515 / 533
三十八、裏切り
「じゃあ、留守番お願いね」
「はい、気をつけて」
「あんま部屋散らかしたらあかんで。深春にもよう言うといてや」
「うん、分かりました」
「お土産買ってくるからね〜」
連れ立って出かけていく亜樹と柚子の姿は、まるで本物の親子のようだ。
広島の厳島神社で行われる神事のため、二人は一週間ほどこの屋敷を留守にするのである。深春はとっくに仕事に出かけて行ってしまったため、見送りは薫一人だ。
ここへきて三ヶ月が経ち、宮尾邸での暮らしにも、だいぶ慣れた。
高校時代も寮生活であったため、他人と長時間過ごすことには慣れているつもりだったが、最初はこの独特なメンバーに戸惑いを隠せなかったのも事実である。
深春も亜樹も異能者である上、柚子も元宮内庁特別警護担当官。
ただの『穏やかな普通の家族』にしか見えないこの家のメンバーは、皆が当たり前のように霊的なものを受け入れ、この国の裏歴史に深く関わってきた人々なのだ。家の中には独特の緊張感が漂っていて、それに慣れるまでに時間がかかった。
だが、柚子はそんな薫にいつも細やかな気遣いをしてくれたし、口調だけはつっけんどんな亜樹も、ことば少なではあるが、薫を静かに見守ってくれている。『うちも人見知りが激しいねん』と言いつつも、食事時に顔を合わせれば、いつも大学生活のことや、修行の話を聞いてくれた。
徐々に、徐々に、薫は宮尾邸での暮らしに、新たな絆を見いだせそうな気がしていた。
深春も、亜樹と柚子にはすっかり気を許している。そんな深春の姿を見ていると何だかとてもホッとする。亜樹との気の置けないやりとりは本物の姉弟のようで、小さな喧嘩などはしょっちゅうだ。その内容も大したものではなく、「自分の洗濯物くらい自分で部屋運べや!」「うっせーな、ついでなんだからそんくらいやってよ」「はぁ!? それが人にものを頼む態度かドアホ!」「へーへー、すんません」といった、どこにでもありそうなやり取りだ。
そこまでの親しさにはまだ辿り着けていない薫だが、自然体で過ごす深春を見ているだけで、何故かとても幸せだった。
本当は、深春の過去を垣間見ているせいだろう。
セックスをすることで、思いのほか深い部分まで、深春の深層を覗き見してしまっているようなのだ。
普段は明るい深春が抱える深い闇を夢に見るたび、その人生の困難さに涙が溢れた。だからこそ、深春のこれからが、平穏で幸せなものであれと願わずにはいられないのだ。薫にそんなことを願われるなど大きなお世話かもしれないが、時折布団に忍び込んできて眠っている深春の寝顔を見つめるたび、胸が締め付けられるような思いがしていた。
だが、身体を許してくれてはいるものの、本当に『恋人』として認められているかどうかは分からず、自信が持てないままだ。夜、部屋で声を殺してセックスをする以外、これといって恋人らしいことをしたことはない。
「……どこか、出かけたりとか……したらいいのかな。いやでも、深春は忙しそうだし……」
朝食の食器を洗いながら、薫はふと呟いた。
今日は日曜だが、夏休み前に提出せねばならないレポートの期限が迫っている。そのため、今日は勉学に勤しむつもりでいたけれど、初めてこの家に二人きりという開放感も手伝って、薫は落ち着かない気分だった。
「ま、まぁいいや。とりあえずやることをやろう」
薫はそうひとりごち、いそいそと食器洗いを終わらせた。
+
レポートと慣れない家事に追われているうち、気づけば日が暮れていた。夏は日が長いというのに、外はもう真っ暗だ。だが、深春はまだ帰ってこない。
夕飯にと思い作ったカレーの鍋をかき回しながら、薫はキッチンのはめ殺しの窓を見つめた。レトロな色ガラスには年代物らしく、分厚くて少しくすんでいる。
――深春、遅いな……。
メールでも送ってみようかと思い立ったその時、ガチャリと玄関で鍵が回る音が聞こえてくる。薫はコンロの火を消して、リビングの方を覗き込んだ。
「おかえり、深春」
「ああ……おう、ただいま」
どこか疲れた様子の深春が、斜めがけにした黒いカバンをソファに放り投げた。そしてどさりと腰を落として、「はぁ〜……疲れた」と呟いている。
「どうしたの? あれ、酔ってる?」
「おう。……こないだの、デザコンの結果出て……」
「えっ、そうなんだ!? どうだったの!?」
「やっぱ落ちてた。そんでそのまま、見事優勝した先輩のお祝いってことで、飲みに行ってきたってわけ」
「……そうなんだ」
深春は自嘲気味に笑うと、どこか物悲しげな瞳で天井を見上げた。薫は何も言えないまま、キッチンでグラスに水を注ぐ。
「……残念だったね」
「まあ……しょーがねーよな。自分でもしっくりきてなかったんだ。実力不足だな」
「うん……」
「ま、先輩に花持たせられたわけだし、今回はしゃーねぇわ。ははっ……」
口元では笑っているが、深春の落胆は目に見えて明らかだった。なんだかんだと言いながら、日々コンテストに向けて頑張っていた深春の姿を知っているだけに、やりきれない感情が湧き上がる。
そんな深春を少しでも慰めたいと思い、薫は項垂れた深春の肩に手を触れようとした。
だが、深春は薫の手が接近するのを見るや否や、すっと身をかわしてそれを逃れる。
「っと……」
「あ……ごめん」
「いや……」
落ち込んでいる感情など読まれたくはないのだろうが、こんなにも露骨な拒絶は初めてで、傷ついてしまう。持ち上げた手を持て余していると、深春はどこかバツの悪そうな顔をして、すっくと立ち上がった。
「……あー、腹減った。飯食おうぜ、カレーだろ? いい匂いだな」
「う、うん……」
「じゃ俺、手ぇ洗って……」
薫の前から立ち去りかけた深春の手首が、目の前を通り過ぎようとしている。黒い革製のブレスレットが映える
手首から、ふわりと嗅ぎ慣れない香りを感じ取った薫は、とっさのように深春の手を掴んでいた。
「っ……!」
その瞬間、バチッ、バチッ……と深春の記憶が脳内に閃く。
婀娜っぽい魅力のある髪の長い女が、豊満な胸を見せつけるようにのしかかってくる映像だった。
赤い唇は妖艶に吊り上がり、今、薫が掴んでいる深春の手を胸元に導く女の長い爪が、ぎらりと禍々しく光って見え――
弾かれたように手を離すと、深春が眉根を寄せて薫を見下ろしていた。その表情の意味を推し量る余裕もなく、薫は立ち上がって深春の肩を荒っぽく掴んだ。
「……なんだよ、今の」
「……はぁ? お前、また勝手に」
「髪の長い女の人が見えた。裸の」
「……ああ」
深春は諦めたようにため息をつき、癖のある髪をくしゃりとかき上げた。そして、どこか挑発的な目つきで薫を見上げ、イメージの中の女と同じように、唇を吊り上げてにぃと笑った。
「むしゃくしゃしてたからな、セフレとヤってきたんだよ」
「セフ……っ……え?」
「んだよその顔。ストレス発散しただけだろーが。ていうか、もう離せ」
「……深春!」
ぐい、と薫の腕を外そうとした深春の手首を、力任せに掴んだ。思いの外その手首が細いことも、今の薫はよく知っている。抱いている時、その長い指に指を絡めれば、甘えるように握り返してくることも。
そういう仕草が愛おしい。薫の愛の言葉に嬉しそうに肌を震わせる深春の表情も、感じている時は妙に寡黙な深春の反応も、絶頂するときに薫にすがろうと腕を伸ばす様も、潤んだ漆黒の瞳も、押し殺した声も、全てが愛おしく大切だと思っていたのに。
深春を、手に入れたと思っていたのに――
掴んだ手首を、勢いよくソファに押し付ける。傾いだ深春の身体がソファに倒れ込むのを見るや、薫はその上に覆いかぶさり、骨が軋むほどの力で深春の手首を握りこんだ。
「ってぇな……!! 何すんだよ!!」
「許さないよ。僕以外の人間に身体を許すなんて」
「はぁ!? いいじゃねーか別に、男にヤラセたわけじゃねーんだから!」
「男だろうが女だろうが関係ないよ。僕はね、誰にも、深春に触れて欲しくないんだ」
「んだと……?」
ギロ、と深春の目に鋭いものが走る。深春が本気を出せば、薫が敵うわけがないと分かっている。だが、今はどうしても深春のことを許せなくて、薫は目に力を込めた。
「深春は、僕と付き合ってるんだろ? 僕以外の人間と、セックスなんかしちゃいけないんだ」
「ふっ……調子乗ってんじゃねーよ。いいじゃん別に。大げさなんだよ。女とのセックスなんて、ただの遊びだろ?」
「遊び? ……僕を裏切っておいて、遊びだっていうの?」
唐突に爆発した怒りに任せて、薫は深春のシャツを引き裂いた。ぶちぶちっとボタンが飛び、床に転がる音がかすかに響く。
あらわになった白い肌、そして夜毎薫を高ぶらせる薄桃色の尖りが、薫の激情をさらに煽った。それをどこの誰とも分からない女に触れられたのかと思うと、マグマのように憎悪が湧き上がる。薫は深春の首筋に歯を突き立て、膝で深春の股間を強引に押しつぶした。
「アっ……!! っつ……っ、ン……!!」
「遊び? ……そんなの、許せないよ。ねぇ、どうしてそんなことができるの?」
「痛……っ、やめろ、かおるっ……!!」
「僕はこんなに、深春のことを愛してるのに。どうして? 僕のセックスで、深春はあんなに幸せそうな顔をしてくれてたのに、どうして僕を裏切るの?」
「っん、ぁっ……!!」
肩口から流れ落ちた血を舌で舐め取りながら、ぐり、ぐりと膝で股間をいたぶった。痛みに顔をしかめつつも、決して薫に屈しようとしない反抗的な眼差しに、なぜだかゾクゾクと劣情を煽られる。
「ねぇ、深春……どうして?」
「うっせぇな……俺だって、男だ。挿れられるばっかじゃ、もの足りねーんだよ」
「だから、女の人を抱いたの?」
「だったら何だっていうんだよ。お前も脱童貞したなら分かんだろ? ちんぽで相手ヨガり狂わせる楽しさってやつをよ」
「そんなの……分からないよ……!!」
混乱し、荒ぶる感情に理性を奪われ、薫は声高にそう叫んだ。
ただ、信じられなくて、悲しい。
深春の首を掴んでソファに押し付けながら、苦痛に歪む深春の表情を見下ろす薫の瞳に、赤黒い光が揺らめいた。
ともだちにシェアしよう!