然のことをたくさんしてきたから……」 「『僕ら』って? おい、今もあいつらと自分を一括りか?」 「あっ……」  無意識のうちに溢れでた言葉に、薫ははっとした。  こうして京都にいて、陰陽師衆の中に身を置いていても、薫のアイデンティティはやはり『祓い人』なのだと、自覚してしまったからだ。  里を離れて数年。薫は『祓い人』ではないものになろうとしてきた。だが、いつだって上手くはいかなかった。  『普通』の人々の中に紛れて高校へ通い、『陰陽師衆』に紛れて力を振るおうとしている自分――それはひどく宙ぶらりんで、いつだって自分の存在に違和感を感じずにはいられなかった。  笑顔を浮かべていても、心から笑ったことなど一度もない。心から分かり合える誰かが欲しくて、欲しくてたまらなかった。  そんな中、縋っていたのが深春との文通や、メールのやり取りだった。深春はいつだって大人びていて、不安定になりそうな薫を、いつだって力強く励ましてくれた。  だから、深春の属する集団の一員になりたかった。そうすればもう、孤独を感じることもないと思っていたのだが……。  何となく気まずくなって、薫はちらりと深春の方を見た。  すると、深春はどことなく、申し訳なさそうな表情をしているものだから、驚いてしまう。 「ご……ごめん」 「いや、謝んなくてもいーよ。俺こそ……なんか、ごめん」 「え? なんで?」 「……なんつーか。あんな言い方したらさ、これまでのお前の人生、否定しちまうような気がして……」 「へ」  思いがけない台詞が聞こえてきたことに驚き、変な声が出てしまう。  深春は薫に負けず劣らずバツの悪そうな顔をして、しっとりと濡れた髪をかき上げた。水気を含んだ艶っぽい癖っ毛は、いつもよりくっきりとウェーブしている。伏せ目がちな横顔や、端正な稜線を描く首から肩にかけてのラインがきれいで、うっかり視線を奪われてしまった。 「……ごめんな」  薫が黙り込んでいることを、傷ついていると勘違いしたのか、深春がもう一度謝罪の言葉を口にした。薫は大慌てで首を振り、「そんなことないって! 全然ないから!」と言った。 「ちょ、声デカイって。柚子さん一階で寝てんだからな」 「あっ……ご、ごめん」 「ったく……」  苦笑する深春をまっすぐに見つめることができなくて、薫はレモネードのグラスに視線を落とした。何だか頬が熱くて、落ち着かない。 「深春ってさ……本当に、優しいね」 「えぇ? どこが」 「優しいよ……すごく。どうしてだろう」 「……」  ――『祓い人』は、深春にとって憎悪の対象でしかないはずなのに。自分のことより、僕のことを気にかけてくれる。昔あんな目に遭ったのに、どうして、そんなことができるんだろう……。  獣を暴力で従わせるが如く、深春の首に呪鎖(しゅさ)を巻いた楓の仕打ちを思い出すにつけ、薫の胸は今も痛んだ。ぎゅっと拳を握りしめると、湿布の貼られた手首に、ふと深春の手が重なった。 「深春……?」  戸惑いがちに放たれた声は、柔らかな唇によって塞がれる。  しっとりと濡れた唇が、二度、三度と薫の唇を啄ばみ、微かに濡れた音を響かせた。重なり合う唇と吐息の隙間に、深春は小さく囁いた。 「どうしてだろうな……自分でもよく分かんねぇよ」 「え……?」 「これまでずっと一緒にやってきたみんなより……俺、お前のことを『近い』って感じるんだ」  深春はふわりと薫の肩口にもたれかかって、掠れた声でそう言った。キスをされたことにも、唐突に距離が縮まり、首筋に触れる癖っ毛がくすぐったいことにもドキドキして、心臓が破裂しそうだった。 「俺が、雷燕と祓い人の女の間に生まれた半妖だったこととか、前世で何やらかしちまったかとか、知ってる?」 「う、うん……知ってる……」 「俺、さ……マジでここにいていいのかなって、みんな俺のこと嫌ってんじゃねぇのかなって、かなり悩んだ時期があったんだ。……夜顔(おれ)みたいのが、ここにいいわけねぇだろって。みんな優しくしてくれっけど、本当は、俺のことなんてどうでもいいんだろって、卑屈になったりさ」 「そ……そうなんだ」 「お前の気持ち、何となく分かるから……そりゃ、ほっとけねーだろ」 「……深春」  腫れた手首を指先で撫でる深春の指先を見つめているだけで、胸が詰まってとても苦しい。  ずっと憧れを抱いていた深春が、薫を親しく思ってくれているということが、嬉しくてたまらない。自分は罪を抱えた一族で、誰からも受け入れてもらえない存在なのだと、諦観を抱え続けていたのに。  だけど、ほかでもない深春が、自分を『近い』と感じてくれている……そう思うだけで、急に孤独感が拭い去られたような気持ちになった。 「……だから、キスしてくれるの……?」 「だから、ってか? んー、どうなんだろ……」  理由を問われて首を傾げている深春の首筋に、薫はそっと手を伸ばした。  柔らかく脈打つあたたかな肌に触れてみると、深春はぴくりと身体を震わせ、少し眠たげな瞳で薫を見上げた。  戦闘中はきりりと引き締まった険しい顔をしていたのに、今の深春の表情ときたら、無防備なことこの上ない。薫の心臓は性懲りも無く、ばくばくと派手に暴れまわっている。  すると深春はまた少し身を乗り出し、もう一度薫にキスをした。  思わず「ひっ」と声が漏れてしまい、ふと気づくと、部屋着にしているハーフパンツの股間は膨れ上がっているではないか。それを見つけられてしまったらしく、深春の含み笑いが聞こえてくる。 「なに、お前。すげぇ勃ってんじゃん。ちょっとキスしただけなのに」 「うっ……だ、だってさ……」 「その手じゃ、抜くのも一苦労だな」 「抜く……って……そ、そんなこと、深春に心配されなくても、ぁっ……」  薫の股座に、深春がつう、と指を這わせた。敏感な先端を探り当てられ、親指が指がくるくるとそこを撫でている。驚きと羞恥、そして唐突な快感で情けない声が漏れ、薫は真っ赤になってしまった。  すると深春は喉の奥で低く笑いながら、甘さを含んだささやき声で、こんなことを口にした。 「俺の部屋、来いよ。抜くの手伝ってやる」 「へっ……!? な、なんで……!?」 「何で何でって、お前、理由ばっか知りたがんのな」  深春は薫の目を間近で見つめて、妖艶に微笑んだ。 「したいから、してるだけだっつの」

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