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二十五、不安と恐怖
珠生はじっと黙りこんで、闇色に染まる車窓を見つめていた。
そして舜平は、いつもよりも鋭く尖ったような珠生の雰囲気を間近に感じながら、慣れた手付きでハンドルを操作し、山道を降りていく。しんと静まり返った車内だった。
「舜平さん……」
「ん?」
「あの、ちょっと止まってもらってもいいですか……」
「あ、おう。ちょい待ちや」
舜平はカーブを曲がって、ちょっとした待避所に車を寄せた。車が停まると、珠生はぱっとドアを開けて外に出ていってしまった。
「あ、おい! 危ないぞ!」
舜平は慌てて車を降り、助手席側に回る。するとすぐそこで、珠生が四つ這いになっていた。暗闇の中でうずくまる珠生は、はぁはぁあと肩で激しい呼吸をしている。
「どうした!? 気持ち悪いんか?」
「……ちょっと」
「そうか」
舜平は珠生の背を撫でた。ニットのカットソーを着た薄い背中は、熱っぽく少し汗ばんでいる。
「熱あるんちゃうか? ……いきなりおかしな話聞かされたからかな」
「俺、どうなっていくんだろう……」
「え?」
珠生が重たい動きで顔を上げる。その表情は、ひどく苦しげに歪んでいた。真っ暗な山道の中、ハザードランプの点滅を受けて、珠生の目からは今にも涙が溢れ出しそうに潤んでいた。
「珠生……」
「俺は、どうなるの?転生を遂げて、妖気が戻って、この国を護る結界を張る? なんだよそれ、訳分かんないよ……!! そうなったら、今までここで生きてきた俺って言う人間は、一体どうなってしまうっていうんだよ……!!」
舜平は咄嗟に、苦しげに声を上げる珠生を抱き寄せた。そして、別れ際に彰が口にした言葉を思い出す。
――君が転生を遂げることを、僕らは切に願っている。
大人しく彼らの言葉を聞いていた珠生だったが、その内心、芯から混乱して怯えきっていたに違いない。舜平は震えながら嗚咽を漏らす珠生の肩を強く強く抱きしめながら、自分自身にも言い聞かせるように言葉を繋いだ。
「そんなことない。珠生は珠生や。昔のことを思い出すだけやって、あいつらも言ってたやろ」
「でも……でも……怖いんだ。怖いよ、舜平さん……!」
珠生はぎゅっと舜平にしがみついた。舜平はしっかりとその身体を抱き返しながら、震える珠生の髪に頬を寄せる。
「……俺が俺で無くなるよ……きっと……」
「珠生、お前はお前や。しっかりせぇ。それに、俺はお前がどうなっても、絶対にずっとそばにおる。大丈夫や。何があっても俺がお前を守ったるから」
「……」
「俺ら、前世からの付き合いらしいやん。俺には何も遠慮することなんかない。不安なことも、怖いことも全部、なんでも受け止める」
珠生の手が、舜平のパーカーを握りしめる。珠生の華奢な背に回した両腕に力を込めて、舜平は更に強く抱きしめた。ぴったりと密着する身体から、お互いの鼓動を感じる。
「……はい」
恐ろしくて、不安で、理解が追いつかなくて混乱していたぐちゃぐちゃの心が、舜平の大きな身体に抱きすくめられていれば凪を取り戻す。舜平と触れ合うことで心が穏やかになるという事実を、そろそろ認めざるを得ない状況になってきていることに珠生は気がついた。
いつもこうだった。初めて会った時も、そうだった。
きっと、遥か昔から……。
珠生はふと、この間のように舜平と唇を重ねたいと願っている自分の気持ちに気づき、ぎょっとした。抱きしめられるだけじゃなくて、キスをして、舌を絡め合って、そのまま舜平と交わってしまいたい。そしてもっと深いやすらぎと快感を与えて欲しいと……。
そんな思考を振り払うべく、珠生はぶんぶんと頭を振って、敢えてぶっきらぼうな手付きで舜平を押し返す。
「あの……苦しいです」
「あ……悪い」
珠生の非難めいた声に、舜平はすぐさま身体を離した。そしてすいと立ち上がり、珠生を引っ張りあげて立たせた。
「……すいません、取り乱して」
「そんなんええって。無理もないやろ。この数日、意味の分からへんことばっかりやったしな」
「……ええ」
「お前、やっぱり熱っぽいわ。はよ帰ろうな」
「……はい」
舜平は助手席のドアを開けて珠生を座らせた。そして自分も車に乗り込むと、ハザードランプを切ってエンジンをかける。
「何で舜平さんは、俺にこんなに親切にしてくれるんですか?」
「……そんなこと、分からへんよ。親切にしようと思って、誰かに親切にするもんでもないやろ」
「……そうなのかな」
「珠生見てると、つい何かしてやりたくなってまう。ま、これも前世からのご縁なんちゃうか?」
「そうかもしれませんね」
珠生は深くため息をつくと、シートに深く沈み込むように力を抜いた。
「寝てていいで。着いたら起こす」
「……はい」
珠生は目を閉じた。心地良い車の揺れと、舜平の纏う穏やかな空気が珠生を包み込む。
ああ、これが霊気、ってやつ……なのかな。確かに前は感じなかった波紋みたいなものが、肌を通じて伝わってくるような気がする。舜平さんの気、力強くて暖かい。落ち着くな……。
そして珠生はそのまま、眠ってしまった。
✿ ✿
ふと目を開けると同時に、鋭い痛みが体中に走った。
「あっ……っつ!!」
「おい、まだ起きたらあかん」
弾かれるようにして声のした方を見ると、焚き火の向こうに、法衣に甲冑を付けた大柄な男がいた。錫杖に体重を預けるように座っているその男の顔は、見慣れた舜海のものだった。
「……お前か」
「いくらか傷は塞いだんやけど、損傷は深い。もう少し俺の気が回復したら、また治したるから」
「……お前がやったのか」
弾けるように裂かれた傷があった部分には、痣が残る程度。血はすっかり止まっている。ぱっくりと割れていた額の傷も、もうそこには存在しない。
「ああ、お前の馬鹿力がないと、俺らもなかなかに困るからな」
舜海は気持ちよく歯を見せて笑った。その笑顔から安堵をもらうが、気が抜けると同時に身体の重みを感じずにはいられない。
「光政は?」
「大丈夫、無事や。本陣におる」
「そうか……」
ごろりと、草原の上に寝転ぶと、ちくちくとした感触が背中に当たる。ひんやりとして心地いい大地の気を身体に染み渡らせながら、千珠は目を閉じた。
「少し寝る……」
「ああ、そうせぇ」
舜海の声が、遠くなる。すうっと引いていく波のように、意識が深く深く、沈んでいく。
✿ ✿ ✿
マンションの程近くに到着し、舜平は車を止めた。サイドブレーキを引いて珠生を見ると、車が止まった微かな揺れで、長い睫毛がぴくりと動く。ゆっくりと開かれる目はぼんやりとして、虚ろだ。声をかけようとした瞬間、珠生はぽつりと妙なことを呟いた。
「舜海……俺はどれくらい、寝てた?」
「えっ……」
「……のんびりはしていられない。早く光政と合流しなくては」
身を起こしかけた珠生の口調は、普段のものとはまるで違っていた。どことなく威圧的で、決然とした口調だ。そしてそのその目つきも、いつもの穏やかな珠生の眼差しとはまるで異なる。凛として鋭く、油断のない目をしていた。
――これが、千珠。あいつらの言う、半妖の鬼……。
ふと、ぽかんとして自分を見つめる舜平に、珠生は怪訝な表情を浮かべた。
「お前……何だその格好。それに……ここは……」
珠生はぐるりと周囲を見回す。すると、みるみるその瞳が、大きく見開かれた。
「なんだ……これは」
「珠生! 珠生!!」
驚愕の表情を浮かべる珠生の腕をぐいと引くと、両肩を掴んで自分の方を向かせた。不安げに揺れていた珠生の目が、舜平に焦点を結ぶ。
「夢、見てたんやな?こっちが現実や。お前は沖野珠生やろ?」
「……あ」
珠生ははっとしたように瞬きをすると、頭を押さえた。そして、呟く。
「……俺、今変なこと言いましたよね」
「……そやな」
「本当にリアルな夢……気持ち悪い……」
「あいつらに妙な話聞いたところやったしな、しゃあないわ」
「あ……もう家……?」
珠生は数メートル先に見えるマンションを見てそう呟いた。数時間離れていただけの場所なのに、ひどくその場所を遠く感じる。
――父さん……。俺の父親。
慣れた我が家で待つ、父・健介の平和な笑顔が見たくなって、珠生はいそいそとシートベルトを外す。
「遅なってもうたな。先生、怒ってへんやろうか」
「大丈夫ですよ。女子じゃないんだから」
「……大丈夫か、身体は」
「はい、大丈夫。一晩寝れば……きっと」
珠生は言葉を切った。寝れば、また前世の記憶を見るのだ。人間ではない、あの千珠という前世の自分の人生を、再び体験するために。
舜平もそのことを考えていた。今の自分達にとって,眠るということは休息を意味しない。
「しんどなったら、いつでも電話してこいよ」
「……ありがとうございます」
と、珠生は力なく微笑んだ。
その笑顔に、舜平はまた胸をぎゅっと掴まれるような心地がした。しかし前世での二人の関係性を聞き、さらに現世でも珠生の力になれる可能性を感じることができた舜平は、その気持ちを徐々に受け入れつつあった。
さっき珠生に言った言葉は全て、本心だ。珠生の力になりたい、そばにいて、守ってやりたい。そう思うこと自体が自分にとっては自然なことなのだと、舜平は理解し始めていた。
「夜中でもいいからな」
「はい。……おやすみなさい」
珠生は弱々しい笑顔を残してドアを閉め、小走りにマンションの中へと消えた。
舜平はしばらくその場でぼんやりとしていたが、ふと、携帯電話の存在を思い出して手に取ってみる。
そこには、梨香子からの着信が数件残っていた。
舜平はため息をつくと、画面を消してすぐにパーカーのポケットに戻す。
今は、梨香子の相手をしている心の余裕はない。
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