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三十六、歪んだ興味

 仕事が忙しいのも、本当だ。  服飾専門学校を卒業した後、深春は『Agile』というアパレルブランドに就職した。在学中も『Agile』のショップ店員をやっていた流れで、運よく社員採用されたのである。 『Agile』とは、フランス語で「軽快な」という意味だ。そのブランド名が示す通り、カジュアルで動きやすく、なおかつファッション性の高い衣服が売りである。深春がアルバイトをしていたのは『Agile』の中でも二十代〜三十代男性をターゲットにした部門で、今も同じ系列の店舗で働いている。  ファストファッションブランドに比べて価格はやや高めだが、定番アイテムから上級者向けアイテムまで幅広く商品を取り揃えていることから、若者には人気が高い。実際、深春が高校生の頃も、『Agile』のアイテムを持っていることは、ある一定のステータスになりえるものだった。古着屋で見つければ、何度も購入したこともあった。それほどまでに、憧れを感じるブランドだったのである  そして深春は今、社内で開催されるデザインコンテストに参加するべく、時間があればデザイン画を描き起こす作業に没頭している。  今回のデザインコンテストは、社内で新設されるブライダル系新ブランド『Le début』のデザイナーとして採用されるのだ。  湊の結婚式に出席して以来、深春はウェディングドレスのデザインに並々ならぬ関心を抱いていた。ドレスのみならず、タキシードやアクセサリー、小物に至るまで、全てを自分の手でプロデュース出来たらどんなに素晴らしいだろうと、夢見るようになっていたのである。 『結婚』という形式自体には何の夢も見ることはできないが、晴れの日を彩る大事な衣装には、何故かひどく心を惹かれるのだ。昔から、盛装系のファションには関心があったけれど、ここ最近は特にその熱が上がっている。  きっと、湊と百合子の幸せそうな表情や、初めて参列した結婚式の楽しい雰囲気に、大きな影響を受けたのだろうと、深春は自己分析していた。  舜平、珠生らとの鍛錬を終えた後、深春はシャワーを浴びて自室にこもり、スケッチブックを開いた。これまでにいくつか書き起こしたラフをパラパラと眺めつつ、真っ白なページを眺めていた。  そして椅子にふんぞり返ると、天井を仰いで「ハァ……どうして、うまく出てこねぇんだろうなぁ……」とため息をつく。  思い描くデザインはあるものの、それをうまく具現化できないのが、最近の深春の悩みであった。  専門学校でデザインのいろはは学んだものの、そこから形にしていくのは難しい。対人作業である接客は得意だが、これは自分と向き合う作業だ。深春は、それがあまり得意ではない。  外面のいい深春にとって、ショップ店員はやりやすい仕事だった。  スタイリッシュな服に身を包み、快活な笑顔を絶やさず、『ブランド側』の人間の顔を保っている間は、何だか息がしやすいと感じた。深春が見立てた衣服に身を包み、満足げな表情を浮かべる客の顔を見ていると嬉しかったし、張り合いもあった。  実母に捨てられ、実父からの虐待に怯えていた幼少期であるとか。常に飢えと不潔さに身を縮め、惨めさを抱えながら生き延びた小学生時代であるとか。セックスと暴力にまみれていた中学時代のことであるとか。宮内庁に保護されて以降に巻き込まれた、血なまぐさい一件のこと――そういったことを、忘れることができたからだ。  今も夢に現れ、深春を不安定に落ち入れる前世の記憶のことも、考えないで済んだ。  小学生の中学年の頃、父親が連れ込んだ派手な女が、深春にファッション誌を見せてくれたことがあった。昼夜を問わず淫らな声を響かせて、時に幼い深春をセックスに誘うようなふしだらな女だったけれど、その女はまるでモデルのように美しかった。 『こういう服着てるとさぁ、バカにされずに済むんだよねぇ』  舌ったらずな口調で、その女は深春に微笑みかけた。綺麗に磨き上げられた赤い爪で、その女はトントンと雑誌の紙面を叩きながら、『ほら、これなんてきれいじゃない?』と、上機嫌に目を輝かせていたものだった。  本来なら、図鑑や児童書を楽しむような年齢だ。こども向けの愛らしい絵柄で描かれ、やさしいひらながで書かれた物語などが、一般的にはふさわしいものであっただろう。  だが、その女の愛読する分厚いファッション誌には、深春の知らない眩しい世界があった。  自信に満ち溢れたモデルたちが颯爽と着こなす、ハイブランドのきらびやかな服の数々。人形のように整った外国人モデルたちは、深春には持ち得ない強さ、そして眩いほどの自信を身に纏っているように見えた。  だからだろうか、幼心に、そのきらびやかな世界に強く惹かれた。決して幸せではない日々の中、それが心の拠り所となっていたことに気づいたのは、ずっと後のことだったけれど。  少しずつ成長してゆくにつれ、深春の容姿は決して見劣りするものではなく、むしろ周囲よりも殊更に秀でたものであると褒めちぎられるようになった。それが、深春の初めての自信となった。  父親が連れ込む女たちに、セックスを学んだ。小学校を卒業する頃には、深春は自分の顔や身体を餌に、その日の食事や、雨風をしのぐ場所を掴み取るようになった。自分を飾ることは、深春にとって生きる糧だったのだ。  アパレル業界の仕事に携わることができると決まった時、深春はそれを心から喜んだ。  やっと自分も、薄暗い世界から抜け出せる。まばゆい世界の、そちら側へ行けるのだと、安堵した部分もあった。  当然、珠生らとともに力を揮えることは嬉しい。珠生や舜平のことは大好きだし、藤原のことは父のように慕っている。役に立ちたい、そう思う。  だが霊力を使えば、己の中の暗い澱みが、どろりと溢れ出す感覚が拭えない。その後必ず襲いかかる不安定な揺らぎに、深春はいつも苦しめられていた。  だが、一般的な社会人の顔をしていられる時は、自分の惨めな過去を忘れていられた。  にこやかに働く深春の過去に何があったかということなど、誰も想像しないだろう。  おしゃれで、かっこいい、ごくごく普通の若者――そういう自分で居られる時間は、深春にとって必要なことなのだ。  スケッチブックに向かって線を走らせていると、コンコン、とドアがノックされた。大して集中できていなかったこともあり、深春はすぐに「はーい、何?」と声を上げる。  すると、静かに開いたドアの向こうに、盆を手にした薫が立っている。盆の上には、湯気の立つマグカップが乗っていた。 「今、いい? 柚子さんもう寝るから、代わりに持って行ってやってくれって」 「ああ……サンキュ」 「作業、進んだ?」 「いや……あんまり」  マグカップを受けるとき、薫の手に指先が触れた。深春は何も感じなかったが、薫はぴく、と肌を震わせ、ハッとしたように深春を見つめている。 「珠生さんと会った?」 「え?」 「あっ……! ご、ごめん」  なるほど、妖の記憶を読み取るアレか――と思い、深春はくるりと椅子を回転させて薫に向き直る。良い機会なので、気になっていたことを尋ねてみることにした。 「お前のそれは無意識なわけ? 今何が見えたんだよ」 「ごめん。不必要な時は感覚を遮断できるように、修行しているところなんだけど……」 「謝んなくていーって。で、どうなの」  詰問されているように感じるのか、薫はそこはかとなくばつが悪そうな顔をしながら、浅くベッドに腰を下ろした。  髪を切ったばかりの薫の横顔は精悍だ。ひ弱そうだった中学時代の薫とは大違いに、堂々とした体格に成長しているのが、なんだか眩しい。 「……直近の記憶とか、感情を大きく揺さぶられるような記憶は……写真みたいに、パッて見えることがあるんだ」 「感情を揺さぶられる? あー……久々に珠生くんと手合わせして、だいぶ燃えたから、それか」 「手合わせ、だったんだ」 「はぁ? 他に何があるってんだよ」 「う、うん、そうだよね」 「で? 俺、お前とここんとこエッチしまくってるわけだけどさ、その時もなにか見えんの?」 「うう……」  別に怒っているわけではなく、純粋な興味なのだが、腕組みをして踏ん反り返っている姿勢が良くないのか、薫のこめかみにさらなる冷や汗が伝っている。 「……してるときは、フラッシュバックみたいに、深春の記憶が流れ込んでくるんだ」 「へー、どんな?」 「男相手にってとこで、状況が似てるからかもしれないけど……中学生の時の、その……ヤクザとの、こととか」 「へぇ、まじか。懐かし」 「女性との、いろいろ、とか……」 「なるほど、ヤってる最中はエッチしてる時の記憶が蘇んのか。よく萎えねーなお前」 「その時は、し……してることに夢中だから、気にならないんだけど。後で、夢に見るんだよ」 「……ふーん。それ、どーなの、お前的に」  薫は困ったような顔をして、ちらりと深春を見た。  誠実そうに整った薫の瞳が、どこか申し訳なさそうに揺れている。 「最初は複雑だったけど。でも今は、深春のことを知れてよかったかも……って思ってる。あ、でも、覗き見されてるような感じがするだろうから、深春は嫌だろうけど……」 「いや……別に俺はいーよ。話す手間も省けるし」 「……そっか」 「チューとかじゃ読めねぇの? 俺の記憶」 「うん、映像になってまでは、視えない。その時の深春の気分がなんとなく伝わってくるくらい、かな」 「へぇ」  薫の言葉にうなずきかえしながら、こりゃおちおちセフレと連絡取れねーなと思った。  だが、そんなことを思ってしまう時点で、自分はなかなかクズだとも思う。だが同時に、セフレとのセックスを覗き見た薫がどういう反応をするのかということを、確かめたいという、妙な興味まで湧いてくる。  ――キレる? それとも泣く? ……どんな顔すんのかな。  そして、ハッとする。何ということを考えているのかと。深春は軽く頭を振り、ため息をついた。  ――……いや、んなことしちゃダメだ……ダメに決まってんだろ。試すまでもなく、薫は俺のこと好きなんだ。  どうしてか、一途な気持ちを向けられれば向けられるほど、この優しげな顔が憎しみに歪むところを見てみたくなる。そして激情に身を任せたとき、薫がどういう行動に出るのかということにも……。  ――どうかしてる。……良かった。考えの全てが読み取られるわけじゃなくて……。  深春は椅子から立ち上がり、薫の隣に腰を下ろした。そして何の前触れもなく、身を寄せて薫にキスをする。驚いたような、そしてじわりと興奮が滲み始める薫の表情に、深春は満足げに微笑んだ。 「み、深春……?」 「なぁ、他には俺の何、知ってんの?」 「え……?」 「ガキの頃のことも、視えた? 母親に捨てられて、父親にボッコボコに虐待されて、飯も食えねぇ惨めなガキの俺、視えた?」 「……っ」  息を飲む薫の反応で、「ああ、そこまではまだ知らなかったのか」と思った。だが、今深春がその記憶を腹に抱えながらセックスをすれば、薫は深春と同じ苦しみを夢の中で味わうのだろうか。 「ふっ……ん、ん」  濡れた舌で薫の口内を舐りながら、深春は薫の手を取って胸元に触れさせた。 「なぁ……エッチしたいんだけど」 「えっ……え、でも」 「何? したくねーの?」 「う、ううん、したい……」 「ふふっ……素直じゃん」  深春の許可がでたためか、薫の手が自発的に動き始める。胸の尖を探り当て、タンクトップ越しにそこを擦られて、深春は「は……」とため息を漏らした。 「なぁ……舐めてよ、ここ。お前が開発したんだから、責任とれよな」  そう言いつつ、押し倒した薫の上に覆いかぶさり、ゆるいタンクトップの肩をずらして乳首を見せつける。すると、薫はごくりと喉を鳴らして、「う、うん……」と頷いた。  舐めやすいように上体を下げてやれば、遠慮がちに伸ばされた舌先がそこをくすぐった。熱く濡れた舌がうねるたび、深春はビクッ、ビクッと身体を震わせ、溢れそうになる声をぐっとこらえる。  する……とハーフパンツの中へ忍び込んできた薫の手が、深春の尻を揉みしだき始めた。ぐ、ぐに……と、尻を包み込む手は、思いの外大きい。同時に双丘の割れ目をいやらしくなぞる指先に、深春は「ぁ」と甘い声を漏らした。 「ん……は……あっ」 「腰、すごく動いてる。……深春、気持ちいいの?」 「ンっ……どうでもいいだろ、そんな……」 「上になってもいい? 深春の顔、見たい」 「それはいやだって……わっ」  抱き込まれたかと思うと、そのままぐるんと体勢が逆転し、薫に見下ろされる格好になっていた。  手荒くタンクトップを捲り上げられ、乳首にむしゃぶりついてくる薫の頭を抱きながら、深春は拳を唇に当てて声を殺した。そうでもしなければ、女のような情けない声を上げてしまう。  だが、薫は深春の手首をぐっと掴んで、強引にベッドに押し付けた。  穏やかで誠実そうなあの瞳が、今は欲に濡れた雄の目をしている――その薫の変化に、深春はゾクリと昂ぶった。深春の行動ひとつで、こうも余裕を失う薫のことがいじらしくて、可愛いのだ。  そして何故だか、もっともっと、この顔を醜い感情で歪めてみたい……そんなことを思ってしまう自分に、深春は心底失望した。

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