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三十五、距離感

   それから二週間ほどがたったある日、深春は宮内庁京都事務所の道場にいた。  藤原によって定期的に陰陽術の修行をつけてもらっているのだが、今日はその予定入っていない。  深春は時折、仕事を終えた後、道場に立ち寄るのだ。そうすれば、日常の瑣末ごとから生じる憂さを晴らすこともできるし、身体を鈍らせることもない。  道着に着替えて道場へ行くと、壁際に座る珠生の姿が見えた。  道場の中心では、道着姿の舜平がいかつい男を相手に組手の真っ最中だ。その周囲には、行儀よく正座をしたガチムチ男たちが円を描いて、雄々しい声援をおくっている。一体何をしているのかと、深春は首を傾げた。 「あ、深春」 「おう。なぁ、舜平怪我大丈夫なの? あんな動いちゃってさあ」 「うん……まだ全快ではないと思うんだけど、ここのとこずっと動けなかったから、憂さ晴らししたいんじゃないかな」 「へぇ」  珠生はやや心配そうな顔をしつつも、軽快な動きで技を繰り出す舜平の方へと視線を向けた。  聞けば、いつも珠生につきまとっている舜平のことを目の敵にしている皇宮警察官がいるらしい。珠生の美貌や俊敏さ、また見かけによらない剛力はすでに伝説となっており、顔を出せばガチムチ警察官が押し寄せる。そこへ毎度毎度割って入る舜平に対し、『なんぼのもんじゃい』と勝負を仕掛けにきたのだという。 「ええー!? 大丈夫かよ、病み上がりでさあ」 「まあ、大丈夫だと思うよ」 「へえ、さすが。余裕じゃん」 「宮内庁(こっち)に転職してから、時間があれば鍛えてたみたいだしさ」 「ふうん」  確かに、舜平の動きには危なげがない。どっしりと座った芯が見て取れるような、舜平らしい安定した動きである。  相手は、盛り上がった筋肉も素晴らしい、三十路そこそこの皇宮警察官である。名前入りの黒帯をしっかりと締めているところを見ると、かなり腕の立つ人物なのだろう。なんせ身体が大きいので、繰り出す攻撃には重みがありそうだ。だが、動きは素早い。突きは鋭く、足技にも隙がなかった。  だが舜平は、すっと腰を落として丸太のような腕をするりとかわし、流れるように懐に入り込む。そして相手の真下から掌底を突き上げ、巨体をぐらりとよろめかせた。  その虚を突いて、舜平は軸足をぐっと踏み込み、そのまま上段回し蹴りを繰り出した。それはきれいに皇宮警察官の横っ面にヒットして、相手はもんどりうってひっくり返ってしまった。  おおおっ!! と歓声とも怒声とも取れぬ野太い声が響き渡る中、舜平はふう〜……と静かに息を吐いた。深春が来る前に道着を掴まれたのか、襟が少し乱れている。そこから覗く胸筋は、確かに学生の頃よりもずっと分厚くなっているように見えた。 「すっげー!! 舜平、つえー!」 「うん、まぁまぁじゃない?」  拍手喝采をおくる深春の横で、珠生は果てしなくクールなコメントをしている。深春はニヤリと笑い、「なかなか手厳しーんだな」と言った。 「仕合う時間が長すぎる。まぁ、病み上がりじゃしょうがないけど」 「もっと褒めてやれよ。ていうか最後の蹴り、あれ、脚長くねーと出せねぇやつだよな。珠生くんだったら届かねぇな」 「そ、そんなことないよ。俺は跳ぶからいいんだ」 「なるほどね」  身長差をからかわれたと思ったのか、珠生がややムキになっている。深春は笑った。 「それに……舜平さんも、何かストレス溜まってるみたいでさ」 「ストレス?」  駒形の攻撃を避けきれなかったこと、その挙句取り逃がしたことを、舜平は今も口惜しく思っているのだという。もっとやりようがあったはずだ、もっとあの時ああしていれば、という後悔が、舜平を急かしているらしい。 「俺のことはくよくよ病だのなんだのってからかうくせに、結構舜平さんも真面目だからなぁ」 「なるほど、そーいうことか。ストレスっていうから、てっきり怪我のせいでエッチできねーからかと思ったけど」 「いや……別に怪我しててもけっこうしつこい…………って、おい!! 何言わせるんだよ!!」 「あはははっ! マジでかよ〜〜!! ラブラブすぎじゃん!! ていうか舜平しつけーの? あっはははは」 「……うう」  素直に赤くなっている珠生に和んでいると、舜平が深春に気づいて近づいてきた。 「おう深春。お疲れ」 「舜平、つえーのな。かっこよかったぜ」 「えぇ? いきなり褒めてくれんのかぁ?」  舜平は爽やかに笑い、わしわしと深春の癖っ毛を撫で回した。そして珠生の隣に腰をおろし、「もう治ったかな。まぁまぁ動けたわ」と言った。 「ていうかさ、無茶して傷が開いたらどうするんだよ。先輩や治療班の人たちの努力を無駄にするつもり?」 「大丈夫やって。あとは自分の霊力で何とでもなる」 「まだ安静にしてろって葉山さんにも言われてんのに」 「だって、身体が鈍んの困るやんか。動いてる方が怪我の治りも良さそうやで」 「どんな理屈だよ。舜海じゃあるまいし」  ちくちく小言を言う珠生にも、舜平はおおらかな笑顔を絶やさない。二人を見ていると、揺るぎない安心感が目に見えるようだ。深春はそんな二人を微笑ましく、そしてほんのり羨ましく思いながら、少し目を伏せた。  この二人は、唯一無二の関係を築き上げている。  五百年と時を経てもなお、こうして確固たる絆を繋ぎ続けているのだ。  ――どんな感じなんだろう。裏切っちまう不安も、裏切られる不安もない関係って……。  ふと、薫を想う。  薫といて居心地が良いことも、いろんな意味で放っておけない薫を可愛く思うことも、事実だ。水無瀬楓の一件に深く関わった者同士という、妙な連帯感も感じている。  だが、真剣に付き合おうと言われるとは思わなかった。深春としては、適度に温もりを分け合う程度の、中途半端な関係を望んでいた。だが、純粋な薫に対し、そういう関係を望むことは間違っていたらしい。  深春には数人のセフレがいるが、深春と真剣に向き合おうとする女はいなかった。ある女にはれっきとした彼氏がいるし、とある女は既婚者だ。フリーでいる女もいるけれど、深春の爛れた女関係を嗅ぎ取っているのか、恋人になろうとは言ってこない。  それくらいがちょうどいい。互いを縛り合わずに済むセフレ程度の関係が、深春にとっては楽だった。  高校、専門学校時代のそれぞれに一人ずつ、ごく普通のカップルのように交際してみた女はいたけれど、深春の疑心暗鬼が災いして、まるで長くは続かなかった。 『恋人』になった女が、深春以外の男と楽しげに笑い合う姿を見るだけで、激しい怒りと落胆を感じた。ただの友人だろうと頭では分かっているのに、何故だか『裏切られた』という感情が爆発し、彼女をきつく問い詰めてしまうこともしばしばだった。手が出そうになったことも、一度や二度ではない。  深春と過ごしていない間の行動の逐一が気になり、やたらとメールや電話をした。これまで深春が見知らぬ誰かを裏切っていたように、その女にもセフレがいるかもしれない。深春の見えないところで、他の男に媚びを売っているかもしれないと思うと、苛立った。  これまでの不誠実な行いが、全て自分に返ってきている――そう気づいた。  だから正直、薫との付き合いにも不安しかない。深春の行動を疎み、別れてきた女たちと同じように、薫もまた深春に失望して去っていくのではないかと。  住む家は同じだし、薫はまだ京都生活に慣れてはいない。疑心暗鬼になるポイントなど一つもないように思えるが、薫は垢抜けないところもあるが好青年で、人当たりも柔らかい。大学生活に慣れればきっと、多くの女性の目に留まるだろう。  そうなったとき、きっと深春の存在は邪魔になる。今は素直な犬のように擦り寄ってくる薫も、いつかきっと、深春を捨ててまともな道を歩き出すかもしれない。  深春とて根っからのゲイというわけではないし、薫も恐らくはそうだろう。  それならば、適度な距離を保ちつつ、薫からの好意を受け流し続ければいい――深春はそう思っていた。  だが、薫とのセックスが、深春の心と身体をぐらぐらと揺さぶっている。 『好きだよ、好きなんだ』と囁かれながら、内側を犯されるたび、この関係は本物なのではないかと錯覚する。薫こそが、深春の唯一無二なのではないかと思ってしまう。  この二週間、薫は隙あらば深春を求めてくるようになった。あの家には柚子と亜樹がいるため、行為はもっぱら声を殺して、密やかに行わねばならないというのに、薫は深春の口をキスで塞いで、思いの丈を全身全霊でぶつけてくる。  今はまだ、深春が制止すれば薫は行為を中断する。これ以上やってたらバレる、明日に響く、ケツが痛いと薫を叱れば、薫はしゅんとなってすぐに深春から離れてゆく。  だが、内から与えらえる痺れるような快感に、深春自身も癖になり始めているらしい。  薫を見れば腹の奥がずくんと疼き、体温が上がるのが分かるようになった。大抵は薫が深春を誘うのだが、怒られた次の日や、薫自身が忙しい時、何も声がかからない日も当然ある。そういう時は、馬鹿みたいに寂しくなって、どうしていいのか分からなくなってしまう。  そうして薫とのセックスに依存し始めている自分が恥ずかしく、薫の前では毅然とした態度を取ろうとしている。兄のような顔をさんざん見せてきたくせに、あっさりセックスに溺れているだらしのない男だと思われたくなかった。  どういう距離感がちょうど良いのかわからなくて、深春自身もまだ戸惑っているのだ。  だからこそ、珠生と舜平に相談してみたかった。こんな関係を、これからも続けていていいのかと。  だが、面と向かって二人を前にしてしまうと、何故だか言葉にしにくくなってしまった。深春はバシバシと頬を叩き、すっくと立ち上がる。 「俺も誰かと手合わせしてくるわ。俺もストレス溜まってんだよね」 「深春も? 仕事で何かあった?」 と、珠生が気遣わしげに深春を見上げている。深春のことを心から心配する、優しい目だった。 「んー、まあそれもあるけど、プライベートでも色々な」 「どうしたん? そういえば、二十歳になったら飲みにいくって約束、まだちゃんと果たせてへんし、行くか?」 と、舜平が誘うそばから、珠生が「けが人が何言ってんだよ馬鹿」と釘を刺す。 「じゃあ、舜平の怪我が治ったらいこーぜ」 「俺単品でよければ付き合うよ?」 と珠生が申し出てくれるのだが、深春はゆるゆると首を振った。 「いや、いーよ。ぜったい舜平が許さねーだろ」 「はぁ? いや、そんなことないねんけど……」 と、軽く口ごもる舜平を見て、深春は苦笑した。 「ほらな。珠生くん愛されすぎ」 「ちょ、こら、またそういうこと言うだろ」 「大丈夫だって。それに俺、しばらく忙しいんだ。それも落ち着いたら、付き合ってよ」 「そっか、うん。そうしよう」  珠生が微笑むのを見届けて、深春は対戦相手を募りに皇宮警察官らのほうへと歩を進めた。  手加減を忘れてしまわぬようにと気を引き締めるべく、深春はぎゅっと固く帯を締めた。

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